*
カテゴリー:礼拝記録 の記事一覧

【ヨハネによる福音書3:1-6】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

本日の礼拝の中で、一人の姉妹の洗礼堅信式が行われます。この式が柳城の礼拝の中で行われることは多分初めてのことと思います。これはとても素晴らしい出来事です。

ほとんどの皆さんは洗礼堅信式という言葉を初めて聞くし、勿論見たこともないでしょう。

ですから今日はしっかり見て、なるほどこういうことなのかという体験をしてください。

洗礼」とは神様の子どもとして新しく生まれるために行われるキリスト教の一番大切な式です。今までの自分本位な古い生き方に死んで、わたしは神様に生かされているのだという自覚のもとに、新しく生まれ変わらせていただくため、イエス様がお残してくださったものが洗礼です。洗礼には目に見える外のしるしとして「水」を使います。

「水」はものを洗い流します。汚れを落としてきれいにします。洗礼で頭から水を注がれることが、見えない心の中の醜いものを洗い流していただく神様の恵みのしるしとなります。そこに神様の見えない力(聖霊)が働き、罪が洗い清められ、古い自分は死に、新たに生まれ変わるのです。洗礼をバプテスマと言いますが、バプテスマとは水の中に浸して一度死ぬことを意味しています。ですからバプテスト教会ではその名の通り、全身水に浸かる形の洗礼が行われています。

洗礼は「入信の式」と言われ、イエス様を信ずる教会(共同体)のメンバー、神の家族になる式です。私たちは家に入る時、土足では入りません。教会に入る時、入口で心をきれいにしてから入るために、洗礼盤は一番後ろに置かれており、そこで洗礼を受けます。

洗礼を受けるとき先ず「教名」(洗礼名、クリスチャンネーム)を付けていただきます。この名前は、この世でも、死んだのちにも神の国(天国)で通用する名前です。今、私たちが持っている名前はこの世での名前(俗名)で、死ねばなくなる名前です。

そして「教父母」(ゴッドファーザー、ゴッドマザー)が与えられます。成人の場合、男女一人ずつの教父母です。教父母は洗礼を受けた人の信仰上の両親となり、その人の相談役になったり、良きアドバイザーにもなります。

洗礼を受ける人は「捨てること」「信じること」「守ること」を、日々の生活の目標にします。「捨てること」とは、罪の虜であった自分を捨てること、新しい自分になることです。「信じること」とは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストの父なる神様、そして今も歴史を通して働いておられる聖霊なる神様を信じることです。さらにすべての人々を信じることです。

「守ること」とは、モーセの十戒、イエス・キリストの愛のおきて、神を愛すること、自分を愛するように、隣人を愛することです。これらを自力でクリアーすることはできません。ですから、この微力な私を支え、励まして下さる神様の力に信頼していくとき、これを達成できるのです。

堅信式」は洗礼を受けた人が、主教様に頭に手を置いていただき、聖霊なる神様の力をいただき、それぞれ与えられた場所へと進んでいけるよう、励まし祈っていただく式です。

これらのことを思い浮かべながら、今日の礼拝に出席してくださるようお願いいたします。(チャプレン大西 修 主教)

【イザヤ書42:9-10】
42:9  見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前に/わたしはあなたたちにそれを聞かせよう。
42:10 新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え。海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの/島々とそこに住む者よ。

今日のお話は「ミャンマーの女性と子ども」というテーマで、AHI(アジア保健研修所)2017年度研修生ナウ・イヴ・ナン(Naw Eve Nan)さんにお願いをしました。通訳はAHIスタッフの中島隆宏さんです。今年で3年目になったこの企画。今回は通常の巡回報告会と日程が合わず、特別に柳城短大他のためにご用意していただいたものです。AHIの皆さんの温かい心配りに、あらためて感謝いたします。

ミャンマー出身のイヴナンさんは、現在、ミャンマーYMCA同盟の人財開発部長をしておられます。少数民族に生まれたことで、幼い頃より様々な差別やいじめを受けて来たそうですが、学校の勉強を頑張ることで友人から一目置かれるようになってからは、それらがなくなったということです。大学では少数民族の文化を周囲に語り続けました。卒業後、苦労した末に今のYMCAに就職できたのですが、キリスト教関係の団体を望んでいたわけではなく、本当は精神科の医師になりたかったそうです。でも、YMCAへの道は神のご計画だったことを、彼女はのちに気づくのでした。今日の聖書の箇所は自分への約束だったと・・・。「少数民族として生まれた自分を見捨てることなく、神は私を強め助けて正義の手で守り、そして、自分に相応しい仕事を用意してくれた」とイヴナンさんは熱く語ります。

