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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【創世記11:1~8】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

現代のように複雑で多岐にわたる対人関係の中で生きていくことは、だれにとっても大変なことです。多くの人々が対人関係で悩み、心を痛め、時には傷つきながら日々を過ごしていると言っても過言ではありません。

ある人は親しい友人がほしくても、なかなかできないと言い、またある人は、人を愛することができず、人から愛されないと言って悲しみ、さらに、人は自分の考えをなかなか理解してくれないと言って嘆きます。

これらの悩みを一つ一つ数え上げたら限りがありません。「対人関係で悩むことは、生きている証拠だから・・・」と言ってみても、問題の解決にはなりません。

ところでわたしたちが悩むのは、一体どんな時でしょうか。それは自分の考えが、なかなか思い通りに他者に伝わらない場合が多いようです。人間は元来とても自己中心的です。自分中心に物事を考えることに慣れていますから、思った通りに事が進まないと面白くありません。自分の考えを通すことに急なため、他者の意見を十分に聞くことをせず、他者の気持ちを損なっていることにも気付かず、対人関係をダメにしてしまっている場合がよくあります。

旧約聖書の一番初めの創世記(2~3章)には、有名な「アダムとエバ」の物語が記されています。神が「とって食べてはいけない」と二人に命じられたエデンの園に植えられた「善悪の知識の木」の実を、蛇にそそのかされたエバが取って食べ、アダムもエバから渡されたその実を食べてしまいました。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」と神から問われたアダムは「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答え、エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えました。

アダムとエバの信頼関係は、神からの叱責を逃れ、自分の立場を守るために自己弁護し、他者に責任転嫁することによって、失われてしまいました。「だれだれさんがやれと言ったのでやったら、こんな結果になってしまったんだ」と言って悔やんだことはありませんか。責任転嫁とは自己弁護し、自分では責任を負わず、その責任を他者になすりつけることです。これまではうまくいっていた対人関係が、何となく気まずく、おかしくなったと思われるとき、その原因を探ってみると、案外、自分の中に隠れている責任転嫁という代物が原因であることが多いようです。

わたしたちが自分の立場を頑なに守ろうとしたり、弁護したりせず、他者の前で自分のありのままの姿を見せることは、とても勇気のいることです。なぜなら、それは自分を曝け出し、相手に自分を開放してしまうことになるからです。けれどもそれができたとき、これまでとは全く違った新しい生き方が生まれてきます。自分の殻を打ち破ることによって、自分の中に新しいものを取り入れることができるのです。

今、東京上野の東京都美術館で開催されている16世紀オランダ(ネーデルランド)の画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が人気を博しています。言うまでもなく、この絵の基になっているのは、創世記11章の「バベルの塔」の物語です。

一つの言語によって生きていた人間は、高慢にもその知恵によって、神のおられる天にまで達する塔を建てようと企てました。これは神によって創造された人間が、自ら神の地位に就こうとする計画に他なりませんでした。神はこの計画を止めさせるため、その塔を破壊し、人間の意志伝達手段である言葉を通じなくされました。「バベル」とは混乱という意味です。わたしたちが対人関係で悩むのは、相手との意志の疎通を欠くことによります。

素晴らしく立派で高い塔を建てる時、上の方で働く人は下の方で働く人の思いを忘れがちです。同様に下で働く人も上で働く人の思いはよくわかりません。そんな時、相手の立場や気持ちを考えると見方が変わってきます。相手の立場に立つ、身を置くことによって、思いやりや優しさが生まれてきます。下で働く人は、上で働く人の大変さに思いを寄せ、上で働く人は、同じように下で働く人の大変さに思いを寄せる時、お互いが理解し合えるようになるのです。

あなたが対人関係で思い悩んでいる時、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12~13)と言われ、その言葉通り、十字架への道を歩んで行かれ、十字架の上でわたしたちのために死んでくださったイエス様に目を向けてください。イエス様を見つめることによって、きっとあなたの悩みを取り去ってくださる希望の光が差し込んでくることでしょう。(チャプレン 大西 修 主教)

