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カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【ヨハネによる福音書3章1-4節】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

リクリエーション、皆さんがよく「レク」と呼んでいる言葉ですが、意味としては、楽しみとか娯楽というイメージです。「クリエイト」、作るという言葉に、もう一度という意味の「リ」がくっついたもので、本来の意味は再創造となります。

神によって創造された人間は堕落して罪を犯した。そんな不幸な人間をリクリエイトして変えてくれるのがイエス様です。人はリクリエイトされると気持ちも新しくなりますから、そういう意味では、「再創造」の意味としてのリクリエーションと「楽しみ」という意味としてのリクリエーションとは深いつながりがあるわけです。

では、どうしたら人は変わることができるのでしょう。今日の聖書に登場するニコデモという人。この人は立派な議員さんですが、どうしたら幸せになれるのかとイエス様に質問をするのです。そうしたら、もう一度産まれなさいと言われて困り果てます。えっ? もう一度母親のおなかに戻るのですか? でも、そういう意味ではなかったのです。

皆さんも同じです。お母さんのおなかに入らなくても生まれ変わることができます。その方法は、これかもお話の中でお伝えしていくつもりですが、どうぞ皆さんも、この名古屋柳城短期大学で探し出してみて下さい。(チャプレン大西 修 主教)

ハナニラ

【ヨハネによる福音書14章1-6節】
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

わたしたちは「道」という言葉をよく使います。「道路」という意味で使う場合は舗装道路、悪路、でこぼこ道、平らな道、坂道、上り道、曲りくねった道などと道の状態を表す言葉として使います。また、地下鉄の御器所から柳城への道、富士山の頂上への道といったように、どこどこへの道として、目的地を示す場合にも道という言葉を使います。そのほかには、道そのものが、あるものごとの本質を表す場合にも使います。武道(柔道、剣道など)、芸道(茶道、華道、書道、歌舞伎、能楽)などのように、武術、芸術の技能、技術を体系化したもの(剣の道、茶の道など)によく使われます。極道という言葉はヤグザ社会に使われる言葉になっています(極道の妻など~ゴクツマ)が、本来は道を極めることが道理を極めること、すなわち極道ですから、これはすごいことなのです。

さて、イエス様は「わたしは道である」と言われました。道そのものがイエス様なのです。わたしたちはたとえ御器所から柳城への道を尋ねて教えてもらったとしても、初めて来る時には多分すんなりとは来られなかったのではないでしょうか。行く場所を聞いていても、その場所の近くにいたとしても分からなかったこと、迷ってしまったという経験はありませんか。そんなわたしたちにとってイエス様はわたしたちといつも一緒にいてくださるナビゲーターなのです。それが「わたしは道である」と言われた意味なのです。このイエス様という道、ナビゲーターは生きている道、わたしたちと一緒にいて、一緒に歩いていってくださる道、動く道です。現代ではエスカレーターがあり、動く道もありますが、途中までしか連れて行ってくれません。しかし、わたしたちがイエス様という生きた道を信じ、一緒に進んでいけば、その道は安心して進んでいくことができます。

皆さんは山登りやハイキングをしたことがありますか。わたしは大学時代と、牧師になってからの合わせて14年間、長野県の松本に住んでいましたので、よく山登りをしました。一人で登った時など、登山道の道標(道路標識)がとても頼りになりました。道標がはっきりしていない分岐点、壊れているところではどちらへ行けばいいか、とても不安でした。もし間違って、道に迷ったりしたなら遭難事故にならないとも限らないからです。

わたしたちはこれからの人生において生きた道を探していきたいものです。その道は真理でもあり、命でもあるとイエス様は言われました。イエス様ご自身が真理であり、命であるということは、イエス様の人格そのものが真理であること、どこかに真理があると言われたのではなく、イエス様の生きざまそのものが、真理であると言われたのです。そして「わたしは命である」とも言われたイエス様は「イエス様こそ私の命」「君こそわが命」として受け入れるとき、わたしたちのうちに生き、見守り、励まし、支えてくださるのです。(チャプレン大西 修 主教)