自己紹介の後は、ミャンマーのお国柄やイヴナンさんの現在の働きなどが紹介されました。いただいた多くの情報から、いつくかを以下にピックアップします。

●「Min Ga Lar Bar」(ミンガラーバー)、ミャンマー語の「こんにちは」には「私はあなたに一番良い物をプレゼントする」という意味があるとのことです。

●「ミャンマーの国家顧問兼外相であるアウンサンスーチーを私は尊敬しています。」(世界的に名の通った尊敬できる政治家がいるなんて、羨ましいですね。)

●ミャンマーには今でも人身売買が行なわれていて、その背景には貧困と法整備の遅れがあるとのこと。YMCAは人身売買撲滅に向けて草の根運動を続けているそうです。

●貧困層の子ども達のために、YMCAは休日に様々な子どもプログラムを実施しているようです。その活動は「神が作ったものは美しい」との信仰に基づいた、笑顔を作る環境作りだともイヴナンさんは語ります。

●「他人を変えるには、その前に自分自身を変える必要があることをAHIの研修を通して学んだ。私は人事の担当として、今まで、どうしたら他人を変えられるのかだけを考えてきた。」

「人生をエンジョイ、家族をエンジョイ、社会をエンジョイ、国をエンジョイ、平和と健康がすべての人々にありますように」と、話を笑顔で締めくくられたイヴナンさんがたいへん印象的でした。謙虚で明るく、信仰的で前向きな指導者の存在が、私にはまぶしかったです。通訳の中島さんも、いつも一生懸命にありがとうございました。(加藤)

★AHIのFacebookもご覧ください。

【ルカによる福音書19:1-10】
19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

今日の福音書に出てくるザアカイの物語は、絵本や紙芝居にもなっている易しい話ですが、これには深い意味があります。

ザアカイという名前には純潔/純粋という意味があります。日本式の名前でいうと清とか純子という感じになりますか。ザアカイの親はこのような名をつけて自分の子どもに期待をかけたはずです。でも、彼は徴税人の頭になりました。当時、支配者だったローマにユダヤは税金を払っていたのですが、それを集めていたのはユダヤ人でした。それを徴税人といいます。金の取り立て役ですから好かれてはいなかったでしょう。ザアカイはその中の「頭」ですので相当の嫌われ者だったはずです。本人も不正を働いて稼いでいたでしょうから当然かもしれません。

そんな金持ちのザアカイですが、自分自身に満足してなかった。背が低かったこともあるでしょう。だからエリコの町に来たイエスに興味が出てイチジク桑の木に登ったのです。葉が大きいので、隠れてこっそり眺めようという気持ちもあったはずです。

ところが、イエスから「ザアカイ」と突然呼びかけられた。これにはザアカイも驚いたことでしょう。「何で私の名前を知っているのか」と。さらにイエスから「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われる。「あくどいことをするな」と叱られても当然なのにイエスから優しく声をかけられたのです。周囲の人も「何であんな奴の家に泊まるのか」と驚いたことでしょう。

イエスの声掛けによって、ザアカイは自然に反省する気になりました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と。

イエスは上を見上げてザアカイに声をかけられました。英語で「理解する」はunderstandですが、文字通りunder(下に)stand(立つ)ことでイエスはザアカイを理解し、この嫌われ者に寄り添ったのです。イエスは、私たちの下に立って私たちを理解し寄り添ってくださる方です。

「嫌われ者に寄り添えられるか」。ザアカイの物語は私たちにそう問いかけています。(チャプレン大西 修 主教)

マリーゴールド

【ヨハネによる福音書20:19-21】
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

私たちは礼拝中に平和のあいさつを行っていますが、皆さんは、いったいどんな感じであいさつしていますか? まさか、怒りながらあいさつをする人はいないでしょうね(笑)

あいさつとは自分の心をオープンにすることです。ですので、自分から進んで心を込めることが必要です。実習中でもそうでしょう? もちろん子どもたちは皆さんにあいさつして来るでしょうが、その前に皆さんの方から名前を呼んであいさつしてあげることで、子どもたちは心が開き、良い気分で一日がスタートできるのです。

私は先日、ある5つの施設を訪問しましたが、はっきりランク付けができると感じました。ある施設では、玄関を入るなり、すぐに職員の方が出てきて詳しく案内をしてくださる一方、他では、受付に人はいない、「何のご用でしょうか」とけげんそう、「場所はここです」とだけ伝えるだけで詳しい案内もなし、という調子でした。この受付の様子から、その施設の入居者へのサービス精神が垣間見える思いでした。

学校も同じですね。入口の所でその施設の雰囲気が分かる。柳城はどうでしょうか?

