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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

【マタイによる福音書 18:21】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

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【マタイによる福音書6:7-8】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

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皆様の中には、大学入試の時などに、どこかの神社に行って「試験に合格しますように」とお祈りをしたり、合格祈願のお守りなどを買ったりした経験がある方も多いのでないかと思います。

苦しいときの神頼み、と言いいますが、お祈りというと、自分が願うこと、求めることが実現するようにと、祈るのが一般的だと思います。困難な状況に陥った時、「神様、助けて」と祈るのはごく自然な感情で、それ自体は大切なものだと思います。ただ、その祈りが、自分のためだけの祈り、自分勝手な祈りとなり、他の人を貶めることがないか注意が必要だと思います。とは言うものの、私たちはどうしても、自分のことを中心に考えてしまいます。自分勝手、自己中心から、私たちはなかなか逃れることができません。そう考えていきますと、どう祈っていいか分からなくなってしまいます。

イエスは、言います。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」

「くどくどと祈る」とは、あれがほしい、これをしてほしいと、自分勝手に、自己中心的に、神に自分の希望を要求することを意味します。神は、自分の願いを何でも叶えてくれる安価な四次元ポケットではありません。神が、人間である自分の思った通りのことをしてくれるのであれば、それはもはや神ではなく、自分自身となってしまいます。

そこで私たちは、発想をひっくり返す必要があります。それは、神に自分の願望をお願いする、自分から神に願うことを考えるのではなく、神が求めていることを自分が行うことができるように願う、ということです。

考えてみれば、そもそも神は私たちを理解しています。何が必要かもわかっておられます。そしてそれは、自分が願っていることとは違うことかもしれません。したがって、私たちが祈ることとは、自分が神に依頼して神に動いてもらうことではなく、その逆で、私たちの狭い思いを超えて、自分が神によって動かされること、神の必要性に自分自身の身を委ね、投げ出せることを願う、ということです。つまり、祈るとは委ねることです。

では、具体的にどのように祈ったらよいのでしょうか。その一つの明確な答えこそ、私たちがいつも唱えている「主の祈り」です。

すなわち「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」です。私たちの思いが、自分の願いが、ではなく、神のみこころが私たちの間でおこなわれますようにと祈ることです。

みこころが地にも行われますように、みこころがこの柳城学院にも行われますように、みこころがここにいる私たち一人ひとりにも行われますように。今日もそのように願ってまいりましょう。(チャプレン 相原 太郎)


芝生の水やり

【コリントの信徒への手紙一3:18】
3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

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後期が始まりました。残念ながら対面での授業ができない状態で後期を迎えることになってしまいました。まだまだ大変困難な時期が続きますが、この秋、全ての学生が実りある学びのときを送ることができますことをお祈りいたします。

私たちは、毎週、大学礼拝でこのように祈っています。

「共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができますように。」

私たちの学びとは、知識を深めて、真理を悟ることによって、愛をもって互いに仕える者となっていくことにあります。遠隔授業におきましても、そのような学びのときが、切れ目なく続けばと思います。

さて、先ほどお読みしました聖書には、ちょっと妙なことが書かれています。

「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

これは書いたのはキリスト教初期の大宣教者パウロです。

大学の先生方にとっては、あまり気持ちの良いフレーズではないかもしれません。この世の知恵は愚かだ、と断言するパウロは、私たちが日夜努力しているような大学での学び、知恵など、いらないと、否定しているのでしょうか。それは、真理にとって邪魔だ、ということでしょうか。もちろんそんなことはありません。

この言葉は、パウロによって書かれたコリントの信徒への手紙という文書にあるものです。

コリントとは、ギリシャの首都アテネから80キロほどの場所にある地方都市です。パウロも一時期そのコリントに滞在し、仕事をしながらイエスの教えを広めていました。ところが、パウロがコリントを去った後、彼らは、いくつものグループに分かれてしまいました。自分たちはパウロにつく、いやいや私たちはペトロだ、私はキリストだと、互いに自分の正当性、優位性を主張するようになりました。そして、自分の持つ知恵や経験を誇り、他者を見下すようになっていました。「自分こそ、知恵ある者だ」と。パウロは、そうしたこと自体が間違いなのだと、コリントの信徒への手紙で指摘しているわけです。