カシワバアジサイ

【マタイによる福音書27:3-5】
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。

新約聖書の中で、自殺について記されているのは、このユダの自殺だけです。今読みました箇所を一つの手がかりに自殺について考えてみたいと思います。

自殺はわたしには関係のないこと思っている人もいるかもしれませんが、決して他人事ではありません。なぜなら自殺から最も遠いと思われる平和で幸せな状況の中ですら、自殺はあり得るからです。統計によると、どの国でも戦争中に自殺者が少なく、戦後あるいは平和の時代の方がその数が多くなっています。たとえ、それが戦争という間違った行為であっても、国家的な目的のために人心が緊張している時には、犯罪や自殺が少なくなっています。このような事実から、自殺の現代的な問題を取り上げてみると、自殺の原因がよくわからないことや、一見自殺とは無縁な環境の中でもそれは起こり得ると言えるのです。

「自殺してはいけないの?」という質問に対して、適切な答えを見出せませんが、わたしの乏しい経験から次のように言うことができます。「絶対に自殺してはいけないとは言えない。わたし自身何度か自殺を考えたことがあったけれどもしなかった、いや、できなかった。死ぬときの苦痛を思うと恐ろしかったのかもしれない。真剣に考えていなかったのかもしれない。あるいはちょっとしたことで思い止まったといった方が本当かもしれない。一日中、自殺しようと思い詰めて家に帰ると、親しい友人から手紙が届いていた。それを読んだとき『自殺しなくてもいいのだ!』との思いが沸き上がった。」

自殺は自己中心化であり、自分の殻に閉じ籠ることです。自殺を考える人は、自分自身を凝視する、極めて真面目な人だと思います。しかしその自己のあり方は何といっても閉鎖的です。その閉ざされた自己にほんの少しでも窓が開いて、光が射し込み、空気が流れ込めば、それだけですべての解決にはならないとしても、自殺を思いとどまるきっかけになるのではないかと思います。

自己を開いていくもの、それはおもに自分以外の人々との関係です。一人でもよいから、どんなことでも話し合える友人を持つことは、自殺の問題に限らず、あらゆる人生の問題解決に必要なことです。

わたしが自殺せずに今日まで生きてきたのは、やはりそのような大きな存在との出会い、関わりがあったからだと思います。その大きな存在とはイエス・キリストでした。それは何よりもイエス・キリストがわたしと同じ人間でありら、わたしと異なった大きな存在であることに共感したからです。聖書はそのことを、イエスが十字架の上で絶望の叫び声を上げて死に、そしてそれにもかかわらず、生き生きと復活されたと語っています。そのことはわたしにとって、「自殺してはいけない」という禁止命令としてではなく、「自殺しなくてもいいよ、自殺する必要はないよ、わたしが変わって死ぬのだから」という声として響いてくるのです。

イスカリオテのユダがどうして裏切り者になったのか、またイエスから排除されているのかわかりません。実際にはイエスではなく、弟子たちがユダを排斥したのかもしれません。ユダがイエスを裏切った後、後悔し、罪責の念にかられ、味方になったはずの祭司長や長老たちに訴えの取り消しを申し出たところが「勝手にしろ」とはねつけられ、ついに首をくくって死んだということは、同情に値する出来事です。ユダがどのような人間であったにせよ、彼は極めて真面目で誠実な人間であったのではないでしょうか。ユダは自殺しなくてもよかったのです。たとえイエスを裏切ったとしても、そのことによって真実のイエスがわかったとすれば、その瞬間から新しく生きてよかったのです。ユダは自殺によってイエスの十字架の死に出会う者となりましたが、その復活に出会う者にはなりませんでした。

「自殺してもよい、しかし自殺しないだろう」、これがイエスとの関わりの中に生きている者が言うことのできる、矛盾しているけれど自由な生き生きとした答えだと思います。

皆さんには、自殺ということを通して、「生きるということ」の積極的な意味を見出していただきたいと願います。(チャプレン大西 修 主教)

ミニヒマワリとモンシロチョウ

去る5月24日(水)のブログに載せました「劇団うりんこ」さんによる観劇会が、本日2年生と専攻科学生を対象に行われました。演目は、前回と同じ「ともだちや」です。私は、前回に続き2回目の観劇でしたが、劇が始まると初めて観るような新鮮さを感じました。そのような非常に不思議な感覚を感じながら、「次は誰が出てくるかな?」「この後はどうなるんだったっけ?」と常に心が躍り、お話の世界に引き込まれていきました。