柳城の保育の先生はいつもにこやか、という伝統が今も残っていると思います。これも先輩方のおかげ。来年120周年を迎える柳城学院です。後輩のためにも、皆さんがお手本になってください。

今の時代、子どもたちには「知らいない人には声をかけないように」と教えています。仕方のないことでしょうが、世の中、悪い人ばかりではないので大変残念です。こんな時代でも、「知らない人にごあいさつ」という気持ちを大切にすれば、それが皆さんや柳城にとって宝物になってゆくことでしょう。

ヘブライ語で「シャローム」というあいさつがありますが、これは「平和がありますように」という意味です。この思いであいさつを心がけてください。(チャプレン大西 修 主教)

ニーレンベルギア

【創世記11章1~9節】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

今日はセクシャル・マイノリティ(性的少数者)についてお話しようと思います。

2015年にアメリカ全州で、同性結婚が異性結婚と同等の権利を持つことが認められました。日本でも、2016年までに、東京都の渋谷区と世田谷区、三重県伊賀市、兵庫県宝塚市、沖縄県那覇市で、同性結婚の権利を一部認める「パートナーシップ宣誓制度」が開始されています。最近では、今年8月22日に愛知県の豊明市が「LGBT(※)ともに生きる宣言」をしました。

日本が同性結婚に関心を持った背景としては、2020年の東京オリンピック誘致も絡んでいます。2014年に国際オリンピック委員会が性差別の禁止をオリンピック憲章に盛り込んだため、LGBTを差別する国は誘致ができなくなったのです。

私も性的少数者の一人です。元は男として生活していたのですが、途中から女にかわりました。世の中、人と違うと生きにくいものです。たとえば、選挙に行くと、私は「あなた男じゃないの?」と聞かれることがあります。確かに戸籍上は男なのですが。杉原千畝が生まれた岐阜県加茂郡八百津町は、つい最近、住民らの要望に応え印鑑登録証明書から性別欄をなくしました。

さて、今日の聖書は「バベルの搭」で有名な個所です。

シンアルの地に住み着いた人々は、自分たちの町を有名にするために、力を合わせて高い塔を建てようとしました。協力し合うことは良いことですが、それがあまりに行き過ぎて、仕事が画一化して一人ひとりの多様性が失われることもあるわけです。そうなると仕事ははかどりますが、人間のおごり高ぶりに火がついて「神などいらない」という思いが生まれます。

従来、聖書のこの箇所は神の祝福が与えられないケースとして解釈されてきましたが、私はむしろ、人々がバラバラにされることに神の愛の祝福を感じるのです。人々が多様になると、まとまるのに苦労しますが、それは私たちにとって必要な過程なのです。

皆さんも社会に出ると様々な人々に出会いますね。考え方の違う人同士が互いに認め合うこと。そこに楽しみを見出して欲しいものです。保育の仕事でもそうです。多様な子どもに出会うはずです。中にはLGBTの子もいるかもしれません。私も子どもの頃、女の子の服が着たかったのに「変なこと言わない!」と怒られたこともありました。こんな私の様な子どもがいたら、今日のLGBTの話を思い出して、その子と一緒に考えてあげてください。(後藤 香織 司祭:名古屋聖マルコ教会牧師、柳城幼稚園チャプレン)

(※)同性愛者のレズビアン(L)、ゲイ(G)両性愛者のバイセクシュアル(B)、心と体の性が一致しないトランスジェンダー(T)といった性的少数者の総称

 

【マタイによる福音書第20:1~16】
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖マタイによる福音書だけに記されている「ぶどう園の労働者」のたとえですが、イエスはこれを通して、神の支配されている世界とはどのようなところか、神が持っておられるお考え、価値観とはどのようなものか、すなわち「天の国」「神の国」についてお教えになりました。