パウロが批判したのは、知識を得るということそれ自体ではありません。そうではなく、自分たちの知識や考え方、何らかの主義主張を絶対視する、ということです。それは、ひいては、神以外の何かを絶対視してしまうこと、神以外のものを神としてしまうことになりかねません。パウロが問題にしたのは、そういうことでありました。

このことは、キリスト教大学である私たちにとっても、大切な軸となるものを教えてくれています。すなわち、私たちは、神以外の何かを絶対視することを徹底して避けること、あらゆる定説や常識を相対化してみること、つまり神以外のものを神としないこと。これらが私たちにとって決してぶれてはいけない軸であると思うのです。

神以外のものを神としないのですから、それは一方で、この世界のあらゆる価値観、規範、常識、トレンド、ニーズなどから、私たちは自由になることができます。むしろ、私たちはそれらから自由になって真理を求め続けることが求められているわけです。

学校教育においては、どうしても、現在の経済社会が求める人材像に合うように、学生のスペックをカスタマイズしなければならない、という考えに押されてしまいがちなところがあります。しかし、学校はロボット工場ではないわけですから、そうした要請はいったんカッコに入れる必要があると思います。

私たちが目指している人材ということであれば、それは、真理を求め続け、愛をもって互いに仕える人、ということになります。愛をもって仕えること、それは必ずしもこの世の価値観と噛み合うとはかぎりません。イエスは、その過激なまでの深い愛のわざゆえに、当時の社会によって十字架で抹殺されてしまいました。そのように、真理を求め、愛をもって仕えようとすることによって、社会から愚か者という烙印を押されてしまうかもしれません。しかし、それでもなお、真理を探求すること、そして互いに愛することをあきらめないこと、それこそが私たちに求められていることでありましょう。

パウロは言いいます。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

私たちは愚か者と言われることを恐れずに、真理を探求するものでありたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


6号館の花壇

【創世記2:4b-7】
2:4b主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

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聖書の創世記の冒頭には、神が人間を創造したことについて、2つの異なるストーリーが連続して掲載されています。一つは、創世記の第1章で展開されているものです。1日目に光を創造し、2日目に大空を作り、そして6日目に、「神は御自分にかたどって人間を創造された。神にかたどって創造された」という物語です。

もう一つの人間の創造物語が創世記の第2章にあります。それが先程お読みした箇所です。その記事によれば、神は、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」というものです。先程の、神にかたどって想像されたという箇所とは趣が異なります。

この創世記は、いくつかの資料を組み合わせて編纂された、と言われています。そして、最初に出てくる人間の創造物語、すなわち6日目に、神にかたどって人を創造された、というストーリーは、紀元前6世紀に語られたものと言われています。その頃、イスラエルの人々は自分の国ではなく、遠くバビロニア帝国の領土に連行されて生活していました。というのも、イスラエル王国は、バビロニアによって滅ぼされてしまったからです。そんな、とても厳しい状況の中で語られたのが、この第1章です。それが、人は本来、神によって創造された素晴らしいものだ、というものです。「神はお造りなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という物語は、絶望的な状況に置かれていた人々に慰めと勇気を与えるメッセージとなりました。

一方、今日お読みしました第二の物語、すなわち、人間は土から作られた、というストーリーが語られたのは、先程の捕虜時代よりも、何百年も前のことだと言われています。その頃、イスラエル王国は、最も繁栄を極めていた時代でした。そうした時代にあって、この物語は、人間が自分たちで何でもできる、という、人間の力への過信を抑制する意味がありました。人間は土の塵から作られたものに過ぎない。神が息を吹きかけられたからこそ、私たちは生かされている。人間が自分の力で何でもできると思うのは間違いだ、というメッセージは、驕り高ぶる人々に反省と抑制を促すものでした。

