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カテゴリー:大学礼拝 の記事一覧

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時/保つ時、放つ時
裂く時、縫う時/黙する時、語る時
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。 【コヘレトの言葉3:1-11】

本日は教会暦において「受苦日」に当たります。イエス・キリストが十字架刑に処せられた日を覚えるためのもので、キリスト教の信徒らは、こういった暦をきっかけにして信仰的に強められていくのです。

さて、皆さんにとって、本日は短大2年目がスタートする日です。既に就職に向けて色々と考えていることでしょうが、この1年の勉学が将来の就職につながるわけですので、気持ちを新たにして、地道に努力を重ねて欲しいものです。

とはいえ、なかなか思うように上達しない時期もあるでしょう。そんな時はひたすら我慢して、練習を怠らず、本日の聖書にもあるように、神様の計り知れないご計画を待つことが大切です。あのイチロー選手は繰り返すことが全く苦にならないそうです。好きな映画や音楽は何度も視聴し、ランチでは、奥様の手作りカレーを毎日食べても平気。きっと本業のトレーニングの方も何度も繰り返していることでしょう。

とにかく、諦めないこと。困難は時が解決してくれます。希望に向かっての努力の積み重ねだけが、皆さんを卒業へと導くのです。

昨日、名古屋市南区にある名古屋キリスト教社会館という社会福祉施設を訪問しました。ここでは「命の響き合い」、つまり「人が出会い、ふれ合い、そして育ち合う」ことを大切にしているそうです。このようなすばらしい施設に就職するチャンスが皆さんもありますが、そのためには、それなりの準備が必要になります。この1年、どうか頑張ってください。(チャプレン)

パンジー

 

 

 

 

 

 

 

名古屋柳城短期大学では、大学礼拝の出席率の高い学生さんに、ささやかなプレゼントが渡されています。
(出欠の取り方についてはこちらで)

2015年度はトートバッグでした。クリスチャンの世俗的なシンボルとしての「魚」と、聖書の言葉(イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。(ヨハネ14:6)」がデザインされています。

イクトゥスΙΧΘΥΣは、ギリシャ語で「魚」という意味ですが、同時にΙΗΣΟΥΣ  ΧΡΙΣΤΟΣ  ΘΕΟΥ  ΥΙΟΣ  ΣΩΤΗΡ(ギリシャ語でイエス・キリスト・神の・子・救世主)の頭文字を並べたものと同じであるため、キリスト教が、その初期において迫害にあっていた時代、魚の絵がクリスチャンの隠れシンボルとして使われたといいます。この絵にイクトゥスの文字が重ねられたのがこのトートの図柄です。こんな魚のワッペンを貼った自動車なんかを見かけたことはありませんか?

ちなみに2014年度は「ミニしおり」でした。「主を讃えよ」と刻まれています。(加藤)

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」 【ガラテヤの信徒への手紙3:28】

今年度をもって退任される新海学長に、「女性がいっそう輝いて生きる ―憲法がその原動力―」と題してお話をいただきました。

社会教育学の中でも、戦前から戦後にかけての教育行政にご造詣が深い先生は、法的根拠を明確にしながら、一方で、聖書が語る精神性をも加味して、女性の地位向上への期待を私たちに熱く語られました。

「女性が『人』として認められていなかった」戦前における平塚らいてう市川房枝、そして戦後のGHQ憲法草案作成チームのベアテ・シロタ・ゴードンの功績が最初に讃えられましたが、すぐさま、日本の現状について、鋭い警鐘が鳴らされます。「男女平等の法的整備はできたが、中身はこれから…。」 そして未だに「男は仕事、女は家事」という考え方から脱却できない日本は、2016年3月7日に国連の女性差別撤廃条約委員会からいくつかの勧告を受けるに至るのです。

