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「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29−31)

今回は申命記とレビ記を引用しながら諭されたイエスの御言葉から、私達が聖書を読み学ぶ際の最も大切な要点について学ぶことが出来ました。

エルサレム入城を果たされたイエスのもとに一人の律法学者が進み出ました。そして「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたのです。

すると、イエスはその問いかけに対し、「神を愛する唯一の証明は律法を守ることだと、あなた達はかたくなに信じている。しかし、聖書には神、そして隣人への愛を一番大事にせよと、ただこれだけが書いてあるではないか。」と仰ったのでした。

イエスの応答は常に理性的でシンプルです。そうすることで律法学者たちに強烈なメッセージを示されたのです。

この記事から私は、現代の私たちも聖書の御言葉を深読みしすぎて「頭でっかち」になっているのではないかなと感じました。私は改めて今回の学びから、聖書は神学のための教科書ではなくて、愛を実践するためのガイドブックであり、その中に記された「愛」はイエス・キリストそのもののお姿であると知りました。

イエスの愛は言葉や掟に頼ることのない、理性に満ちた愛です。「愛」と「甘やかし」の区別が苦手な日本人にとっては、そのシンプルさは冷たく、厳しく感じることもあるかもしれません。しかし私はその根っこに、相手の成長を見据えるような真実の愛を感じるのです。その真実とは、時には耳に痛く刺さるものですが、振り返ってみた時、その愛によって強くなった自分を感じられます。

私は福音書を生活の中に取り入れながら、イエス・キリストの愛を知って、少しずつでも成長していきたいと思います。(Y)


ノースポールの根っこ

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)

今回は人間たちの愚かな企てを見抜かれたイエスのお姿から、人間の思いを遥かに超えたイエスの知性・人格について触れることが出来ました。

宮清めの後、群衆の人気をさらに集めたイエスの言葉尻をとらえて陥れようと、ファリサイ派、ヘロデ派の人間がイエスのもとに再びやって来ました。統治国であるローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適っているのかと問答をふっかけるためです。

その直前、彼らはイエスを褒めちぎっています。それ程に、この質問はイエスにとって、「Yes」「No」のどちらに答えても不利なものだったのです。取り巻いていた民衆たちは固唾(かたず)を飲んでその様子を見ていたことでしょう。

狡猾な彼らの下心を見抜いたイエスは「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」(12:15)とおっしゃった後、銀貨を見て誰の肖像で銘か?と、今度はイエスの方から問われました。

そこで「皇帝のものです」と答えたファリサイ派、ヘロデ派の人間に対し、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、驚くべき返答をなさったのでした。

記事にも、その場にいた人間はそのイエスの答えに驚き入ったと記されています。イエスの言葉を聞いた人々はイエスの答えの真意を考えますが、どうやっても分からずじまい…。きっと頭の中で「?」がさまよっていたことでしょう。

イエスは初めから質問に答えるつもりはなかったのです。「イエスを巧みにやりこめる」と思った人たちの浅はかな企てを、すべて見抜かれていたからです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という御言葉の真意は、たとえば「政治と信仰とを別々に考えなさい」とかいうものではなくて、ただイエスは「Yes」でも「No」でもない真意の分からない返答をなさったのでした。私たちは、そこにイエスの遥かに超えた知性を確信出来ます。

また、単なる返答ですまさない所にイエスのもう一つの知性である「メッセージ」があると思いました。それは彼らのやり方、下心を「分かっている」というメッセージです。自分たちが思っていた以上に、イエスが遥かに優れた知性をもつ存在だと、この問答の結果ファリサイ派らは理解せざるを得なくなりました。

まさに脅威。「自分たちでは手に負えない男だ。しかしこれ以上生かしておいては、自分たちの立場には有害だ…」こんな風に感じたのではないでしょうか。それこそが彼らの傲(おご)る姿をあらわしています。

今回与えられた解説から私はイエスの神性の尊さを知り、よりいっそうの深い畏敬の念を抱きました。

そしてイエスをもっともっと知りたい!と願います。
次回も主に感謝し、仲間とともに御言葉を学んでいきたいと思います。(Y)


シロツメクサの冠

「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)

今回の福音書では「枯れたいちじくの木の教訓」が扱われました。

かの哲学者バートランド・ラッセルはこの場面で、「賢明さの点でも、徳の点でも、歴史に知られている他の人々ほどキリストが高くあったと思う気はわたしにはしないのであります」とイエスを酷評しています。いちじくが実をつけていなかった腹いせに、イエスはいちじくの木を呪って枯らせたと彼は思ったからです。

でも、葉ばかり立派な「いちじく」を見て、イエスは弟子たちを教え諭すチャンスにしたのではないでしょうか。つまり、彼は、見てくれは立派でも、愛を実践しない当時の宗教指導者らを「枯れるいちじく」にたとえようとなさったのです。

その思いは弟子には伝わらなかったようで、ペトロは木が枯れている事実だけに驚きます。それでイエスはペトロに合わせて話題を変え、「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(22-23)と語ります。

