*
ブログページ

1862年に『レ・ミゼラブル』を出版した直後のヴィクトル・ユーゴーは、旅行先の海外から出版社に宛てて手紙を送りました。それは便箋の真ん中に「?」とだけ書かれていたそうです。その返事は、というと、同じく便箋の真ん中に「!」とだけ書かれていました。もちろん、「本の売れ行きはどうですか?」「順調です!」という会話が成立したのです。

さて、多くの人にとって、日常欠かせないツールであるSNS(Social Networking Service)。

確かに、気心の知れた間柄なら、数文字打つだけで、場合によっては絵だけで気持ちまで伝わってしまうから大したものです。大切な情報を遠隔地までリアルタイムで届けられるのも嬉しいですね。何かとせわしい現代人にはピッタリなコミュニケーションツールには違いありません。

でも、しかし・・・。

大学礼拝にご参加ください。お待ちしています。

●説教のテーマ:「SNS(ラインやツイッターなど)では伝えられないもの」
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書 5:27-32
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

●日時:5月16日(水)
14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:通常礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・5/23(水)通常礼拝(チャペル)14:50~(前半のみ実施) 説教:大西チャプレン
・5/30(水)通常礼拝(チャペル)14:50~(前半のみ実施) 説教:大西チャプレン

 

年に一度のカレーサービスの日(笑)

キリスト教センターのスタッフと学生さんが一生懸命作ってくれましたよ(^o^)/ 感謝

お味のほうは、お子様大好きカレーって感じで、ドンドン食べれちゃう。サラダもしっかり付いていて嬉しかったなあ~(^^♪

もちろん、やることはキチンとやりました。学生宗教委員としての心構えなどを皆でチェック! 学生の皆さん、今年もよろしくお願いします。

食事会が大好きだったイエス・キリストの席も設けておくべきでしたか。(加藤)

人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタイによる福音書11:19)

 

今日はマルコ通読十三回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。(マルコによる福音書8:11~13)

ファリサイ派の人々は、またしてもイエスを試そうと議論をしかけます。そんな姿に深く嘆かれながらもイエスは「はっきり言っておく」(8:12)と宣言され、強く「しるし」について説かれました。

彼らの言う「しるし」とは、人を畏れさせるほどの迫力を持った、目に見える奇跡のことでしょうが、イエスが語ろうとされた「しるし」は、信仰によってしか捉えることができない恵み、すなわち喜びではないでしょうか。

たとえば、場合によっては美しい花一輪にだけでも、人は神の臨在を感じることができます。信仰の曇ったファリサイ派の人々には、理解し難い世界でしょうが…。

安易にしるしを求めるファリサイ派の人々に対するイエスの姿は冷静で鋭く、まさしく人間・イエスの崇高な姿であると思うのです。

一方、その光に反し、彼らは益々イエスの存在に脅威を持つようになっていきます。

次回も現代の私たちに、お与えになられるイエスのお姿や御言葉から、様々な「しるし」を「喜び」としていきます。

【マタイによる福音書 25:14-30】
「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」


「自分の賜物を用いて生きる」 <タラントンのたとえから>

タラントンはそもそも重さの単位から次第に貨幣の単位に代わっていきました。

そして今日ではTVタレントとかいうタレントの語源でもあり、才能や能力または才能豊かな人を表してもいます。

ある主人が三人の下僕達にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預け、それを元手に商売をするように命じて旅に出掛けます。そして主人が帰宅しそれぞれに下僕たちを呼んで精算をしながら、儲けた下僕を褒めますが、1タラントン預けられた者は失敗を恐れて土の中に埋めておき、また掘り出して主人に報告しますが、主人にきつく叱られてしまいます。何故叱られたのでしょう・・・。

皆さんは疑問に思ったことはありませんか?

どうして世の中に美人と不美人がいるのか、みんな美人ならいいのに!

この問いには色々なことが含まれているように思います。全部の人が美人であれば、この世に美人という言葉すら無いでしょうし、美人とはどういう人のことなのか、幸福とは一体何かという問題につながるテーマでありましょう。この素朴な疑問は、なぜこの世の中に不公平や不平等が存在するのかということですが、しかしこれは、長い人間の歴史の中で常に問われ続けている大きな疑問でもあり、課題でもあります。人種や国籍の違い、性別の違い、生まれながら病弱な人もいれば頑健な人もいます。その他多くの違いの中で私たちは生きています。その違いが社会の中で力関係として働く時、そこに「差別」が生まれます。本人の責任以外のことで全てが規定されてしまいます。なぜ人生の出発点で、本人の意思とは関係なく、生存の諸条件が異なるのかという根源的な問いなのです。

私たちはついつい自分にもっと才能や能力があればもっと上手く出来るのにと愚痴を言ってしまいます。他人と比較し、足りない少ないと不平を言うだけで、何もしない口実にしてしまっていませんか? もしこの1タラントン預けられた者が商売に失敗していたら主人はどうしたでしょうか? はやりこの下僕を今度は打ち叩いたりしたでしょうか? この主人は彼に預けた物を使わなかった、埋もれされてしまうだけで用いなかったことを叱責したのではないでしょうか?