本学の多くの女子学生さんは卒業後に保育現場へと巣立っていきます。先生のお話は、もちろん、その彼女らへのエールであったはずです。イエス・キリストの前にあっては、人は皆平等。この高い精神性のもと、卒業生の皆さんには、自身のことと共に、弱者である子どもたちや要介護者らの人権を守る側にも立って欲しいと思いました。「愛をもって仕えなさい」という本学の教えに従って。(加藤)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学礼拝での出欠の取り方をご紹介しましょう。

まず、写真のような出席カードを手作りし、ブックポケットを介して聖書に挟み込みます。これにより、「聖書を持って礼拝に臨む」という習慣が身に着くというわけです。ちなみに、聖書(新共同訳)は入学記念品として学生さん全員に配られています。

そして、出席するたびにスタンプが押されます。どこか、教会の日曜学校に似ていますね。スタンプは「信仰」、「希望」、「愛」、「十字架のマーク」の4種類です。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(1コリント13:13)。」

スタンプがたまると、何となく嬉しいものです。(加藤)

【ガラテヤの信徒への手紙5:13-14】 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

33年間、名古屋柳城短期大学にお世話になりました。今ここに立ち、これまでの思いが胸に迫ります。最後までしっかりとお話ができるように、どうかお祈りください。

90歳を超えた私の母が、一昨年の年末に骨折をした後、歩行ができなくなり、それ以来1年余り、私は母の介護に多くの時間を費やすことになりました。皆さんからは「たいへんでしょ?」とよく声を掛けられます。大変と言えば大変ですが、実は、毎日、楽しく母と過ごしているのです。それ以前と言えば、母と私との関係は淡々としたものでしたので、これは大きな変化でした。母と向き合うことで、これまで分からなかった母の一面(明るさやユーモアセンス)や、まだ聞いていなかった体験などを知る喜びがあります。

子育ての経験のない私にとって、今の母はまさに「大きな子ども」です。「ありがとう」とか「よく出来たね」、「気持ちがいい」といった素直な言葉が頻繁に交わされます。「あなたは賢いわね」…。今まで一度も言われたこともない言葉を母からもらいました。私の方が母に支えられているようです。

母は働く女性でした。20代で戦時を体験し、戦後すぐに結婚して私を含めた3人の子どもをもうけましたが、私が10歳の時に父が亡くなり、弟は5歳でしたので、相当に苦労して私たちを育ててくれたのだと思います。でも、そんな素振りは見せなかったように思います。今は母への恩返しの時期だと思っています。

17年前に出版された、レオ・バスカーリア作の『葉っぱのフレディー』を皆さんもよくご存じかと思います。死ぬのを怖がっていたフレディーが、親友のダニエルに教えらながら、「死とは変化の一つに過ぎない」ことや「いのちは永遠である」ことを理解していく物語でしたね。私は母の介護を通して、「いのちは確かに続くもの、神の御手の中にあるものである」ことを実感しています。母には人生の最終章を満ち足りたものにして欲しいと思っています。

最後に、絵本作家のレギーネ・シントラーの言葉をもって、お話を終わりたいと思います。

「人生は死によって限界づけられているにもかかわらず、それ故に楽しいものであり、充実して価値があり、最後まで生きるに値するのです。死は、生の暗い部分を強調することによって軽くなるのではありません。死を軽くするのは、十分に生きたという感情であり、この世のあらゆる美しさを知り尽くしたという感情なのです。」

長い間、ありがとうございました。(尾上)

(尾上明子特任教授が今年度もって本学を退職されます。本日の礼拝では、先生に教話をお願いしましたので、ここに、その概要をお知らせしました。)