人間の創造について、タイプの異なる2つの物語が、同じ創世記に記されていることの意味を私たちは大事にしたいと思うのです。すなわち、人間は、本来良いものとして、神に似せて作られたということ、しかしながら、一方でそれは、土のチリで作られた弱いものであり、神の息、神の恵み抜きには存在し得ない、ということです。

現在、新型コロナウィルスが世界を席巻しています。これまで常識が覆されるような大きな不安の中で、また毎日のように起こる新しい事態への対応に追われれる中で、私たちは翻弄されています。そんな中、人間の弱さを思い知らされることも多いかと思います。これまで当たり前に自分の力でやってこれたと思っていたことが、崩れ去る思いをされていることもあるかと思います。

そんな中で、私たちは弱く、はかないものである、ということを、思い知らされます。しかしながらそれは同時に、私たちが、神に息を吹きかけられて日々生かされている、ということを、思い起こす時でもあるように思います。

そもそも、私たちは自分で息をしているように思いがちですが、自分の力で息をし続けている人はいないわけです。私たちは息をさせられるようにして、生かされています。そう考えますと、私たちの一つ一つの息とは、実は、神から与えられたもの、神が吹き入れられた息によるもの、と考えても良いかもしれません。

様々な困難に翻弄されてしまったとき、ちょっと一息ついてみて、その息こそが、神が吹きかけられた息であり、神の創造の痕跡であり、そして、その働きは今も自分の中で続いているのだということに思いを馳せたいと思います。そのようにして、今、自分が生かされているのだということを感じながら、この夏を過ごして参りたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


祈り

【マルコによる福音書 3:31-35】
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

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残念ながら再び対面授業が休止になりました。学生の皆さんは、それぞれの家で学ぶことを余儀なくされています。

知り合いの娘さんが、今年4月に東京の美術系の大学に進学しました。その彼女が、最近、漫画を書いてツイッターに投稿し、ちょっとした話題になっています。内容は、大学生になった彼女の日常の様子を描いたものです。主人公である彼女の言葉などを抜粋して少しお読みします。

「私は大学1年生
春から大学に進学したけれど
同級生の顔も知らない。
ひとり部屋にこもり、画面と向き合い
オンライン授業を受ける毎日。

4月。出会いと新生活の始まりのはずが。何も始まらず。
5月。急に始まるオンライン授業。
6月。オンライン授業。課題。
7月。オンライン授業。課題。 
初めて使うパソコン、ソフトに一日中格闘する日々。
相談できる友達や先輩もいない。

「ただいま~。」夜、父が普通に会社から帰宅。
「GO TO トラベル今月スタート。」ニュースキャスターは言っている。

消えていくのは授業日数と変わらない学費。
大学生は、いつまで我慢すればいいのでしょう。」

柳城生も、状況としては、かなり似ていると思います。家庭によって勉強の環境はそれなりに異なるとは思いますが、いずれにせよ、かなりのストレスを抱えながら、それぞれの家で勉強を続けておられると思います。

先ほどお読みした箇所は、イエスが、しばらく外で活動していた後、自分の家に帰った時の様子が描かれている場面です。すでにイエスは噂の人物となっており、大勢の人たちがイエスの家に集まってきました。しかし身内の人達は、外で活躍するイエスを褒めるどころか、イエスはおかしくなってしまったと、彼の行動をやめさせようとします。さらに、イエスの母と兄弟は、イエスの新しい仲間に挨拶するどころか、家の中に入ろうともせず、人に頼んで、イエスを外へと連れ出そうとします。

頼まれた人は、イエスに「母上と兄弟姉妹が捜しておられます」と言います。ところが、イエスはここで衝撃的な発言をします。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。そしてイエスの周りに座っている人を見て、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と答えます。もちろん、これは、比喩の表現ですが、イエスにとっての家、共同体とはどのようなものを意味しているかが、ここによく現れています。