では皆さんは自分には何が預けられているのか、どんな能力や才能が預けられているのか、と思いますよね。考えても分からないかも知れませんね。かく言う私もまだ十分自覚しているとは言い切れませんから・・・。

ここでひとつの詩を紹介したいと思います。
事故で麻痺が生じたある青年医師の詩です。

「あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜよろこばないのでしょう
あたりまえであることを
お父さんがいる お母さんがいる
手が二本あって、足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いてゆける
手をのばせばなんでもとれる 音がきこえて声がでる
こんなしあわせはあるでしょうか
しかし、だれもそれをよろこばない あたりまえだ、と笑ってすます
食事がたべられる 夜になるとちゃんと眠れ、そして又朝が来る
空気を旨いっぱいにすえる 笑える、泣ける 叫ぶことができる
走りまわれる みんなあたりまえのこと
こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ」

皆さんが幼児教育にたずさわろうとされたその志をどうぞ全うされますよう心から願い、お祈りしています。

皆さんがその志を胸に、子どもたちをいっぱい好きになって、そして、子どもたちからいっぱい好かれる先生になってくださいますように。(一宮聖光教会司祭 中尾志朗)

礼拝後に、ゴスペルシンガーの江崎理子さんをお招きしてゴスペルを満喫しました!(^^♪
(前回の様子はこちらで)

シッカリと発声練習から始まったところが「さすが!プロ」という感じ。この時点から理子ワールド炸裂です。ぶれない発声と自由自在なピアノさばき・・・。素人の私にはその凄さは計り知れませんが、とにかく彼女は自然体。魂の開放であるゴスペルを体に染み込ませている雰囲気でした。

今回取り上げられた曲は、
This little light of mine(私の中の小さな光)
Down by the riverside(川岸に重荷を下ろして)
Make us one(私たちを1つにしてください)
We shall overcome(我ら打ち勝たん)

どれもがシンプルで歌いやすく、ゴスペルに親しむにはピッタリな曲でした。

演奏の合間に披露されるウンチクがまたすばらしくて、たとえば・・・

「読み書きができなかった黒人らは、実は頭がたいへん良くて、教会で聞いたシンプルなメッセージをキッチリ覚え、それに節をつけて、仲間が覚えやすいよう工夫して伝えた。」

ゴスペルの原風景が見えるようですね。

学生さんも随分リラックスしてノリノリだったみたいです。喜びの宗教であるキリスト教の一面を肌で感じたんじゃないかな?(^J^)

それを楽しく伝えてくださった理子さんに、心から拍手です。そして、この企画をプレゼントしてくださった同窓会(のぞみの会)にも、心から感謝です。(加藤)

新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩篇33:3)

次回の聖書箇所に出てくるタラントンという貨幣単位は6,000日分の賃金に相当する額と言われています(マタイ20:2からの推測)。日本の今に置き換えると、ざっと6,000万円! すると5タラントンは3億円!!! これを使ってすぐに商売をしたというのですから、たぶん、金貸し業で儲けたのでしょうね。一方、1タラントンを預けられた僕は、その額の大きさにビビッてか、土の中に隠しました。当時、それが一番安心安全な保管方法だったからです。でも、イエス・キリストは彼を「怠け者の悪い僕だ」と言うのです。

悩ましい聖書箇所ですが、イエス・キリストの真意はいかに。
お待ちしています。

●説教のテーマ:「自分の賜物を用いて生きる」
●説教者:中尾志朗司祭(一宮聖光教会
●聖書箇所:マタイによる福音書 25:14-30
「タラントン」のたとえ
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
25:15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。
25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
25:19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、
25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
25:28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
25:29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
25:30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

●日時:5月9日(水)
14:50~ 保育科1年生・専攻科生・教職員
15:40~ 保育科2年生・教職員
●礼拝形態:通常礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・5/16(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・5/23(水)通常礼拝(チャペル)14:50~(前半のみ実施) 説教:大西チャプレン

【ヘブライ人への手紙6:10-12】
6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。
6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。
6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。

皆さんは、子どもたちの命と成長に携わるという大切で尊い夢と希望を抱いて、この名古屋柳城短期大学に入学し、今この時を過ごしています。その夢と希望の中で学びに取り組む皆さんの姿を傍らで見つめていると、皆さんひとり一人の為人(ひととなり)を感じることができるような気がし、皆さんの存在を身近に感じることができます。私個人はそのように(勝手に)皆さんを身近に感じていますが、皆さんにとって私は“最近、大学構内でよく見かけるけど、何者?!”的な存在だと思います。ですから、今日は、なぜ、私が司祭になったのかを自己紹介も兼ねて、お話ししたいと思います。私が幼児教育者を目指す皆さんの夢と希望を見つめて、皆さんのことを身近に感じるように、皆さんも、かつて皆さんと同年代であった頃の私の夢と希望を知り、私のことを少しでも身近に感じてくだされば幸いです。

私は代々からのクリスチャンの家に生まれました。高祖父は伝道師、曾祖父は司祭、大叔父も司祭という家で、両親も信仰厚く、私も“神様”という存在に対する祈りの中で成長しました。しかし、私自身が信仰厚く、その信仰から司祭になったという訳ではありません。