季節はちょうど夏の終わりの今頃です。パレスチナではぶどうの収穫がまっ盛りで、猫の手も借りたいほど多忙な時期です。ぶどう園の雇い主(主人)は朝早くから寄せ場(広場)に出て行って働き手(労働者)を呼び集めます。ぶどう園の主人は人出が足りなかったのか、さらに9時、12時、3時ごろにも、出かけて行って同じようにしました。さらにまた、日暮れ時の5時ごろに行ってみると、まだ立っている人たちを見つけ、「なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか?」と聞くと、彼らは「誰も自分たちを雇ってくれないからです。」と答えます。主人は「あなたたちもぶどう園に行きない。」と言って彼らを送り込みました。

さて、このたとえ話の興味深いところは、最後の日暮れ時の5時ごろに来て僅か1時間しか働かなかった人たちにも1デナリオンが渡されたことです。さらには、最後に賃金が支払われたのは、早朝から来て暑い昼(ひる)日中(ひなか)を1日中働いた人たちというおまけつきで「こんな不公平はない、理屈に合わない、おかしい」と彼らは主人に抗議しますが、主人は彼らに「わたしは何も不当なことはしていないし、約束も破ってはいない。わたしがしたいようにしてどうしていけないのだ。わたしの気前の良さを妬ましく思うのか」と答えたというのです。

5時ごろの人たちは1日ぶらぶら遊んでいたわけではありません。働きたくても仕事がない、どこへ行けばいいのか、今夜何を食べ、どのように過ごしたらいいだろう、日暮れ近く、そのような厳しい状況の中にいる人びとの思いを知って、主人は声をかけて招いたのです。この主人こそ、神を指し示しているのではないかと思います。彼らは主人に何を期待したでしょう。ほとんど何も期待していなかったのではないでしょうか。予想すらしていなかった、考えてもいなかった無価値と思われる者への呼びかけと1デナリオンの支払いに、ただただ驚くばかりだったのではないでしょうか。

主人は自分の考えとして「最後の者にも、最初の者と同じように支払ってやりたいのだ」と言います。それが主人の考え方であり、世界を見る目であり、主人の価値観、すなわち「天の国」でのものの見方、考え方、価値観なのです。神の平等はこの世の平等とは明らかに違うこと、そこに、計り知ることのできない神の絶大な恵みがあることをいつも心にとめていたいと思います。

働きたくても様々な要因(身体的、精神的、社会的、その他物理的な要因)で働くことのできない人もいます。「働かざる者は食うべからず」の格言はぶどう園のたとえにはあてはまりません。この格言でいう「働かざる者」とは「働くことが出来るにも関わらず、怠けて働かない者」を指しているからです。

残念ながら、わたしたちは5時ごろ雇われた人の気持ちにはなかなかなれません。何もしないで1日中不安と焦燥の中で立ったまま待っている辛さ、苦しさ、半ば諦めかけて日暮れ時を迎えようとしている人の思いを、わたしたちはどこまで、共有することが出来るのでしょうか。

東日本大震災のために愛する人を失い、傷つき倒れ、住居をはじめ多くの財産を失い、追い打ちをかけるように放射能汚染の恐怖の中に曝され、今なお不安の中で生きている人々、地震・大雨・洪水などにより、多大な被害の中にある世界各国の被災地にいる人々は、まさに5時ごろの人びとと言っていいのではないでしょうか 。

わたしたちは神と共に一緒に歩く者として、いや、神がわたしたちと共に一緒に歩いてくださっていることを信じる時、実は私たち自身が5時に雇われた者ではないかと気付かされるのではないでしょうか。

そのことに気づく時、はじめてこのようなわたしでも、無条件に、何の見返りも無しに愛し、受け入れてくださる神に感謝の思いをもって歩むことができ、苦難の中にいる人と共に一緒に生きていくことが出来るのではないかと思います。(チャプレン大西 修 主教)

ペチュニア

【テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18】
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです

今読みました聖書は、みんなに親しまれている聖書の言葉が載っているところで、教会の日曜学校の生徒や、付属の幼稚園、保育園の子どもたちもこの聖句が大好きです。

テサロニケの信徒への手紙1は新約聖書の中で最初に、パウロによって紀元50年ごろに書かれました。イエスは十字架の死を遂げ、三日目におよみがえりになり、40日間にわたって弟子たちに現れ、再びこの地上に来られること(再臨)を約束された後、天に昇られました。パウロをはじめイエスを信じる人々は、再び来ると約束なさったイエス・キリストを熱い思いで待ち望んでいました。パウロはテサロニケの信徒たちに、イエス・キリストがいつおいでになってもいいように準備するため、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉を書き送りました。 この言葉は復活されたイエスをキリスト(救い主)と信じる信仰に立ち、神の愛と希望に裏打ちされたもので、喜びと祈りと感謝が一つになって、今を生きる人々に力を与えています。