学生も、役者さんたちの迫真の演技に身を乗り出すようにする者、ユニークなギャグを聞いて隣の友達と思わず微笑みあう者、音楽に合わせて手拍子をたたく者・・・と、本物の舞台のもつ良さを十分に堪能することができました。

「劇団うりんこ」さんの演技は、非常に私たちの感性に響きました。私たちが日頃の慌ただしさのためにどこかに忘れていた、子どもの時に味わった「純粋なこころ」をもう一度呼び覚まして下さったと思います。どうもありがとうございました。スタッフの皆様の働きがこれからも一層祝福され、多くの子どもたちや人々にとっての喜びや希望となりますようにと、お祈りいたします。(柴田)

イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。(マタイ9:15)

【ヨハネによる福音書15:5-6】
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

イエス様の時代、パレスチナ地方ではブドウが多く栽培されていました。ブドウ酒は聖書によく登場します。カナという場所でイエス様は水をぶどう酒に変えるという奇跡を行いました。最後の晩餐でもブドウ酒が飲まれます。

今日の聖書でイエス様は「ブドウの実が枝につながっていれば豊かに育つと同じように、あなた方も、私につながっていれば間違いない」とおっしゃっています。幼児は、お母さんや先生の手をしっかり握っているうちは大きく成長しますが、一度離れると大変なことになる・・・。そんな関係性がイエス様と私たちにあったらいい。

イエス様とともに歩んでいきましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

クチナシ

【ルカによる福音書10:38-42】
10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

「お忙しいですね、お忙しそうですね、ご多忙中、申し訳けございませんが」などと言われると、わたしたちは悪い気はしません。むしろ何となくいい気持になるのではないでしょうか。 「暇そうですね、暇なら手伝ってよ」などと言われると、あまりいい気持はしません。わたしたちは、いつの間にか「忙しいこと」は良いことで、「暇なこと」はあまり良いことではないという先入観にとらわれてしまっているのではないでしょうか。

忙しい」という漢字は忙、りっしん偏に亡(ぼう)~なくなる、失う、滅びる~と書きます。りっしん偏は心を表しますから、忙しいとは、心を失うこと、心を滅ぼすことを意味しています。ですから本来の意味からすると、忙しいことは必ずしも良いことではありません。「多忙・忙殺・繁忙」はたくさん心を失うことであり、たくさん心を滅ぼしてしまう、心を殺してしまうことにもなりかねないことに注意する必要があります。

今読んでいただいた聖書の箇所(マルタとマリアの話)から、少し考えてみましょう。

マルタはおいで下さったイエス様をおもてなしし、喜んでいただくために、あれこれと心遣いをしながら、きびきびとした立ち居振る舞いをしています。とても素晴らしいことです。マリアはといえば、お話してくださるイエス様の真ん前に座りこみ、身動きもせず、一心にイエス様の話を聞こうとしています。

マルタがそんなマリアを見て、いらいらし、黙っていられなくなり、イエス様に不平不満をぶつけます。「こんなに忙しく立ち働いているわたしに気づきもせずに、マリアが座っていることを何ともお思いになりませんか?マリアにも私の手伝いをするようにおっしゃってください。」 それに対して「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を取り乱している。必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」こうマルタにイエス様は優しく言われました。

確かにマルタはとても忙しかったことでしょう。そこで彼女はどうしたのでしょうか。自分の忙しさを何とかカバーしてもらうために、マリアを利用しようとしたのです。自分の思いを実現するために、他人を自分の枠の中に引き込もうとしたのです。マリアが座り込んでイエス様の話を聞いていることが許せなかったのです。マルタは自分の忙しさのために、大切な心を失っていました。忙しさは人を自分のことしか考えられないような状況に追い込みます。マルタがそうでした。マリアの思い、その人格を無視し、マルタは自分の思うがままに相手を動かすことに意を用いたのです。マルタはイエス様を心からお迎えし、おもてなしすることに大きな喜びと幸せを感じていました。そのことは間違いないことでした。しかし、ほかの人も自分と同じように行動することを望んだところに問題がありました。

マルタに「もし、そんなことを言うならば、あなたもマリアと同じように、じっと座っていてイエス様の話を聞いたらどうですか?」と言ったならば、彼女にはそれは難しいことになるでしょう。忙しさを人の所為(せい)にしたり、また忙しさのために自分を見失ってしまうことのないようにしましょう。