しかし、このイエスの言葉はいちじくの木が枯れたことだけを基にした説教なのでしょうか。イエスにしては内容が少々陳腐な感じがします。

実は、このいちじくの木の話の間に、あの「神殿から商人を追い出す」いわゆる「宮清め」の話が挿入されているのです。今回はここに注目しました。

商人を神殿から追い出すというのは死を覚悟するくらいの「荒業」でした。事実、イエスの十字架刑はこれによって決定的になったとさえ言えるのです。それを決行する前にイエスは、おそらく、神に相当祈ったに違いありません。「父よ、果たして、そんな大それたことが私にできるのですか?」。でも、イエスの祈りは、いつしか自信へと導かれます。「きっとやれる!」。

24節の「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」というイエスの言葉は、実は、人が自分自身で行動しようとする場面に向けての励ましの言葉だったのです。

今回与えられた新しい解釈から、私は祈りには、自分自身の行動を実現に導く力があることを知りました。

私はこれからも福音書を学び、神に祈り続けます。そして自身の不完全さを完全へと少しでも近づけられる人間になりたいと願います。(Y)

 

「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

今回はイエスが徴税人レビを招かれた記事を通して、イエスが私たちに問われる人生の「立ち位置」について考え学びました。

当時のイスラエルでは、「徴税人」と呼ばれるイスラエル人がローマの請負人として自国の民から税金を取り立てていました。彼らは民の嫌われ者だったにもかかわらず、レビたちは仕事を続けていました。それだけ、今で言うところの「おいしい職業」だったのでしょうか。

一方、ファリサイ派の律法学者らは、自分たちの作った律法が守れない庶民を罪人呼ばわりしていました。彼らの律法は、こと細かな規則で出来上がっており、庶民にとって生活上どうしても守ることが出来ない無理難題ばかりでした。

そんな庶民をバカにしていたファリサイ派の人々は、愚かにも自分たちは「正しい」と思い込んでいる人間たちだったのです。

イエスはいつどんな時にも、弱い立場の人間の味方です。レビは嫌われ罪人扱いを受けていた、いわば光が当たらない側の人間です。そんな孤独なレビにも手を差し伸べられるイエスは、彼ら罪人にも光をお与えになられたのです。イエスが私たちに示された「人生の立ち位置」とはこういうことです。

私は、このイエスの「光」に憧れを持ちます。嫌われ者に「わたしに従いなさい」と仰ったのです。レビはどんなにか嬉しかったことでしょう。

イエスが行った愛の実践が、果たして自分にできるのか、私には全く自信はありません。しかし、だからこそ、イエスのなされた愛を常に理解し少しでも近づきたいと、福音書を読んで学び続けたいと願います。その努力の過程にクリスチャンとしての自覚を感じたいのです。

終わりに、今回教えていただいた、あるクリスチャンの言葉をお伝えします。

「ある人々は教会やチャペルの鐘の音が聞こえる範囲内に住みたいと願う、わたしは地獄の庭のなかで救済所を開きたい。」

主に感謝。(Y)

「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

「正しい人」というのは、自分が一番正しいと思ってる当時の律法学者や司祭職などの権力者たちのことを言い、本当に正しい人は、イエス・キリストただお1人のみだったのです。

世間の嫌われ者を弟子に迎えたりするなど、光が当たらない側に立って光を与えるのが人生の立ち位置だったイエス。これこそが愛の実践です。

私も、周りを見渡して人を助けたりすることができる、そんな人になりたいと思いました。(YK)

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

「人間をとる漁師」とは罪人を招く人のことをあらわしています。この当時、律法学者らが決めたこと細かな規則(律法)を守ることが信仰の上で大切とされ、この律法を守れない人は罪人と呼ばれ蔑まれていたのです。

イエスは、それら弱い立場に置かれている民衆を束縛の痛みから解放するため、世に遣わされました。

ペテロ、アンデレ兄弟はすぐに網を捨てて従い、ヤコブ、ヨハネ兄弟も父やその雇い人を残しイエスに従って行きました。

彼らのこの純朴な姿は、現代の私たちに大切なヒントを与えてくれていると思います。彼らはイエスと初めて出会い、イエスを感じ、イエスのみを信じ頼る人生を選んだのです。

クリスチャンはイエス・キリストの愛の実践を目指して生きる人間です。それは常に進歩し続ける人間であることを意味します。人間の人格形成には、その芯となる基礎が重要です。クリスチャンはその基礎をイエスの生き様に置きます。イエスを知れば、自然に人生が死ぬまで前向きになります。

イエスは常に弱者の味方でした。だから今回私は、イエスに魅かれる人は日頃から自分の弱点を知っている「弱い人間」であることを知りました。「宗教などに頼る人は弱い人間だ」と思っている人がいますが、それは確かにその通りです。でも、弱いからこそ、イエスに頼って向上し続けるのです。それに、「宗教に頼らない人」よりは世間に流されずに自分自身を強く感じて生きて行けるような気もします。