【ヨハネによる福音書14:27】
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

明けましておめでとうございます。

大晦日から除夜の鐘を聞き、年明けには初詣に行く多くの日本人は、おもしろいことに、この時期、仏教と神道の風習を分け隔てなく守っていることになります。教会では1月1日を「主イエス命名の日」と定めて、イエスが生まれてから8日目に名前が与えられたことを記念します。一方、本日1月6日は「顕現日(けんげんび)」と呼ばれていて、キリストの降誕劇に登場した、あの東方の三博士がイエスを拝みに来たできごとを記念します。この三博士、一説ではアジア人、アフリカ人、ヨーロッパ人の三人を表すそうで、これによって、ユダヤ人以外の人々にもキリストとしてのイエスが現れた、つまり、すべての人々に救いがもたらされたことを象徴しようというわけです。

さて、イエスは、その教えの中で、世界が平和であるよう、隣人と共に生きることを私たちに強く求めました。

今の世の中を見渡すと、平和とは程多い現実が広がっています。それから逃れようとする大勢の避難民がヨーロッパに救いを求めているニュースが昨年から報じられていますが、もともとヨーロッパの国々では外国人が人口比で5から6パーセントを占めているそうです。日本はどうかというと、現在200万人程度だそうで、人口比でいうと2パーセントくらいです。数字の大きさに関わらず、外国人を受け入れている地域では、どのようにしたら互いに隣人として共に暮らせられるかという課題が生じます。その成功事例が、あるテレビで報道されていましたが、ゴミの分別とかの生活習慣を外国人へいかに伝えるか、色々と工夫しているようです。

私も以前、幼稚園に勤務していた時に、外国人の子どもを受け入れたことがあります。日本語を話せない子どもだったのですが、幼稚園では体を動かしながら学ぶことが多いので、教えるのに困るようなことは少なかったです。これが、小学校になると、座学が増える関係で、日本語の話せない子どもには色々と困難が伴うようです。柳城短大の皆さんも、将来、保育現場で外国人の子どもに接することがあるかもしれません。

これらの話から、隣人と共に平和に暮らす意味を心に留めていただきたいと思っています。

シュロチク

 

今年も子どもたちの歌声が学内に響きました。附属柳城幼稚園による恒例のキャロリングとトーンチャイムの演奏です。

今回の舞台は本学の体育館です。大学礼拝の直後に、保護者の皆さんも見守る中、園児さんらに入場してもらいました。30名の年長組の皆さんたちです。体育館が広過ぎたせいか、リハーサルの時から顔がやや引きつった感じの子もいましたが、本番では、元気な歌声と、トーンチャイムの一生懸命な響きが私たちの気持ちを潤してくれました。胸に十字架のついた衣装をまとった子どもたちは、ホント、「かわいい」の一言につきます。練習も大変だったろうなと思うと、引率の先生方にも感謝しなければなりません。毎年、名古屋柳城短期大学のためにありがとうございます。

ちなみに、今年の曲目は、「かみさまのおやくそく」、「かいばおけにねむる」(以上、キャロル)と、「もろびととこぞりて」(トーンチャイム)でした。子ども用の讃美歌は、そのシンプルな歌詞とメロディーゆえの価値が光ります。

むかしユダヤのひとびとは
かみさまからのおやくそく
とおといかたのおうまれを
うれしくまっておりました
(「かみさまのおやくそく」1番)

年を重ねても、子どもの歌に親しみたいですね。ここに載せる聖書の言葉は次のものしか思い浮かびません。(加藤)

イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 (マタイ19:14)

【マタイによる福音書 1:20-23】
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

今の時期、キリスト教の暦ではアドベント(降臨節)を迎えています。これは、12月25日のクリスマスまでに心の準備をするという期間で、古くは、洗礼の準備に当てていたといいます。どちらにしても、自分を振り返って神の事を考える期間です。

クリスマスといえばプレゼントを連想しますが、信仰的にいうと、プレゼントは「幸福を互いに分かち合う」手段です。

フィリピンは長い間スペインの植民地であったこともあり、キリスト教の精神が日常に浸透していますが、クリスマスシーズンになると、たとえば、信号待ちの車に群がる貧しい人々に、運転手がお金を与えるシーンをよく見かけるようになります。ある時など、信号で止まっている最中のジープニー(乗合バス)に、目の見えない子どもが突然乗せられ、お金を集めた後、その親と共に去っていく場面に出くわしたこともありました。

