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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【エズラ記(ラテン語) 第7章3節】
わたしは言った。「わが主よ、お話しください。」天使は言った。「海は広い場所に置かれていて、深く限りない。

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【ルカによる福音書 15章1~7】
15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

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このたとえ話のポイントの一つは、必死に探しているのは誰か、ということです。必死に探しているのは、迷い出た一匹の羊ではなく、羊飼いです。羊飼いが迷い出た羊を探しています。迷い出た羊は、たとえば、「見つけてもらうために努力した」など、何らかのアクションを起こした形跡がありません。一方、羊飼いのほうですが、あの迷い出た羊はこういう優秀な羊だから探そうなど、羊について何か条件を付けることもありません。つまり、羊はまったくの受け身、無条件です。
このたとえにおいて、羊飼いは神を意味します。そして、羊は私たち人間です。つまり、この物語のポイントは、探しているのは、迷い出た私たち人間ではなく、あくまでも羊飼い、すなわち神である、ということです。
私たち人間は、たとえば、どのようにして神を見つけることができるか、あるいは、どうしたら神に救われるか、と考えがちなところがあります。これは、自分たちが神を探す側にいると思っているからだと言えます。しかし、このたとえの構造はそうなっていません。このたとえの中においては、探しているのはあくまでも羊飼い、すなわち神です。私たち人間が、神を見つけるのではなく、神が私たちを見つける、ということです。私たちは、見つける側ではなく、見つけもらう側にいるわけです。

ここで示されている神の姿とは、何があろうと、徹底して私たち人間を探し出す神神から離れたと思い込んでいる人を見つけ出す神少数の立場においやられた人の立場に立とうとする神です。

イエスは、貧しさや不治の病などの理由で、当時、罪人とされていた一人一人を探し出し、一緒に食事をしました。イエスは、一緒に食事をすることで、その人の尊厳が回復されていくということを、何よりも喜びとしました。そのようにしてイエスは、罪人とされた人々との深い交わりを続け、その結果イエス自身も罪人と断罪され、十字架で処刑されるに至りました。それほどまでに、イエスは、自分の生死をも顧みず、一人一人を探し続けました。
このように、聖書が示す神は、私たち一人一人を、とりわけ、弱い立場にある人々を、無条件に、徹底して愛し、探し続ける神です。
先ほどお読みしました箇所に、羊飼いが羊を見つけたら、「喜んでその羊を担いで、家に帰り」とあります。羊飼いが羊を肩に担いだように、神が私たちを見つけた時、喜んで私たちを担いでくださるわけです。その時、それを一番喜んでいるのは、このたとえにあるように、他でもない神自身です。
神自身が、常に私たちを探し続け、そして、私たちを見つけることを喜びとしてくださっていることを覚えたいと思います。  (チャプレン 相原太郎)


アメジストセージ

【マルコによる福音書 第12章41節~】

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

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【ルカによる福音書 17章11~19節」
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

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 イエスの一行がサマリアの間を通って入ったある村には、特別に汚れているとされていた重い皮膚病を患った10人の人たちが共同生活を送っていました。その10人の中には、ユダヤ人とサマリア人が含まれていました。当時の社会では、サマリア人はユダヤ社会から差別を受け、ユダヤ人とサマリア人が一緒に暮らすことは通常ではありえませんでした。しかし重い皮膚病を患っているこの10人は、それぞれユダヤ人の社会、また、サマリア人の社会から追放されて自分の町に住むことができなくなったからか、追い出された者同士が身を寄り添って住むことになったようです。イエスは、そんな行き場を失った人達の暮らす村に立ち寄りました。
イエスは10人に「祭司に体を見せなさい」と言います。そこで彼らはその言葉に信頼して祭司のもとに向かいます。するとその途中で体は既に清くなっていました。しかし、当時のユダヤ社会では、重い皮膚病が治り、元の社会に戻るためには、ユダヤ教の祭司に見せて、その回復を証明してもらう必要がありました。だからこそ、道の途中で清くなったとしても、ユダヤ人は祭司に見せに行く必要がありました。しかし、サマリア人にはそれが許されていません。サマリア人はユダヤ社会から排除されており、ユダヤ教の祭司に見せたところでユダヤの共同体に戻ることができませんでした。
一方、サマリア人を除く他のユダヤ人9人は祭司のもとに喜んで向かったに違いありません。そして、祭司に自分たちの体が清くなったことを誇らしげに見せ、そして祭司に、もうあなたたちは重い皮膚病を患った人ではない、もう罪人ではない、あなたたちはユダヤ社会の正しい一員であると、認めてもらったことでありましょう。そして、彼らは喜び勇んで自分のもといたユダヤ人の共同体に帰っていったことでしょう。しかし、それは何を意味するのでしょうか。それは、すなわち、自分たちはもう重い病を負った罪人ではなく、サマリア人とは異なり、正しいユダヤ人として生きることができるのだということです。つまり彼らは、せっかく病気から回復したのに、ユダヤ社会の古い枠組みにしばられたままで、病者に対する偏見、外国人に対する差別感情は、もとのままであったということです。