さて第1の「いつも喜んでいなさい。」の聖句で思い出すのは、わたしが園長をしていた幼稚園でのことです。園児のOちゃんがN先生に「先生、わたしのお母さんは毎日お仕事でお出かけなの。先生は毎日遊んでばかりで、お仕事しないの?」と語りかけていました。それに対してN先生はちょっぴり複雑な表情でした。わたしはN先生に言いました。「毎日遊んでばかりで、お仕事しないの?」って言われたことは、素晴らしいことだよ。もし反対に「毎日、お仕事ばかりしていて遊ばないの?」って言われたなら、それは保育者として失格かもしれないよ」と。子どもと一緒になって遊ぶ保育者の姿の中に、いつも喜んで保育者として過ごしている日々を垣間見る思いがしました。

第2は「絶えず祈りなさい。」です。祈りは神様との対話です。わたしの心の思いを神様に語り掛け、時には訴え、ぶつけます。そして神様からの返事を待ちます。神様からの返事は、わたしの思いどおりであるとは限りません。むしろ思いとは別の、あるいは反対のものであるかもしれません。しかしその返事をじっくりと時間をかけて思いめぐらすとき、必ずそこに何かが見えてきます。

祈りに課題があると、その祈りはさらに大きく広がっていきます。例えばあなたが思いを寄せている人と仲良くなりたいと願って祈るとき、その祈りはその人のことだけではなく、自ずからその人の両親、兄弟姉妹、友人のことへと広がっていきます。他の人のために祈るとき心が豊かになり、祈ることが喜びとなり、また他の人にも喜びを与えます。そしてこのわたしが祈られていることを知ったとき、喜びは倍増します。

さて第3は「どんなことにも感謝しなさい。」という聖句です。感謝・ありがとうはわたしたちの生活の土台になるものです。しかし、それをなかなか素直に言葉と態度に表わすことができません。Thank youはThink youからきていると聞いたことがあります。「あなたのことを考えること、思うこと」すなわち「神様のことを考えること、思うこと」が感謝の土台にあるのです。天地万物をお造りになった神様に思いを寄せ、感謝すること、ことに神様はわたしたち人間一人一人にかけがえのない尊い命を与えてくださっていることを覚えましょう。次に衣食住が与えられていること(ただし、富める人間の貪欲な罪のため、世界中の多くの国の人々の必要を満たすことができません。日本でも現在、衣食住にこと欠いている人々がいることを忘れてはなりません。)、わたしたちは多くの人々との緊密な交わりの中にあって生かされていることも心に留めたいものです。現代ほど、物の豊かな時代はこれまでになかったと言われています。確かに欲しいものは、少し余分にお金さえ出せば手に入る時代です。簡単に思いが叶うなら、心も満たされているかと言えば、そうでもありません。物の豊かさと心の豊かさは比例しないようです。ひょっとしたら、物の豊かさが心の豊かさを奪い取っているのではないかとさえ感じます。本当の感謝は有り難い(ありがたい)ところに見られるのかもしれません。それはわたしたちの目には見えにくくされ、隠され、見過ごしにされている人々や、弱く、小さくされた人々の中に見られるのではないかと思います。

わたしたちがやりたくない、したくない仕事を担っている人々、その人々のご苦労によってわたしたちがどれは多くの恩恵を受けているか、そのことに気づき、どれほど感謝しているでしょうか、そんな自分自身の態度をふり返ってみたいものです。

「どんなことにも感謝しなさい」、そんなこと無理、無理と思っているわたしたち。でも感謝できないと思える事柄に、素直に感謝の思いを抱いて「ありがとう」と言ってみると、自分が今ここに生かされている意味、そして意外と自分にも優しい心が与えられていることに気づかされるに違いありません。(チャプレン大西 修 主教)

ポーチュラカ

【コロサイの信徒への手紙3:12-17】
3:12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
3:14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
3:15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
3:16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
3:17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