●今日は久しぶりにチャペルでの礼拝でした。
サーバー初挑戦の学生さんが緊張しながらも頑張ってくれました。また聖歌隊が聖歌練習の音頭を取ったり、2階席で礼拝中の聖歌を支えたりしてくれました。感謝です。また、礼拝直前、「お昼の賛美歌タイム」の面々が楽しそうに賛美歌を歌っていました(記事はこちら)。

 

 

【ヨハネによる福音書10章11-16節】
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

聖書には「羊」や「羊飼い」という言葉がたくさん登場します。日本では見られませんが、イエスが生きたパレスチナでは羊は遊牧されていました。今でもそうですし、私も実際に見たことがあります。主に羊毛を取るための遊牧ですが、やせている土地での大切な生活手段なのです。

羊飼いの役目は羊を草地や水源に導くことでした。羊はもともとが不器用な動物でして、集団でないと行動できないため羊飼いの強力なリードを必要とします。面白いことに、羊飼いは羊に名前をつけていて、夜になると「点呼」を取ります。そのくらいに羊飼いは一匹一匹を大切に扱ったということです。ですので、今日の聖書にあるイエスの「わたしは良い羊飼いである」という言葉を聞いた当時の人々はすぐにピンと来たことでしょう。イエスは私たち一人ひとりに心を配ってくださる方だと。私たちは集団でうまく行動できている時でも、実は一人ひとりが不安だったり孤独だったりすることもありますね。そんな羊のように不器用な人間の性格をイエスは良くご存知でした。

皆さんは柳城に入学した時には多少なりとも不安を感じたことでしょうね。今はどうですか。私は皆さん全員に「柳城に入って良かった」と心底思って欲しいです。そうなるためにも自分の中心に心棒を持ってください。大勢の中にあっても自分を見失わずに周りから認められるよう、自分自身を鍛えて欲しいのです。この礼拝でもそうです。将来、人の前でお話をするような仕事に就こうとする皆さんにとっては良い勉強になるでしょう。たとえば「自分の話を聞いて欲しい」という思いを相手にどう伝えたらいいのでしょうか。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい(マルコ4:9)」とたびたび語ります。イエスは無理やり人にものを押し付けようとはなさいません。それが彼流の、人を一人ひとり大切にする方法なのです。

イエスの事をもっともっと知って、自分のために役立ていって下さい。(チャプレン大西 修 主教)

ノースポールと折り紙チューリップ

【マルコによる福音書1:40-42】
1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

本日の聖書にある「重い皮膚病」ですが、昔の聖書では「らい病」と訳されていました。「らい病」は差別的だということで、今は「ハンセン病」と呼ばれています。ただし、「重い皮膚病」イコール「ハンセン病」だとは単純には言えないようです。

さて、本学の創始者マーガレット・ヤング先生が活躍されていた時代、ハンナ・リデルという名の女性が聖公会の宣教師としてイギリスから日本に渡ってきました。彼女は東京で1年間勉強した後、今の熊本大学で英語の教師になりました。ある日、桜咲く本妙寺の参道を歩いていると、大勢のハンセン病患者が物乞いをしながら座っているのを目にしました。当時の日本にはハンセン病患者が3万人以上いたと言われていますので、リデルが見た光景は、イエスの時代のそれと似ていて、誰もが身を引いてしまい、よけて通りたくなるような、そんな状況だったと思います。ハンセン病は本来、感染力が大変弱い病気なので触っただけでうつるということはなかったのですが、2,000年も前の当時としてはたいへん恐れられていて、患者に触ることは身が汚れることだとも言われていたのです。でもイエスは違っていました。彼は「治してください」と寄りすがる患者を深く憐れました。ここで使われている「憐れむ」という言葉は「はらわたが引き裂かれる」という意味を含むギリシア語ですので、「イエスは心の底から助けたい気持ちになった」と解釈することができます。そして、その通りに、イエスは患者に手を差し伸べて体に触れたのです。「抱きしめた」と訳している聖書もあるくらいです。

さて、リデルはこのイエスに倣い、ハンセン病患者を救うために宣教師の仕事を辞めて病院を作ることを決意します。約5年後に回春病院という形で彼女の希望はかない、以降、約40年に渡りハンセン病患者を救う活動にリデルは身を捧げたのです。

こんな話をすると、皆さんは「すごいなあ」と思うかもしれませんが、それだけでなしに、私にも何かできないかなあと思うことが大切ではないでしょうか。

現在、日本には13の国立のハンセン病療養所があり、そこで約2,000人の方が生活をされています。実際に患者である方はほとんどいませんが、高齢化が進んでいますし、今なお差別に苦しんでいる人もいます。幸せを望み、そして天国に行きたいと願っている方ばかりです。ぜひ、心に留めておいてください。(チャプレン大西 修 主教)

2年目を迎えたペチュニア(満開に、感謝!)

