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今日はマルコ通読十八回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコによる福音書9:36~37)

「誰が一番えらいのか。」 そう論じあっていた弟子たちに、イエスは厳しい言葉で戒めをお与えになられました。

今回の御言葉でイエスは人に仕えるということはどういうことなのか、つづけて弟子たちにお伝えになられています。イエスは小さな子どもを抱き上げ、彼らの真ん中、彼らの目の前で直に導かれました。その姿は神々しく一方では、とても人間的な御姿であられたと思います。

今回の通読では「子ども」とは価値のない者の意と教えていただきました。もちろん、2000年前のユダヤではそのように思われていたということです。イエスは、そのように価値のない者を受け入れることを弟子たちに求められました。また、そうすることで、不完全な私たち人間は神に受け入れられるのだと話されました。

さらにイエスは「わたしの名のために受け入れよ」と語ります。

イエスのお名前から、彼のご生涯すべてが思い起こされますから、そのお名前を辱しめないよう、私はイエスに向かって歩みたいと思いました。

イエスのご命令は現代において見事に実現し、私たちは子どもを価値ある者として尊ぶ時代に生きています。

今回の記事を通し、小さき者に仕える保育者として、日々どうあるべきか…私は主に頼り、問い続けていきたいと思います。


収穫したミニトマトとゴーヤ

福音書にはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4種類がありますが、今回取り上げられる放蕩息子のたとえ話を紹介する「ルカによる福音書」が一番好きだという方も多いと思います。

話の内容はシンプルで理解しやすいのですが、後半部分で登場する兄の不平不満に共感した途端に、「ちょっと待てよ。不公平じゃないか。」という感じに陥るのです。それは、「ぶどう園の労働者のたとえ(マタイ20:1-16)」で抱く感覚に良く似ています。

読者がこのように感じるということは、福音書の記者らも分かっていたとは思いますが、イエス・キリストの言葉や信仰を保存することを最優先にした彼らは、ためらうことなく、たとえ話をありのままに記述しました。

「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。(ルカ8:9)」
弟子ですらイエスのたとえ話を理解することは難しかったようです。
礼拝に出て、たとえ話の解き明かしに触れてみませんか?
お待ちしています。

✝ ✝ ✝

●テーマ:「放蕩息子のたとえ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書15:11-32
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

●日時:7月11日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★8月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・7/18(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科1年生)
・7/25(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科2年生)【前期最終礼拝、保育科1年生は補講期間中のため礼拝なし】

【イザヤ書55:8-11】
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

ギデオンの唯一の目的
「人々を主イエス・キリストの救いに導くこと」

今、拝読していただきましたイザヤ書55章8-11節のなかで特に11節のみ言葉である「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」を信じ、わたしたちギデオンはその聖書のみ言葉を贈呈することによって私たちの唯一の目的であり、神様のご命令である「人々を主イエス・キリストの救いに導く」ことに専念しています。

さて、私たちが所属する国際ギデオン協会とはどのような組織でしょうか。現在ギデオンが活躍している国々は世界で200ヵ国です。世界で奉仕しているギデオン会員はギデオン・夫人合わせて271,000人です。世界での1年間の聖書贈呈数は91,000,000冊。ギヂオン協会が創設された1899年より累計でこれまでの聖書贈呈総数は2,103,570,000冊です。ギデオン聖書の言語は100ヵ国語に訳されて、それぞれの国々に読まれています。ちなみに百万冊贈呈に要する日数は3.9日(1分間に178冊)の計算になります。活躍している200ヵ国の国々の中で国際理事国は11ヵ国あり、その中に日本も含まれています。

私たち日本のギデオン協会の働きをご紹介いたしましょう。全国の支部数は170支部で、ギデオン会員数はギデオン1,217名、夫人604名の合計1,821名。1年間の贈呈数は昨年度540,000冊です。日本でギデオン活動が始まった1950年より累計でこれまで40,000,000冊を超える贈呈を行って来ました。聖書の贈呈先は中学校、高校、大学、専門学校、病院、クリニック、薬局、ホテル、刑務所、警察官、自衛隊、個人等。

ギデオン協会の始まりは1899年に3人のクリスチャンによってアメリカで創設されました。“ギデオン”は、旧約聖書の「士師記」の6章に登場する士師の名前からつけられました。この3人によってクリスチャンで旅行をする実業家たちが互いに交わり、証をし、相ともに主イエスのために労しようと決意が表明されたのです。今より119年前の話です。