他方、サマリア人ですが、清くなったのに祭司にもユダヤ社会の一員として認めてもらえず、トボトボと残念そうにイエスのもとに帰ってきたでしょうか。そんなことはありませんでした。彼は明るく自信に満ちた姿で帰ってきました。祭司に認めてもらう以上の、すなわち、ユダヤ社会に入れてもらう以上の喜びを感じているようです。というのも、彼は、イエスとの出会いを通じて、これまでの戒律に縛られた古いユダヤ社会の枠組みから解き放たれ、自分がもはやユダヤ教の祭司によって認めてもらう必要もないのだ、自分は自分のままで神に祝福され、ありのまま生きていていいのだ、ということに気付かされたからでした。

イエスはサマリア人に言います。「立ち上がって、行きなさい。」あなたは、もう大丈夫だと。なぜならば、あなたの信仰があなたを救ったからだと。神はあなたの存在をそのまま祝福される。あなたはそのことを既に理解している。だから安心して行きないと、告げられるのです。

今日、イエスは私たちにも同じように呼びかけておられます。「立ち上がって、行きなさい」と。あなたの存在を神はそのまま祝福しておられる。だから大丈夫だ、安心して行きなさいと。すべての人々に神が働いておられることに信頼し、感謝しつつ歩んでまいりたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


1号館南

【箴言 第22章6節】
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

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【テサロニケの信徒への手紙1 5:18】
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

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こんにちは、菊地篤子と申します。本日のお話の担当をさせていただきます。と申しましても、実際何を話せばよいかわからず、下原先生にお尋ねしたら「なんでもよいですよ。趣味のこととか」とおっしゃいました。そこで思ったのは、趣味について人に尋ねられたのは何年ぶりだろうかということです。しばらくの間、人に趣味を聞かれるような生活をしてこなかったことに気づきました。仕事や家事・子育ての中で、「だれがどんな趣味を持っているか」あまり必要のない情報なのではないでしょうか。つまり「趣味」について人に話す機会自体が久しぶりになります。
ところで、自分の趣味を人に語るというのは、部屋の中を覗かれるような気恥ずかしさを覚えるものです。なぜでしょう。おそらく「自分の内面の一部を外に出す作業だから」なのではないでしょうか。言い方を変えると「自分が何者か」、つまり自己(アイデンティティー)の表出だから気恥ずかしく感じるのかな、と思いつつ、今回はこれを少しお出ししようと思います。

「趣味」とは、辞書には「職業としてではなく、個人が楽しみとしている事柄」と書かれています。英語では「hobby」や「interest」があげられますが、本日ご紹介する私の趣味は「interest(興味を持って行う趣味)」に当てはまると思います。自分のライフステージとともに付き合い方が変化してきた「観劇」中でも「ミュージカル観賞」を紹介致します。