「分かち合い」は「互いに愛し合う」行為ともいえます。この言葉が聖書には何度も登場します。私たちも分かち合いに心がけ、特にこの時期は近くの人だけではなく、会ったことも見たこともない人に対しても「クリスマス献金」という形で助け合いの気持ちを表したいものです。

人を愛し、互いに分かち合うクリスマスを! (チャプレン)

ガーデンシクラメン

 

 

 

本日の大学礼拝の奨励(礼拝中のお話の時間)は、日本国際ギデオン協会の近藤さんにお願いをしました。

国際ギデオン協会は、全世界で聖書を無料配布することを主な働きとする団体です。ホテルなどで机の引出に「ギデオン協会」と記されたエンジ色の聖書を見かけた方や、学校の正門などで文庫サイズの聖書をもらったという方も多いのではないでしょうか。(ホームページはこちらで)

今日のお話では、聖書の素晴らしさが熱く語られました。二つほどご紹介しましょう。

その1:コンゴで出会ったタクシーの運転手さんが、バックミラーに聖書をぶら下げていたので「お守り代わりかな」と思ってたずねたところ、「お客さんに怒鳴られたりバカにされることもあるが、そんな時、この聖書を読むと心が落ち着くんだ」という答えが返ってきた。

その2:マーク・トウェインは「人生には大切な日が二つある、一つは誕生日、もう一つは生きる意味を知った日だ」と語ったが、聖書は、その生きる意味を知る上での最適の書物である。

近藤さんはご自身の幼稚園時代を振り返り、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。(コヘレトの言葉12:1)」という聖書の言葉を導かれました。人生を豊かにしてくれる聖書。世界でダントツ一位のこのベストセラーを、一生に一度くらいは通読するのも決して時間の無駄にはならないでしょう。

名古屋柳城短期大学に集う学生さんや私たち教職員全員が、聖書が記すイエス・キリストのお心に触れて大きく成長できるようにと祈りたい、そんな気持ちにさせてくれた今回のすばらしい奨励でした。主に感謝です。(加藤)

 

 

 

 

大学礼拝の特別企画として、現在AHI(アジア保健研修所)に留学中のズバイダ・シャミム・デワンさんのお話を聞く機会に恵まれました。
(AHIについてはこちら

デワンさんは、パキスタン出身の女性で、現在、NGO「世界的健康への取り組み(global healing initiative)」の代表も務めています。その活動を中心に、スライドを使いながら、通訳の方のわかりやすい日本語を通して、そのメッセージは私たちに伝えられました。

パキスタンは自然豊かな国ですが、地震や洪水などの天災もあります。また、複数の民族から成り立っていて、貧しい人びとも多く、さまざまな政治、経済、社会問題を抱えています。人口のわずか2%にすぎないクリスチャンは、ほとんどがイスラム教徒の社会の中では、冷遇されることも少なくありません。保健をめぐる問題、女性に対する暴力の問題などが重なりあう中で、「パキスタンでクリスチャンとして生きる」という講演のタイトルは、一人のパキスタンのクリスチャン女性の話という意味合いをはるかに超えて、とても重い課題を私たちに投げかけてきます。

そのような中にあって、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書5:9)という聖書の言葉に動かされながら、いろいろな次元での「平和の実現」のために生き続けるデワンさんの生き方には、大いに心を動かされるとともに、実にたくさんのことを教えられました。

今回の講演を受けて、学生たちは授業で振り返る機会を持つことになっていますが、多くのメッセージが込められた話の中から、少しでも大切なことを吸収するとともに、これまでの自分の生き方を省みながら、明日からの生き方につなげてほしいと切に願っております。(菊地)

 

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