今年も8月を迎えました。8月は平和を願う熱い祈りと思いと行動の月として過ごしていきたいものです。

第2次世界大戦後72年が経過しました。1945(昭和20)年8月6日には広島、9日には長崎に原爆が投下され、そして8月15日には敗戦の日を迎えました。今ではこの戦争を知らない人々が大半を占めるようになりました。このような現実の中で、戦争は世界をどのように変えてしまうものか、戦跡を訪ね、戦争がもたらす悲惨な現実の一端を見、数少ない体験者の方からお話をお聞きし、戦争を追体験することは大変意義あることだと思います。そして、平和がいかに大切であるか、真の平和とは何かを考える時が持てたらいいなと思います。

機会があれば、沖縄、広島、長崎などを是非訪ねて行ってほしいと思います。

長野市の松代というところを知っていますか。真田幸村の兄信之が最初藩主となった松代藩の城下町です。有名な佐久間象山、松井須磨子(新劇女優、カチューシャの唄 1919没38歳)、草川 信(ゆりかごの歌、夕焼け小焼け、緑のそよ風、どこかで春が、などの作曲者)の出身地でもあります。

この松代の町にワゴン車が楽に通れるような地下壕が三ケ所、硬い岩盤を縫って碁盤の目状に総延長13キロにわたって掘られています。1944(昭和19)年11月11日、午前11時に開始されたこの工事は9ケ月間、延べ300万人とも言われる人々(その中には朝鮮半島から強制連行されてきた約7,000人の人々も含まれます)によって進められ、たくさんの犠牲者を出しました。 敗色の濃くなった日本軍はこの地下壕に、大本営と天皇の御座所を東京の皇居から移す計画を立てていましたが、8月15日の敗戦を迎え、工事は計画半ばで終結し、皇居を移すことはありませんでした。松代の地下壕は「松代大本営の保存をすすめる会」によって保存運動が推進され、現在、見学することもできます。長野へ行った折には是非立ち寄って見学してきてください。戦争がもたらす過酷な状況を垣間見ることができます。戦争は戦地で戦う人たちだけではなく、一般の人々にも銃後の戦いと言われる厳しい深刻な状況をもたらすことが手に取るようにわかります。

今日でもなお続いている中東の戦争などは、平和からはほど遠いものがあります。現実に戦争によって心身に被害を受け、苦しんでいる人々、弱い立場にいる老人、子ども、障害を持っている人々、婦人たちの窮状は大変深刻です。

パウロはローマの獄中から書いたコロサイの教会の信徒への手紙の中で、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と言っています。また主イエスは「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と言っておられます。

主イエスやパウロが語る「平和」とは一体どのようなものなのでしょうか。

聖書では「平和」を静かで、平穏で、落ち着いた変わらない状態、あるいは、じっと待っていればやがてやって来るものとしてとらえてはいません。「平和」は既に出来上がっているものではなく、実現するもの、作り出すもの、動的なものとしてとらえられています。

ギリシャ語で「平和」を「エイレイネー」と言います。神学校の時に勉強したギリシャ語は大半忘れてしまいましたが、不思議に今も覚えている単語の一つが「エイレイネー」(平和)です。なーんでか?と言いますと、「エイレイネー」を「えーれーねー」、(豪いねー、大変だねー)とこじつけて覚えていたからです。平和を実現することは、エイレイネー、大変だねー、しんどいことだねーと覚えたわけです。

パウロはキリストの平和を実現するために、ローマで獄中生活を送りました。獄中の日々は本当に大変だったと想像しますが、彼は喜びをもって獄中から教会へ手紙を書いています。それは彼の心をキリストの平和が支配していたからに他なりません。キリストの平和はわたしたちを新しい第一歩へと導いてくれます。

復活された主イエスは、弟子たちのいる家の中にその姿を現され、「あなたがたに平和があるように!」と言われました(ヨハネ20:19)。この平和は「キリストの平和」です。家の戸に鍵をかけ、中にいた弟子たちを外へ連れ出し、勇気をもって新たな行動へと導いていく力が「キリストの平和」です。

カトリックの塩田 泉神父が作詞作曲された聖歌、「キリストの平和がわたしたちの心の、すみずみにまで行き渡りますように」を後で歌います。この聖歌を歌うたびに、アッシジの聖フランシスの祈りの一節「主よ、あなたの平和を人々にもたらす器として、わたしをお使いください。」を思い出します。キリストの平和を人々にもたらす器として、働いてきた多くの人々(シュヴァイツアー博士、マルチン・ルーサー・キング牧師、シスター・マザーテレサなど)は、苦難や困難の多い、厳しく険しい道(人生)を、喜びのうちに選び取っていきました。キリストの平和は忍耐をもって勝ち取るもの、臆病で自信のないわたしに勇気を与え、困難だと思われる道へとわたしを押し出して行きます。神によって与えられている尊い人々の命を奪おうとする悪の力に対して、勝利を信じ、勇気をもって立ち向かっていくことこそ、平和を実現する初めの一歩です。