マルタもマリアもそれぞれに神様から与えられた賜物(素晴らしい人格、個性、かけがえのないもの)をもっています。

わたしたちも同様に、個々に無くてはならない賜物が与えられています。その賜物をしっかり見つめ、それを活かしていきましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

植えつけられた夏の花たち

【ヨハネによる福音書15:12-13】
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

人間が生きていくとき、そこにはいつも愛の関係が生まれます。人間は夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、知人はもとより、多くの人々との出会いの中で、愛し合い、助け合い、支え合い、励まし合いながら生きていると言っていいのではないかと思います。

特にそんな中で、一人の男性と一人の女性が愛のうちに結ばれ、結婚を通して新たな命をこの世に生み出していくといった営みは、これからもずっと続いていくことでしょう。

けれども他方では、人間が生きていくとき必ずと言っていいほど愛せない悩みや、愛されていない苦しみのために、自ら傷つき、また他者を傷つけるという悲しい現実があることも見過ごすことができません。むしろ、このために悩み、苦しんでいる人々の多いことが現実の姿といえるかもしれません。

では、わたしたちが考えている愛、信じている愛は本当の愛なのでしょうか。本当の愛とはどのようなものなのでしょうか? 聖書では「神は愛です」(ヨハネの手紙1 4:16)、また「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(同4:19)、

「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」(同3:16) 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)と教えています。

愛された経験のない人は愛することができません。どうすることが愛することなのかがわからないからです。暴言を吐かれ、殴られ、たたかれるような生活環境の中で、成長してきた子供が、親になったとき、同じような形で自分の子供に接するケースが多いと言われます。愛情表現がそのような歪んだ形でしか表せないのです。

人間の愛は自己中心的なものであり、自己愛がその根底にあります。「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)という愛の戒めの中で、「自分のように」とは、人間のうちにある強い自己愛への思い、そのような思いをもって隣人を愛していくことが、神に愛されている者の生き方であるとされています。またそれは、ただ単に自己愛への思いという面だけではなく、神に愛され、受け入れられている自分を大切にすることによって、隣人のために自分を与えていくことにも繋がっていきています。

神の愛は隣人愛、他者志向の愛、与える愛です。自分の命を投げ出してまでも、他者を愛し、さらに敵をも愛し、無価値と思われている者、弱くて小さい者をも愛し抜いていきます。神の子であるイエス・キリストが十字架の上で、自己中心的で高慢な罪深い人間の身代わりとなり、犠牲の死を遂げられたことによって、神の愛がどれほど深く人間に注がれていたかを知ることができます。そこまで、愛を注いでくださったお方がほかにおられるでしょうか。このお方に愛されていることに気づき、このお方を愛し信頼して生きていくとき、神の愛をわたしたちも実践していくことができるようになります。人を愛せないこのわたしが、神に愛されていることに気づき、愛する喜びに生かされるように、造り変えられていくからです。(チャプレン 大西 修 主教)

●本日は礼拝後に、和気あいあいとした雰囲気の中、奨励奨学生表彰式が行なわれました。柳城の学生さんは頑張っています。

【テモテへの手紙二 3:15-16】
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

聖書はキリスト教の正典であり、世界のベストセラーです。世界中で毎年3,400万冊以上が出版され(日本では21万冊)、2,500以上の言語に翻訳されています。まさに驚くべき数字です。わたしたちはその中の日本聖書協会発行の「新共同訳」(カトリックと共同)を用いています。新共同訳は発行されてから30年になります。

聖書はラテン語で「ビブリア」といい、英語の「バイブル」の語源です。ラテン語の「ビブリア」はギリシャ語の「ビブリオン」(紙の原料のパピルスの髄)からきており、何巻もの書物を表す言葉でしたが、それがラテン語に転化するとき単数形となって、「書物の中の書物」「すべての本の中で最も優れた本」と呼ばれるようになりました。The Bookと英語の大文字で書くと、それは「聖書」を指しています。