宗教を持たない人であっても、イエスの人生を福音書から学ぶことによって、イエスそのものの息づかいを感じ取り、生きていく糧を得ることが出来るのではないでしょうか。

それはその人だけに見える、光り輝く喜ばしい強さ、つまり「真理」であると感じました。(Y)


花壇でランチ

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

イエスは彼らに、わたしと一緒に弱い立場の人を救おうと言われたのです。
イエスは人々を助け、弱い立場の人の味方になり、たった1人で真実に立ち向かわれた方でした。

・人生の目的=イエス・キリストの愛の実践
・わたしについて来なさい=わたし(イエス・キリスト)とともに歩みなさい
・人間をとる漁師にしよう=罪人/弱者を救う人にしよう

イエス・キリストの愛を感じながら、これからもキリスト教のことをもっと学んでいきたいです。(YK)


ハナアブ

【マルコ11:17】
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」

今回のテーマは「イエスの宮清め」と言われている有名な記事です。私はお話を聞くうち、その当時の人々の心や姿がイメージできて強い臨場感を持ちました。そしてイエスの真の愛について学ぶことができました。

神聖であるはずの当時のエルサレム神殿は、商人と祭司長、律法学者のための商業システムが成り立つ偽りの神殿でした。

いけにえの動物は無傷かどうかが事前に調べられ、「不合格」ならば商人が用意した動物を購入する必要があるとか、献金専用の貨幣への両替を強制され、その手数料も取られるなどといった見事な金儲けのシステム・・・。もちろん、商人が儲かれば、その「元締め」である祭司長らの懐も潤うということです。

参拝者は不満を抱えていたでしょうが、エルサレム神殿の絶対権力には手も足も出せません。

そんな状況でイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と宣言して商人たちを蹴散らしたのです。表向きは「宮清め」ですが、実際は「宗教権力者への警告」と呼んでもいいほどの衝撃的な出来事で、イエスの十字架への道がこれによって確定したと言ってもいいでしょう。

一方、商人らが混乱する様を見ていた群衆はきっと大喜びだったでしょう。イエスの「祈りの家」宣言に心打たれた群衆はイエスをますます慕うようになります。それがかえって宗教権力者らの嫉妬心をさらに強めることになりました。

イエス・キリストは「愛の人」であるとよく言われます。私もクリスチャンになる前には、そのように大きな優しさに溢れるイエス像を感じていたものです。

しかし福音書を学ぶごとに真のイエスが見えてきました。

もちろん、最高の愛の人であることに変わりはありませんが、その愛の内容がもっと深いのです。

今回、私は「警告」が愛の一つの表現であると学びました。愛があるから、イエスは祭司長や律法学者の偽りの行いに対して無視することができなかった…。彼らに悔い改めのチャンスさえ、お与えになったのです。マザー・テレサが言うように「愛の反対は無関心」だからです。優しさばかりを強調して、それがかえって人の成長を妨げる場合があります。「甘やかし」がその典型ですが、人の成長に無関心という意味では愛とは言えないと思います。

人が普通は避けたがる「怒り」ですが、その中には真の愛が含まれることがあります。それは悪を戒め浄める力です。私はそのイエスの御心を心から尊敬し仰ぎます。

次回も福音書を通して、イメージを膨らませながらイエスの道を学んでいきます。(Y)


カラスの営巣

【感想】

イエスは人々に優しく、人々のために生きていた人物ですが、ただ優しいだけではなく優しさの中に厳しさがあったのだと思います。

神殿から商人を追い出す場面では、イエスの怒りは感じられますが、怒りの中に商人に対する「愛」があったのです。

イエスの優しさというのは、時には厳しく人々に接するということ。

それは柳城の先生や、実習園の先生にも言えることだと思います。私に厳しく言われる時もあるけど、それはきっと私に対して愛を持って言われているのだと、この聖書の学びで感じることができました。(YK)


柳城短大の桜

今回の聖書箇所は…
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:13-16)

実習園で子どもたちと接したり関わって思うことは、子どもは素直でまっすぐだなということです。

大人になるにつれて、面と向かって相手にはっきりと言えたことが人と合わせるようになったり、反抗的な態度になったりしてしまいます。

2000年前のユダヤの子どもというのは、今とは違って価値のないものとして扱われていました。

弟子たちはイエスを変に気づかって、子どもが近づくのを嫌い、親を叱りつけました。

そんな弟子たちにイエスは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と伝え、子どもたちを抱き上げて祝福されました。

「子供のように神の国を受け入れる」というのは、一つには「子どものように素直に神の国を受け入れる」という意味で、だから子どもたちは誰よりも神の国に近いのだとイエスは語りました。(子どものような価値のない弱者を受け入れるような気持ちをもって神の国を受け入れる、という解釈もできるそうですが)

そんな子どもたちが大好きだったイエス。そしてイエスがいたからこそ今の私がいて、そんな私も子どもと携わる仕事を目指して毎日頑張っています。

子どものような素直さを忘れずに、イエス・キリストの愛を感じながら過ごしていきたいと思います。


押し花作り

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