【マタイによる福音書16:24-25】
16:24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
16:25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

皆さんの目の前にあるステージには大きな十字架がありますね。隣のマタイ教会にも、屋根や礼拝堂に十字架が掲げられています。お隣の韓国ソウルに行くと、日本の寺院よりも多くの教会があって、あちこちに十字架を目にします。それ程クリスチャン人口が多いということなのです。

さて、十字架とは何でしょう。たぶん皆さんが想像する十字架とは意味が違っていると思います。礼拝では十字架に向かって手を合わせますが、でも、十字架は拝むものではありません。神ではないからです。実は、十字架はシンボルなのです。クリスチャンはこのシンボルを見ると、イエス・キリストが十字架ではりつけになったことを思い出します。イエスはエルサレムにあるゴルゴタ、すなわち「されこうべの場所」という意味を持つ丘で処刑されました。イエスは生前「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:13)」と語っていましたので、私たちクリスチャンはこの十字架の歴史的事実を「罪のない神の子イエスが他の人に代わって死んでくれた」と理解しています。

皆さんは愛する人のために死ねますか?「おまえを最後まで守る」と言いながら、いざとなると皆さんを盾にして逃げてしまう。皆さんの彼氏はそんな人ではありませんか? でも、イエスは命をかけて愛する人を救ってくれました。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い(マタイ27:40)」と罵倒されながら、無残な死を受け入れたのです。

私のような職にある者は、たいていは胸に十字架をつけています。それは「友のために自分を捨てる覚悟とイエスに従う決意」を示すためです。皆さんも十字架のネックレスやペンダントを持っていますね。もちろん格好良くするためでしょうが、今までの話から分かるように、十字架は見るに忍びない処刑の道具ですから、本来は格好いいものではありません。アクセサリーになるはずはないのです。しかしイエスが十字架を愛に輝くものとしてくれたので、私たちは今、十字架を身につけることができるのです。

十字架の縦の線は「自分自身」で、横の線は「切る」を意味すると解釈されることがあります。これはつまり「自分を切る」すなわち「自分を殺して相手を活かす」ことを表します。この十字架の意味がイエスの弟子に受け継がれました。その一人にペトロという人がいます。彼もイエス同様に十字架刑にあって死にました。これを殉教といいますが、彼は「イエスと同じでは畏れ多い」ということで、十字架を逆さまにして処刑を受けました。もう一人、アンデレという人も同様な理由でバツ印のような形の十字架で処刑されました。これをアンデレクロスと言いますが、大阪の桃山学院大学の校章や清里にある清泉寮の玄関で見ることができます。また、カトリックの教会では十字架にイエスの像が張り付いているものが見られます。私たち聖公会では、イエスは復活してしまったことを強調するので、十字架にはイエス像がついていません。これを「栄光の十字架」といいます。

十字架のお話を色々しましたが、皆さんがこの十字架の意味を心に留めて柳城の生活を送れば、きっとそのうち、自信を持って十字架のネックレスを身につけられるでしょう。その時皆さんは、十字架の意味を知らない人とは全く違う人生を歩むことになります。(チャプレン大西 修 主教)

中庭の花壇

入学式 2017

カテゴリー:入学式

4月3日(月)に行われた2017年度入学式の模様をお伝えします。

●前奏(一同 黙祷)
ピアノの伴奏に合わせて司式者団が入場します。

 

 

 

 

 

 

●聖語

司式者の「愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」の言葉に続いて会衆が「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり神もその人の内にとどまってくださいます。(Ⅰヨハネ4:16)」と唱えます。

 

 

 

 

 

 

●聖歌 308番「賛美する喜びと」

 

 

 

 

 

 