出会いは小学生のころで、おそらく最初は「ウエストサイドストーリー」だったと思います。バレエを習っていたことから舞台への馴染みがあり、とても楽しい観劇体験でしたが、地方在住ということもあり当時はなかなか機会を得られませんでした。本格的に楽しむようになったのは、大学時代です。「宝塚ファン」「劇団四季ファン」の友人の影響で数回一緒に出掛けました。中でも大学の卒業旅行の際、ロンドンで「オペラ座の怪人」を観たことは得難い体験で、他にももっと観たいと思うようになりました。それがきっかけで大学院生になるとすぐに一人観劇をするようになりました。特に劇団四季の舞台は頻繁に通いました。いくつかご紹介します。

一つ目は「クレイジー フォー ユー」です。ガーシュウィンの楽曲で、Boy Meeets Garlの軽快なストーリです。タップダンスが多く、リズミカルで元気で明るい演目で、若い頃は最もよく観に行きました。二つ目は「オペラ座の怪人」です。アンドリュー・ロイド・ウェーバーの楽曲で、ストーリーは暗いのですが、曲や歌が好きでした。三つ目は、同じくアンドリュー・ロイド・ウェーバー楽曲の「CATS」です。おそらく一番回数を重ねて観ている演目です。当初、あまりにメジャー過ぎて興味を持つことができずにいたのですが、叔母の「猫の世界に人間社会の縮図が見える」という言葉に誘われ観たのち、何度も通うようになりました。「CATS」は時代によって少しセリフが変わったり、演出も徐々に変化します。ロンドンのオリジナルの舞台と同じだったり、日本独自の曲・ダンス・演出になっていたり、公演地域で舞台背景が変わったりするなど、時代、場所などで異なった楽しみ方ができます。

他の演目を含め、国内だけでなく海外でも、旅についでに観に行きましたが、そこで感じたことは「海外ではチケットがすぐ手に入り、身近な文化である」ことでした。日本は、半年後のチケットの予約はよくあることですし、人気のものはなかなか手に入らず、関係のある会員登録が必要なことも多いのが実情です。

さて、こののち妊娠出産を境に、しばらく「冬眠期」に入ります。時間的にも経済的にも、やはり無理でした。それでも子どもが小学生の頃までは「ライオンキング」や「裸の王様」など子どもにもわかりやすそうな演目を選んで出かけていました。しかし、中学生になると部活などが多忙でそれもなくなりました。家族で観劇をすると1回数万円かかり、かつ、地方在住なので一日がかりになってしまいます。こうなると趣味はもはや一大イベントと化し、当然継続性はありませんでした。だからといって家族を放って一人で出かけようとも思わなかったので、子どもたちの受験がすべて終わるまでのおおむね約10年は「冬眠」状態でした。

子育てがある程度ひと段落したのが一昨年で、そのころ高校時代の友人が誘ってくれたことをきっかけに少しずつ「リハビリ」のような感覚で観劇を始めました。驚いたことは、チケットの取り方が10年で激変し、スマホで、ネットで取るようになっていたことです。また、大好きだった役者さんが演出・振り付け担当になっていたことにも時の流れを感じました。この年数回の観劇が叶いましたが、やはり地方住民にとっては大変な労力を伴いました。それでも「これからもっと遠征して楽しもう」と思っていたところ、コロナ禍に突入しました。

コロナ禍の観劇の中心は「オンライン観劇」です。この1年半で数作品見る機会がありました。オンライン観劇のメリットは、何といってもチケットは売り切れが無く、そして安価です。移動時間もないので時短観劇が可能です。また多くの場合一定期間の繰り返し視聴が可能で、気に入った場面を何度でも楽しむことができます。一方、デメリットは臨場感が激減することです。ただ「観た」だけ、ともいえるかもしれません。実感したことは、オンライン観劇は「本物の舞台への興味を保つための“つなぎ”」なのではないか、ということです。実際「生の舞台を観に行きたい!」という欲求はむしろ強くなり、集客制限がある中での観劇を実際に数回体験しました。そこには独自の臨場感がありました。観客は普段より大きめの身振りで拍手をしたり手を振って声以外の手段で感動を伝えたりしていましたし、演者の方々もこの時間を一緒に盛り上げよう、という気概が伝わるようなパフォーマンスだったりするなど、演者と観客の一体感のようなものを味わうことができました。