この時、イエスの周りに座っていた人たちとは、たとえば、貧しい人、孤独のうちにある人、病気の人、差別されていた人たちなどでした。したがって、家族だけだった平穏無事な環境は一挙に緊張状態となります。そして、イエスの家族は、彼ら彼女たちを家に迎え入れることはできず、むしろ、イエスから遠ざけようとしました。

イエスにとっての家族とは、いわゆる血縁関係ではありません。また、具体性を欠いた、人類みな家族、でもありません。イエスにとって家族とは、今、ここで、顔と顔を合わせて座っている貧しい民衆たちでした。彼ら彼女たちこそが、「わたしの母、わたしの兄弟」でありました。家族とは、つまり神と隣人への愛によってつながる人たちを意味したのでした。

柳城は、神と隣人に愛をもって仕えることを学び合う場です。そのような場で学んでいる学生が、今、家に帰っています。そして家族がいる中で、愛をもって仕えること、すなわち家族を超え、場合によっては、その家族の平穏無事な場を揺るがすような、隣人への愛の働きを学んでいるわけです。

このように、今、学生たちが経験している緊張とは、イエスが故郷に戻った時に経験したこととつながっているわけです。教職員の方々も、それぞれの家庭や地域などの人間関係の中で、きっと同じような経験をされていることもあると思います。そうした私たち一人ひとりに向けて、イエスは、今、「あなたこそ、わたしの兄弟だ、あなたこそ、わたしの姉妹なのだ」と呼びかけられています。

遠隔授業となってしまいましたが、柳城に連なる私たちは、新たなつながりの中に生きるものとして、神の御心を行う人、すなわち隣人を愛する者として、共に歩んでまいりたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


クローバー

【コリントの信徒への手紙一 15:41】
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。

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【マルコによる福音書 3:1-6】
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

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今日の聖書の箇所は、イエスが安息日に手の萎えた人を癒やした、という物語です。

安息日というのは、週の最後の日は休まなければいけない、というユダヤ教の律法です。イエスの時代、今日の物語に出てくるように、安息日に病気の人を癒やすことも許されませんでした。

しかし、この安息日の規定は、本来、労働者が確実に休息できるようにするために形成されたものでした。また、それは単なる休息ではなく、日々の営みを一旦中断して日常を振り返り、見直す機会でもありました。ところが、いつしか元の意味が忘れられ、人間をしばる法律、そして社会を支配する道具になってしまいました。

イエスは、そうした状況の中で、人々に問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。」これはつまり、本当に大事なことは、法律を守ること、常識を守ることではなく、命を守ること、人間を大切にすることではないか、ということです。そして、イエスは、安息日に手の萎えた人を癒やされました。当時この出来事は、現在の私たちの社会では考えられませんが、法律破りの危険な振る舞いでした。実際、このことは当時の支配者たちの権威を失墜させるものであり、彼らの逆鱗にふれ、イエスの殺害が計画されることになってしまいます。

しかし、イエスは、安息日だからと、法律の規定だからと、何もかも自粛する、ということはありえませんでした。むしろ、当時の常識に反して、この社会で不要と思われてしまうような人たち、触れてはならないとされた人たちに、積極的に寄り添っていかれました。

柳城の建学の精神とは、このように、たとえ一般の常識、世間の当たり前からかけ離れたとしても、目の前にいる一人ひとりの人間の尊厳を徹底して大事にする、ということです。

イエスは、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。社会の隅に追いやられてしまうような人たちが、社会の真ん中に立つことのできる世界を、私たちも追い求めたいと思います。そしてまた、ここにいるお一人お一人にも、イエスが今、あなたは、真ん中に立ってもいいのだ、と呼びかけられていることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


押し花のストック

【ガラテヤの信徒への手紙第5章13節】
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

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