●新入生のための祈り
「全能の神よ、この世の時はすべてあなたのみ手の内にあります。どうか、いま本学に入学し、この学院で過ごす時の始めに立っている学生たちに、恵みのまなざしを注いでください。この学院での時を通して、あなたの知恵のうちに学び、あなたの愛を知り、そして愛によって互いに支えあうように、わたしたちを導き、育んでください。わたしたちの主、イエス・キリストによってお願いいたします。」

 

 

 

 

 

 

●聖書
【ガラテヤの信徒への手紙 5:1;13-14】
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛(くびき)に二度とつながれてはなりません。兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

●新入生認証
保育科 新入生認証【176名】
専攻科保育専攻 新入生認証【8名】
専攻科介護福祉専攻 新入生認証【4名】

新入生一人ひとりの名前が各担当アドバイザーから読み上げられます。

 

 

 

 

 

 

●歓迎のことば
在学生全員が次のように声を合わせます。

「わたしたち在学生は、今、本学に入学を認められた皆さんを心より歓迎いたします。どうか、神の祝福が皆さんの上に豊かに注がれますように。そして、これから本学での生活を共にする仲間として、互いに愛しあい、仕えあって、共に目標に向かって歩みましょう。」

新入生と在学生の座席が隣り合わせになるように配列されていますので、下の写真のような風景になります。本学らしい心配りの一つです。

 

 

 

 

 

 

●誓いのことば
続いて、新入生が一斉に応えます。

「わたしたちは今、この名古屋柳城短期大学に入学を認められました。これからわたしたちは、『愛をもって仕えよ』という建学の精神を深く学び、神の導きのもと、先生方や諸先輩方のご指導を受けつつ、幼児教育や社会福祉の道に向けて、熱心に学ぶことを誓約いたします。」

●聖歌 417番「あなたの平和の」
この聖歌は2年後の卒業式でも歌うことになります。本学の一番人気です。

●式辞 名古屋柳城短期大学 学長 長縄 年延

本学の基本的な歴史が語られた後、保育や介護の現場で働く者にとって「愛をもって仕えなさい」という建学の精神が必要不可欠なものであることが強調されました。続いて、リチャード・A・メリット第4代学長の言葉が紹介されました。「非常勤講師、理事そして学長というそれぞれの立場で柳城と関わって、建学の精神『愛をもって仕えよ』が学校基盤としてこの上ない信条であると痛感しました。学生がその精神の実践者になることが柳城の存在理由なのです。実践者としてふさわしい態度とふるまいをもって、まず子どもたちに接し、子どもたちにその精神が反映されればと思っています。」

そして最後に、教職員の良き指導のもと、TPO、すなわちT(時)・P(場所)・O(場合)に応じて柔軟に対応できる保育者/介護者を目指し、夢と希望をもって欲しいとの期待がかけられました。

 

 

 

 

 

 

●祝辞 学校法人 柳城学院 理事長 渋澤 一郎

本学で学ぶ知識/技術は、人間性の向上が伴ってはじめて社会に役立つものになることが熱く語られました。そして、この人間性は、人との出会いの中で育まれるものであり、同時に本学では、聖書の言葉に触れることによっても豊かにされるものであるから、礼拝には積極的に参加して欲しいとの期待がかけられました。

そして最後に、神の祝福とお導きとお守りがあるようにと締めくくられました。

 

 

 

 

 

 

●来賓紹介
●祝電披露

●聖歌 560番「グロリア グロリア」

●平和の挨拶
お隣同士で「主の平和」と唱えながら握手を交わします。

特徴ある座席の配列が効果を表します。

 

 

 

 

 

 

●主の祈り
イエス・キリストが教えてくださった祈りが唱えられます。

天におられるわたしたちの父よ
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

●名古屋柳城短期大学のための祈り

全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

●祝祷

計り知ることのできない神の平安がキリスト・イエスにあって皆さんの心と思いを守り、ますます深く父とみ子を知り、かつ愛させてくださいますように。父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんとともにありますように。

 

 

 

 

 

 

●校歌

「おさなきものは かみのまなごぞ
ひなぎくさゆり いろとりどりに
においさく」
・・・

●後奏(一同 黙祷)
ピアノの伴奏に合わせて司式者団が退場します。

 

 

 

 

 

 

伝統ある本学で、他校では味わえない「何か」を新入生全員が体験されますよう、心からお祈りします。(加藤)