この夏休み、どんな小さなことでもいいです、平和を実現するための働きを考え、実行してみましょう。(チャプレン大西 修 主教)

★本日は聖歌伴奏に管楽器が初参加です!
フルート(2)・クラリネット(1)(以上、保育科1年生の皆さん)・ホルン(1)(奏楽担当の柴田先生)の四重奏。やんわりとした雰囲気がチャペルいっぱいに漂いました。礼拝参加者も新鮮な気分でお祈りできたことでしょう。このチャレンジ、大切に大切にしていきたいです(^o^)/

 

【ローマの信徒への手紙12:9-15】

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

「平和を守る」というテーマでお話をします。

今日のテーマを選んだわけは、元沖縄県知事の大田昌秀(おおたまさひで)さんがこの6月に、そして、中国の民主活動家の劉暁波(りゅうぎょうは)さんが7月にそれぞれ亡くなられたからです。どちらも非暴力運動を通して自由とか人権を守るために身をささげた方です。劉さんは服役中の刑務所の病院で亡くなっています。

人が愛をもって上下関係に関わりなく平等に付き合えば、世の中は平和になります。大切なことは、「私たちは誰でも平等であるべきだ」という気持ちを持ち続けることです。その例がアメリカにあります。

50年前にマーティン・ルーサー・キング牧師がアメリカの黒人差別に反対して公民権運動を起こしました。彼は途中で暗殺されてしまいましたが、彼の非暴力運動はその後も長く受け継がれ、ついには、黒人系のオバマ前大統領が誕生するに至ったのです。「人は誰でも平等だ、正しいことは正しい」と多くの国民が言い続けたからこそ、アメリカの社会は変わったのです。

自由にものが言える社会は日本では当たり前かもしれませんが、世界には、そういうことができない国もまだあります。でも、そんな国にも周囲の国々からの影響を受けて、いつかは平等な社会が実現するかもしれません。

こういった意識を持って本日の聖書箇所を読んでみるといいでしょう。皆さんが平等への強い関心を持ち続けてくれることに期待したいです。(田中 誠 司祭:名古屋聖マタイ教会)

【ガラテヤの信徒への手紙 6:1-4】

6:1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
6:2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
6:3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。
6:4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

みなさん、こんにちは

今日は「人の心と心理学」というテーマでお話をさせていただきます。

人の心は移り変わるものですが、その時々の心の状態がその人の言動から分かる場合があります。それをいくつかご紹介しましょう。

①癖で髪とか指をいじる人を見かけますが、これは自分の不安を解消したいために、自分自身の体に触れて緊張感を和らげたいという行為です。こういった癖を代償行為と言います。体に触れることで子どもを落ち着かせるのも、こういった心理を使う点では同じです。

②「楽しい」と口では言いながら貧乏ゆすりをしている人がいますが、本当は、関心がないというサインなのです。他にも、ボールペンをカチカチさせる、腕を組む、頬杖をつく、居眠りするなども同じです。

③自慢話が好きな人がいます。度々だと避けたくなりますね。こういう人には切れ易いタイプが多いです。他には、立場の弱い人には威圧的だが目上には低姿勢、人前でクレームを言う、好印象を与える行動を取るなんていうもの自慢話が好きな人に多いです。元々、強い劣等感があるために自分を誇示するわけです。それを知ると、自慢する相手を許す気にもなりませんか?

④私たちの好きな噂話。「誰にも言わないでね」とささやかれると余計に言いたくなりますよね。でも結果は悲惨で、どんどん尾ひれが付いて周囲に伝わっていきます。その点では伝言遊びと全く同じです。ちなみに、噂話で人を褒めることは稀ですね。

人間は不思議です。人のある特定の評価を何度も繰り返し聞いていると、そのうちに、それが正しいと思えてきます。でも、それが本当どうかは、自分自身の目と耳で正確な情報を得て判断するまでは分かりません。

今日、こういった話を皆さんと共有できたことを神様に感謝します。(本学教員 山脇眞弓)

このページの先頭へ