さらに、今年度から名古屋に拠点を置くことになり、いよいよ地方住民からの脱出です。名古屋には素晴らしい劇場がいくつもあるので、実際にはまだ行くことは叶っていないのですが、劇場が身近にあるだけで嬉しく感じています。今後に期待したいです。

今回これまでの自分の観劇を振り返って思ったことは、趣味を楽しむには「余裕」が必要だということです。時間や経済面もそうですが、もっとも大きいのは「精神的な余裕」だということです。話す内容を整理しながら「現在、私は精神的な余裕を持てているらしい」と自覚することができました。これは自分の趣味から全く遠ざかっていた時代があったからこそ感じることで、現在、様々なめぐりあわせでこの状況にいることに、ありがたみを実感しています。

さらに、現在になって趣味が拡大しつつあります。今どきの言葉でいう「推し活」の体験です。あるお気に入りの俳優兼演出家さんの活動を、様々な情報網を駆使して追うことを自宅にいながら楽しんでいます。「舞台を観に行く」以外にも観劇の楽しみ方があることを知り、一層趣味に深みが増しました。

今回、自分の観劇の変遷を振り返りまとめるのは楽しい作業でしたし、これを「楽しい」と思えてよかったと思います。おそらく少し前だったら、行けない・我慢・諦め等というマイナスワードが紐づいていたに違いありませんし、そもそも趣味の話をしようとすら思わなかったでしょう。とても前向きな気持ちをいただいた時間となりましたことに感謝申し上げたいと思います。

以上、個人的かつ稚拙な話題にお付き合いいただき、ありがとうございました。
(名古屋柳城女子大学 准教授 菊地篤子)

【ルカによる福音書 9章18~24節】
9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
9:19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
9:20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
9:21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

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イエスがガリラヤで活動を開始すると、その噂は一気に広まっていきました。多くの病人を癒やし、新たな教えを語るイエスについて行きたいと思う民衆たちが、どんどん集まるようになっていきました。イエスが、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と発言したのは、イエスについて行きたい人たちが爆発的に増えた時期でした。
人々は、イエスに大きな期待を持っていました。それは、彼こそが救世主であると思ったからです。その当時、イスラエル地方は、ローマ帝国に支配され、様々な自由が奪われていました。人々は、そのような支配から脱するためにヒーローが現れ、ローマを追い出してくれることを待ち望んでいました。そして、そのようなリーダーこそが救世主でありました。

しかし、イエスは、自分がそのような意味での救世主、ヒーローになるとは考えていませんでした。そこで、イエスは、もし私について来るのであれば、日々、十字架を背負いなさい、と言われました。
十字架を背負う、というと、一般的には、おそらく、何か、自分が犯した罪の意識をしっかりと自分で受け止めて生きる、といったニュアンスだと思います。しかし、本来、十字架を背負うとは、罪意識を持って生きる、というような程度の意味ではありません。
十字架を背負うというのは、十字架の印をギュッと押される、という意味合いの言葉です。それは、言い換えるならば、この世の中の常識と対峙してでも、ブレずに、神に従う、というような意味で理解していいと思います。そして、神に従う、ということは、例えば、この世の中の価値観に埋没し、他者を切り捨て、自分だけが満足する、そのような生き方から離れる、ということです。十字架の印を押されて神に従うこととは、十字架に至るイエスの生き方が示しているように、痛みが伴っても、リスクがあっても、出会う人、一人ひとりを大切にして生きる、愛に生きる、ということです。

しかも、「日々、自分の十字架を背負って」です。「日々」ですので、何か、特殊な条件の時だけに背負うのではなく、毎日ということです。愛に生きるとは、特別な時だけでなく日常においてです。日々、自分の十字架を背負うとは、イエスがそうであったように、他者のため、他者に支える者として、日々の暮らしを生きていくということでありましょう。
イエスは、一人一人が、自分の暮らしの中で、様々なリスクを伴っても、愛をもって仕えることを実践してほしい、それこそが、わたしについて来ることそのものなのだ、と語られたのでありました。