そこには、父に対するある思いがありました。父は私が小学生の頃から長年、病を患い、寝たきりの生活を20年以上送りました。私が幼少の頃の父は体格も大きく逞しく、片腕でいとも軽々、私を抱き上げてくれました。父の逞しい腕に抱えられ、父にしがみ付き、父の胸元で嗅いたタバコの微かな香りが、父が私にとって“全てのものから何があっても守ってくれる存在”の象徴でした。しかし、その数年後、父は病に臥し、長年の闘病生活で腕は骨と皮だけになり、父の胸元から香るのはタバコの香りではなく、消毒液にも似た薬品の匂いに変わりました。

それから十数年後、大学卒業を控え、夢も希望もなく、将来の展望もないまま学生生活をしていた私に、母はこう告げました。「あなた、司祭にならない?お父さん、あなたに司祭になってもらって、あなたに自分のお葬式をしてもらいたいみないなの」と。

“人生で最初の、そして最後の父親孝行”、“全てのものから何があっても守ってくれていた父への恩返し”…。いろいろな想い、複雑な想いの中で、純粋に“父のために自分が今、できること”を選び、大学卒業後、司祭になるために神学校へ進学しました。その間、必死に学び、懸命に祈り、焦りの中で父の寿命と競争し、6年かけて司祭になることができました。その時、父は…。

その時、父はまだ頑張って生きていてくれました。そして、私が司祭になって2か月後、亡くなりました。父の葬儀を司祭として執り行いながら、私は、父の寿命と私が司祭になる時間を合わせて下さった神の摂理に感謝し、神の存在を心の底から実感することができました。厚い信仰もなく、ただ父の葬儀を挙げるためだけに司祭になった私は、司祭となり、父の葬儀を挙げている最中(さなか)、初めて神を感じ、初めて真の祈りを捧げたのだと思います。そして、その瞬間、本当の司祭になったのだと。

今、私は神への恩返し、そして、私が司祭になることを後押ししてくださった教会・教区の全ての方々への恩返しをするために、そして、神が愛する人類全てのために、司祭として生きています。その恩返しをする方々の中に、もちろん柳城に通う皆さん全ても含まれています。

私は今、皆さんの夢と希望を支えるため、皆さんのために、ここにいます。これから、いつも、傍らで皆さんを支え、応援しています。(名古屋聖マタイ教会 司祭 下原太介)

今日はマルコ通読十二回目が行われました。

今回心に響いた御言葉は・・・

そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。「(マルコによる福音書 7:29~30)

イエスは静かに祈るため、また体を休めるためにユダヤの地を離れたのでしょう。

ところが、汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つギリシア人の女が、娘から悪霊を追い出して欲しいと言いながらイエスの足もとにひれ伏し願います。

イエスは異邦人である彼女たちを「小犬」にたとえられました。たぶん、その幼い娘は家に飼われている子犬をいじめていて、その話を彼女はイエスにしたのでしょう。私はそこに人間イエスのユーモアを感じます。

その女も、そんなイエスに親しみを覚え、そして「イエスは慈しみをお与えくださる方なのだ」と直感したのではないでしょうか。

異邦人である自身の立場を理解しながらも謙虚に、彼女はイエスに願い続けます。
イエスは、そのようにすがる思いに、そして弱い立場の人間に、どのような時にも手をさしのべてくださるのでした。

私はイエスの慈しみを感じるたびに、その存在の大きさに包まれ、瞳から安心します。異邦人の女と同じように…。

これからもバイブルタイムをとおし、そのイエスの御跡を学んでいきます。
ただひたすら目の前のイエスの御心を信じて。(Y)

心地よい音楽は私たちの感情を素直にしてくれます。「魂の開放」と言ったら大げさですが、でも、心に響く賛美歌をうたうとき、信仰心が高ぶるのは確かなことです。

「よく歌う人は、倍祈る」と言われています。

今回、礼拝後に江崎理子さんをお迎えして、ノリノリのゴスペルを体験する恵みに預かります。

ゴスペルに込められた「祈り」を、体と魂で感じてみましょう。
お待ちしています!

ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。(詩篇149:1)
・「歌うのは愛している証拠」(聖アウグスティヌス)

✝✝✝

●説教のテーマ:「ゴスペルって何?」
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:マルコによる福音書 16:14-15
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

●日時:5月2日(水) 14:50~
●礼拝形態:合同礼拝
★礼拝後にゴスペルワークショップ(講師:江崎理子さん)を開催します。
●場所:体育館

○次回以降の予定
・5/9(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:中尾志朗司祭(一宮聖光教会
・5/16(水)通常礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

2018年度のメンバーは以下の通りです。よろしくお願いします。

●チャプレン:
大西 修
●教員スタッフ:
村田 康常(センター長)
菊地 伸二
髙瀨 慎二
山脇 眞弓
柴田 智世
扶瀬 絵梨奈
菊池 理恵
●職員スタッフ:
神戸 厚
加藤 実治
●オブザーバー:
長縄 年延(学長)

このページの先頭へ