【ヨハネによる福音書13:14-15】
13:14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

多くの2年生にとっては初対面ですね。チャプレンの大西といいます。

今週はキリスト教にとっては大切な一週間となっています。次の日曜日がイースターだからです。あるコマーシャルが「○○で始めよう、イースターパーティー!」とにぎやかに歌っていましたね。このイースター、復活日とか復活祭とも言いますが、クリスマスと並んでキリスト教の二大お祭りです。今年の暦で言うと、イエスは4/13に最後の晩餐を弟子たちと持ち、4/14に十字架上で処刑され、そして日曜日の4/16に復活するという流れです。

皆さんは最後の晩餐はご存じでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画で有名ですが、この日にイエスはお弟子さんの足を洗ったと聖書には記されています。当時、他人の足を洗うのは奴隷や召使いの仕事でした。その役をイエスが買って出たわけですから、弟子たちはビックリして、その一人が「わたしの足など、決して洗わないでください」と断ろうとします。しかしイエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えました。そしてさらに「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と命じるのです。つまり、奴隷の立場の仕事であっても喜んでやりなさいということです。それは「互いに愛し合いなさい」というメッセージでもありました。

皆さんにはやりたくない事が一杯あると思います。でも、それを行うことで喜んでくれる人がたくさんいるかもしれません。嫌な事でもやってみる。これも「愛をもって仕える」一つの姿だと思うのです。(チャプレン大西 修 主教)

・本日は体育館での合同礼拝の後、学外合同ゼミナールの説明会(学生生活委員会主催)が行われました。今年は4/20-21、芦原温泉での開催です。柳城短大名物のこのイベント。今回も様々なドラマが生まれることでしょう。成功をお祈りします。

 

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-15】
5:13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

大西と言います。今年から本学のチャプレンとして務めさせていただきます。

さて、本学の建学の精神は「愛をもって仕えなさい」でしたね。これは今日の聖書にもありました。イエス・キリストの偉大な弟子であるパウロという人が、西暦55年頃と考えられていますが、今のトルコに住むキリスト教の信者に向けて書いた手紙に載せた言葉です。他にもパウロは「自由とはイエス・キリストを信じること」、「イエス・キリストは私たちを自由にした」と説いているのですが、今日は、この自由とか愛について考えてみます。

一般に、自由には「自分だけ」というイメージが付きまとうものですが、本当は人との関係性の中で感じるものです。たとえば、すばらしいお城があって、あらゆる食べ物とすばらしい衣装などが整っていたとしましょう。ここでは何の不自由もなく暮らすことはできますが、たった一人きりだとしたらどうでしょう。いくら裕福でも、毎日楽しいでしょうか。違いますね。それでは、奴隷みたいな使用人と一緒なら楽しいかというと、それも違います。やっぱり、自分を愛し理解してくれる人が一緒にいてくれる時に、はじめて豊かな自由を感じるはずです。自由とは、本来は協調とか調和の中で自分らしく生活する時に成り立つものなのです。先程紹介したパウロは、イエス・キリストを見習うことが自分らしく生きる秘訣だと説いたのです。

次にについてです。由美かおる主演の映画「同棲時代 今日子と次郎」に使われた主題歌の冒頭に「愛はいつも いくつかの過ちに 満たされている」というセリフがあります。この愛は、もちろんエロスの意味での愛のことですが、世の中に氾濫している愛のほとんどはこの種の愛で、人間の感情によって様々に変化する気ままで身勝手なものです。「惜みなく愛は奪う」とは、有島武郎が書いた評論集の題名ですが、人間の愛は、普通は、相手のものを奪い取る方向にエスカレートします。「お前を愛しているのに、何もしてくれない」と相手に不満を漏らす愛です。

でも、聖書が語る愛は、神が私たちに与えてくださる本物の愛です。その愛は惜しみなく相手に与える愛で、いつも他人が中心になります。それで、時には自分が損したり犠牲になることもあります。それでも愛なのです。

この本物の愛を実践した方がイエス・キリストで、彼は私たちを愛するがために十字架にかけられ見るも無残に死んでいきました。しかし彼はよみがえって、その愛が正しかったことを証明したのです。