さて聖書はヘブル語で書かれた「旧約聖書」39巻とギリシャ語で書かれた「新約聖書」27巻、合わせて66巻から成り立っています。(それに旧約聖書続編[外典]13巻もあります。)これらは1,000年以上の長い歳月を経て、いろいろな時代に、多くの異なった人々によって書かれたにもかかわらず、全体を通してみると、そこには多様性の中にも統一性があり、一貫した流れがあります。ここに聖書の不思議な点があります。

最初に引用したみ言葉のように、聖書の著者たちが神の霊を受けて、(神の霊に動かされて)書いたもの、神が彼らの人格に働きかけ、その言葉を通してわたしたちに語りかけておられます。ですから、聖書のもともとの著者は神ご自身であるのです。(旧約聖書の預言者の書では「主はこう言われる。」という言葉がよく出てきます。わたしが言っているのでは神様がおっしゃっているのだよというわけです。

聖書が「神の言葉」であると言われ、権威あるものとされるのは、神ご自身が聖書を通してご自身を現わして(啓示して)おられるからにほかなりません。

旧約聖書は、主イエス以前の時代に神が人類に対してなさったみ業(出来事)が、イスラエル民族の歴史を通して記されています。それは神が人類を救済される壮大なドラマです。

旧約の「約」は「契約」のことで、神様と人類との古い契約、一言でいえばそれは神からモーセを通して与えられた「十戒」を守ることによって人類が救われるという契約でしたが、人類はこの契約を守れませんでした。

新約聖書にはイエス・キリストのご生涯と教えとみ業~それは神の約束に従って、この世に来られ、十字架上で死なれ、復活され、天に昇られた後、聖霊(神の見えない大きな力)を送ってくださり、救いを完成させてくださったこと~、さらに使徒たち(イエス・キリストの弟子たち)の働きを通して教会が世界に広まっていったことが記されています。

古い契約に対して、新しい契約としてイエス・キリストがその死と復活によって、愛の契約を成就し完成させてくださいました。新約聖書ではイエスこそ救い主キリストであり、救世主(メシア、メサイア)であると証言されています。

宗教改革者ルターはこう言っています。聖書は「キリストがその中に包まれている産着であり、寝かされている馬槽(うまぶね、飼い葉おけ、ベビーベッド)である。」

また聖書は神からわたしたちへのラブレターだとも言われます。心を静めて、愛する人がわたしに向かって何を語りかけているのかを、じっくり聞きとってみたいものです。 聖書が証ししているイエスというお方を、救い主キリストとして信じて受け入れるとき、聖書が人生にとって不可欠の案内書となり、心の食物となり、さらに日々の生活のうちにあって、希望と安らぎと癒しを与えてくれるものになります。

聖書に出てくる有名な言葉を皆さんも知っていることと思います。それがどこに載っているか、探してみてください。そんな時に、また心に残る新しいみ言葉に出会うかもしれません。(チャプレン 大西 修 主教)

 

今日の礼拝では、本学同窓会の企画として、「劇団うりんこ」による観劇会が行われました。同窓会長さんの「柳城生には、本物に触れてほしい」という願いのもと、毎年このようなお楽しみの企画があります。

そこで今日は、まず最初に短い礼拝と讃美を捧げた後、お待ちかねの観劇会となりました。演目は『ともだちや』。主人公のキツネは、相手(動物)から頼まれると、その動物と友達になります。値段は1時間100円。

依頼主の動物も、クマ、オオカミ・・・と個性の強い者ばかり。でも、途中でオオカミから、「本当の友達からお金をとるの?」と言われ、キツネは言葉に詰まります。

この話から、学生たちも自分のことに当てはめて思い巡らすことがあったのではないでしょうか。キツネを独り占めしようとするテンの姿に、場内からは「信じられなーい」という声も上がっていました。

また、「あんなに大きな声が出るの?」「歌が上手ね。」「一人で何役もこなしているよ。」「大道具や衣装も凝っている。」という学生からのつぶやきも聞こえ、出演者の演技力や表現力にも圧倒されたひとときでした。

現在、2年生が教育実習中のため、今日は1年生と専攻科学生を対象にしました。次回は6月21日に、2年生が同じ演目を観ることができますよ。お楽しみに。(柴田)

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。【ヨハネによる福音書15:13】

 

【ヨハネによる福音書3章1-4節】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

リクリエーション、皆さんがよく「レク」と呼んでいる言葉ですが、意味としては、楽しみとか娯楽というイメージです。「クリエイト」、作るという言葉に、もう一度という意味の「リ」がくっついたもので、本来の意味は再創造となります。