イエスは、今日の箇所の最初の方で、弟子のペトロに次のように問いかけています。「あなたがたは私を何者だというのか。」他の人たちは、自分をメシアだと理解しているようだが、あなたは、あなた自身は、私を何者だと思うのか。これは、今、イエスに連なる私たち一人一人に対する、イエスからの問いかけでもあります。私たちは、イエスに連なる者として、世間的な常識や価値観に流されることなく、日々、十字架を背負って、日々、愛に生きることを通して、イエスが示された道を追い求め続けるものでありたいと思います。   (チャプレン 相原太郎)


オオスカシバの幼虫

【ヨハネによる福音書 第5章21節】
すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。

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【ルカによる福音書 12章13~21節】

12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

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イエスは言います。「貪欲に注意しなさい。有り余るほどの財産を持っていても、人の命は、財産によってはどうすることもできないのだから。」
人間の生命そのものは、財産や所有物によって成り立っているものではない、ということです。これを聞きますと、お金で寿命は延ばせない、死んでしまっては何もならない、という意味に捉えられると思います。それは確かにそうなのですが、人の命は財産ではどうにもならないという時の「命」という言葉は、単に生物学的な意味での命ではなく、人間の生死を超えたクオリティとしての命、命の質ということを意味します。したがって、ここでの「人の命は財産によってはどうすることもできない」とは、命のクオリティを財産によって高めることはできない、ということです。

このことの意味を明確にするために、イエスは譬えを話します。
ある金持ちが持っている畑が大豊作になりました。その金持ちは悩みます。収穫物をしまっておくところがないためです。そこで、彼は、現在の倉を一旦壊して、もっと大きな倉を新たに建てて、そこに保管することにします。収穫物を溜め込んで安心した彼の前に神が現れて言います。「せっかく財産を蓄えたようだが、今夜、あなたの命は取り上げられてしまう。」

自分の財産を少しでも蓄えて将来に備えて安心したいと思うのは当然だと思います。それはそれとして必要なことです。ここで、イエスが問題にしているのは、私たちが生命を維持し、健康的な生活を営むために必要な蓄えのことではありません。問題なのは富と呼ばれるものです。それは端的に言えば、普通の暮らしをしても、あり余る財産やお金のことでありましょう。
ここに登場している金持ちの態度を見ると、財産を蓄える、と言っていることの意味がはっきりしてきます。特に金持ちのセリフの原文は印象的です。私の作物、私の倉、私の穀物、私の財産というふうに、やたらと「私」という言葉が出てきます。この金持ちの関心ははっきりしています。自分です。自分のことだけです。
現代においても、食糧の分配の不平等は世界的な問題ですが、それは当時も同じでした。にもかかわらず、彼はその不平等を見ようともしません。彼が倉庫を建てて蓄えようとしていた食糧は、彼の、あるいは彼の家族が食べていくために必要な量をはるかに超えていました。このことが問題であったわけです。
食糧を独占しようとする彼の自己中心的な態度について、イエスは、人の命は財産ではどうにもならない、と言ったのでありました。それはすなわち、財産をいくら自分の中に貯め込んでも、いのちをクオリティ、命の質を高めることにはならない、ということです。

そしてイエスは「自分ために富を積んでも、神の前に豊かにならない」と言います。これは、シンプルに言い換えれば、私たちが自らの富を他者と分かち合うことこそが、私たちの生きる質を高め、神の前に豊かなものにされる、ということでありましょう。それは、この物語が示しているように、「私が、私が」と自己中心的にならないということです。すなわち、相手の命を輝かせることこそが自分の命を輝かせることになるのであり、それによってこそ、私たちは神の前に豊かに生きることができる、ということです。ついつい自己中心的になってしまう私たちですが、他者と分かち合うことを通して、命の質を大切にする生き方を追い求めていきたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


1号館南

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