「愛をもって仕える」の愛は、このような深い意味での愛です。私たちの生活を根本から変えることができる愛です。このような愛を成し遂げた歴史上の人物は大勢います。本学に籍を置く私たちも、そのような愛が実践できるよう祈り求めていきましょう。(チャプレン大西 修 主教)

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-15】
5:13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

ご入学おめでとうございます。

本学の水曜日には、今日のように礼拝という時間があります。入学式も礼拝の形式でしたね。ほとんどの人にとっては初めての経験だったでしょう。ひょっとすると「この大学で大丈夫?」と思った人もいるかもしれません。礼拝とは黙想とか瞑想と同じで、心を集中させることです。手を合わせていると自然に心が穏やかになり集中できるようになります。そうすることで自分自身を見つめられるようになります。

さて、本学の基になっているのは「愛によって仕えなさい」でした。建学の精神ですね。ホームページにも載っていますので一度読んでみてください。柳城がキリスト教の学校であることが、今、現実として皆さんには分かったと思います。キリスト教といっても実は色々な種類があり、大きくはカトリックとプロテスタントに区分されます。日本にキリスト教が入ってきたのは1549年の、あのフランシスコ・ザビエルでしたね。彼のキリスト教はカトリックでした。では柳城のキリスト教はというと、元はカトリックだったのが、そこから独立してイギリスを中心に全世界に広まったもので、名前を聖公会といいます。イギリスのエリザベス女王もその聖公会の信者さんですよ。本学院創設者のマーガレット・ヤングも、もちろん聖公会の信者さんで、彼女がスタートさせた本学院は、来年で120周年を迎えます。本学のキリスト教は、皆さんをクリスチャンにするためのものではなくて、その精神を学んで、それを人生や仕事の礎にするためのものです。

そのキリスト教精神一つに「神様のみが絶対者」だというものがあります。ですので、たとえば「私は最善の方法でやります」とか「絶対にお金を返します」とか言い人をよく見かけますが、キリスト教の立場で見ると、そんなに自分を信じ切っている人は余程の人物か嘘つきかのどちらかになります。神様からみれば人間などは不完全な小さな存在です。その小ささに気づくことが、すなわちキリスト教精神の第一歩で、これからの2年間、この精神を人との関わりを通して学んでいけたらと思っています。

最後に。礼拝では「アーメン」という言葉をよく使います。これは「その通りになってください」、「私もそう思います」、「私も同じです」などといった意味ですので、どうか、そういうつもりで唱えてください。

では、この1年、皆さんを退屈させないよう努力しますので、ずっと礼拝に参加してくれると嬉しいです。それをお祈りしながら、今日はこれで終わります。(チャプレン大西 修 主教 )

名古屋聖マタイ教会とサクラ

【コリントの信徒への手紙 一 2:23-26】
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

柳城短大の学年歴では、今日が新しい学期の始まりとなります。

すでに本学で1年間を経験している皆さんですので、今年は計画をしっかり立てて思い通りの学生生活を送れることでしょう。できる、できないは別として、計画は、立てることが大切です。

今年は実習と就職活動で忙しくなりますが、やり切る覚悟は持って下さい。それは、自立するための準備でもあるからです。ただし、悩んだ時は決して一人で抱え込まないことです。人間、内向きになると体の動きも悪くなります。気を楽に。誰もが同じように悩んでいるはずなので、あなただけが心配する必要はありません。

さて、今日の聖書では体のバランスについて語られています。誰でも、自分の体に好きな部分と嫌いな部分とがあって、それで全体が一つの体です。社会も同じで、構成員が互いに支え合うことで全体が機能します。1年後に社会に出ていく皆さんは、是非とも「愛をもって仕える」という本学の建学の精神を発揮して、互いに支え合ってみて下さい。

幼稚園で教育勅語を教え込ませるところがあるそうですが、これなどは「愛をもって仕える」精神とは対極にあるような気がします。相手がたとえ小さくても、大人の思い通りに一色に染めるのではなく、社会とは色々なタイプの人間でバランスを取り合うものであるという考え方を大切にしながら、保育に努めて欲しいと思います。

実は、私は本日で本学のチャプレンの勤めが最後となります。4月からは大西チャプレンが赴任されますので、これからは彼と共に歩んでいってください。私はこのマタイ教会の司祭としては残っていますので、また声をかけてください。

この1年、頑張ってください。(田中チャプレン)

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