神によって創造された人間は堕落して罪を犯した。そんな不幸な人間をリクリエイトして変えてくれるのがイエス様です。人はリクリエイトされると気持ちも新しくなりますから、そういう意味では、「再創造」の意味としてのリクリエーションと「楽しみ」という意味としてのリクリエーションとは深いつながりがあるわけです。

では、どうしたら人は変わることができるのでしょう。今日の聖書に登場するニコデモという人。この人は立派な議員さんですが、どうしたら幸せになれるのかとイエス様に質問をするのです。そうしたら、もう一度産まれなさいと言われて困り果てます。えっ? もう一度母親のおなかに戻るのですか? でも、そういう意味ではなかったのです。

皆さんも同じです。お母さんのおなかに入らなくても生まれ変わることができます。その方法は、これかもお話の中でお伝えしていくつもりですが、どうぞ皆さんも、この名古屋柳城短期大学で探し出してみて下さい。(チャプレン大西 修 主教)

ハナニラ

【ヨハネによる福音書14章1-6節】
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

わたしたちは「道」という言葉をよく使います。「道路」という意味で使う場合は舗装道路、悪路、でこぼこ道、平らな道、坂道、上り道、曲りくねった道などと道の状態を表す言葉として使います。また、地下鉄の御器所から柳城への道、富士山の頂上への道といったように、どこどこへの道として、目的地を示す場合にも道という言葉を使います。そのほかには、道そのものが、あるものごとの本質を表す場合にも使います。武道(柔道、剣道など)、芸道(茶道、華道、書道、歌舞伎、能楽)などのように、武術、芸術の技能、技術を体系化したもの(剣の道、茶の道など)によく使われます。極道という言葉はヤグザ社会に使われる言葉になっています(極道の妻など~ゴクツマ)が、本来は道を極めることが道理を極めること、すなわち極道ですから、これはすごいことなのです。

さて、イエス様は「わたしは道である」と言われました。道そのものがイエス様なのです。わたしたちはたとえ御器所から柳城への道を尋ねて教えてもらったとしても、初めて来る時には多分すんなりとは来られなかったのではないでしょうか。行く場所を聞いていても、その場所の近くにいたとしても分からなかったこと、迷ってしまったという経験はありませんか。そんなわたしたちにとってイエス様はわたしたちといつも一緒にいてくださるナビゲーターなのです。それが「わたしは道である」と言われた意味なのです。このイエス様という道、ナビゲーターは生きている道、わたしたちと一緒にいて、一緒に歩いていってくださる道、動く道です。現代ではエスカレーターがあり、動く道もありますが、途中までしか連れて行ってくれません。しかし、わたしたちがイエス様という生きた道を信じ、一緒に進んでいけば、その道は安心して進んでいくことができます。

皆さんは山登りやハイキングをしたことがありますか。わたしは大学時代と、牧師になってからの合わせて14年間、長野県の松本に住んでいましたので、よく山登りをしました。一人で登った時など、登山道の道標(道路標識)がとても頼りになりました。道標がはっきりしていない分岐点、壊れているところではどちらへ行けばいいか、とても不安でした。もし間違って、道に迷ったりしたなら遭難事故にならないとも限らないからです。

わたしたちはこれからの人生において生きた道を探していきたいものです。その道は真理でもあり、命でもあるとイエス様は言われました。イエス様ご自身が真理であり、命であるということは、イエス様の人格そのものが真理であること、どこかに真理があると言われたのではなく、イエス様の生きざまそのものが、真理であると言われたのです。そして「わたしは命である」とも言われたイエス様は「イエス様こそ私の命」「君こそわが命」として受け入れるとき、わたしたちのうちに生き、見守り、励まし、支えてくださるのです。(チャプレン大西 修 主教)

●今日は久しぶりにチャペルでの礼拝でした。
サーバー初挑戦の学生さんが緊張しながらも頑張ってくれました。また聖歌隊が聖歌練習の音頭を取ったり、2階席で礼拝中の聖歌を支えたりしてくれました。感謝です。また、礼拝直前、「お昼の賛美歌タイム」の面々が楽しそうに賛美歌を歌っていました(記事はこちら)。

 

 

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