日本にこの働きがおよんだのは1950年9月1日に東京支部が作られたのが始まりです。戦後の荒れ果てた世相を反映してか、読むべき本もない学生たちを見て憐み、当時のG.H.Qの幹部がアメリカ本土のギデオン本部に打電し、聖書が日本に運ばれてきたのです。そして日本で自立(我が国で聖書を印刷し、その聖書購入資金を我々が賄う)が成った2000年までアメリカの援助で贈呈が続けられたのでした。感謝です。

私たちギデオン協会の活動は
プロテスタントのクリスチャンビジネスマン・専門職業人(医者、学校の先生等)による、この目的のための協力と交わり。
個々のギデオン会員が個人的な証しと、伝道を行うこと.
新約聖書を、ホテル・旅館・病院に無料で備え付けること。
また新約聖書を、中学生・高校生・大学生・警察官・自衛官・看護師/療養所患者・受刑者・個人などに無料で贈呈すること。

これらの活動が皆様がたのお祈りに支えられて行われること、この働きに参加される新しい会員が増し加えられるよう、そして聖書購入資金(教会でギデオン会員が報告と証をしてお捧げいただく献金、海外のための聖書献金、ギデオンカードによる聖書献金、会員による聖書献金、召天記念・遺言などによる記念聖書献金)が与えられるよう、今後ともよろしくお願いいたします。(日本国際ギデオン協会 全国会長 高田 須磨雄)

今回の聖書箇所は、イエス・キリストのお人柄というか、ポリシーを理解するうえで大変参考になる場所かと思います。ただ、それらをできる限り知るには当時のユダヤ社会の情勢を把握する必要があります。特に、29節に隠された律法専門家の心情が読み取れるかどうかがポイントになります。彼らはイエス・キリストの主張したいことが分かっていたので、それを拒もうとして自分たちの律法解釈を正当化しようとしたのです。

イエス・キリストの愛に満ちた、そして「誰をもはばからない(マルコ12:14)」お姿に触れるチャンスです。礼拝、お待ちしています!

●テーマ:「善いサマリア人のたとえ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書10:25-37
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

●日時:7月4日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
★礼拝後に、7月誕生日の祈りを行います。

○次回以降の予定
・7/11(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・7/18(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科1年生)
・7/25(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★8月誕生日の祈り(保育科2年生)【前期最終礼拝、保育科1年生は補講期間中のため礼拝なし】

今回は日本国際ギデオン協会会長の高田さんをお招きします。

当協会ホームページには、1899年(柳城学院が誕生した翌年!)「たった3人の発会式」で始まったギデオン協会が、今や世界200の国々で組織されるまでに発展した様子が記されています。また、その活動によって人生が救われた方々の手記も挙げられていて、たいへん読み応えがあります。

志の高い人々の自主的な活動が、結果を出しながら大きく広がって行くなんて、本当に素晴らしいです。高田さんのお話が楽しみですね。どうか、皆さんご参加ください。

・「わたくしが一番愛する本は聖書です。寂しい時、悲しい時、望みを失った時に、いつも我々を導いて、明るい、希望にみちた世界に連れ出してくれたものは聖書です。」(ヘレン・ケラー)
・「いかなる世界の歴史におけるよりも聖書の中には、よりたしかな真理がある。」(アイザック・ニュートン)
・「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である。」(マハトマ・ガンディー)

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●テーマ:「ギデオン協会の働き」
●奨励:高田 須磨雄さん(日本国際ギデオン協会会長)
●聖書箇所:イザヤ書55:8-11
55:8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。
55:9 天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。
55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。

●日時:6月27日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・7/4(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★7月誕生日の祈り
・7/11(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン

【マタイによる福音書5:9】
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

先日のチャプレンタイムの時、高校の修学旅行で沖縄に行った人がかなりいることを知りました。どうだった?と感想を聞くと、楽しいはずの修学旅行が戦跡巡りをした日の夜は、暗く重い気持ちになり、なかなか眠れなかったという返事が返ってきました。

「百聞は一見に如かず」のことわざ通り、沖縄戦から70年以上経過しているとはいえ、今なお各所に残る戦跡を訪れ、そこで戦争体験者の証言を聞くとき、想像を絶する悲惨な、むごくおぞましい現実を垣間見る思いがし、人を人として見ることすらできなくしてしまう戦争という恐ろしい人間の歴史の一端を知らされます。

「知らないことは罪である」という言葉があります。1+1=2を知らない、漢字を知らない、英語の単語を知らないといった類の知らないではなく、「わたしたちの生きている現実と深く関わっている歴史的な出来事とその出来事が持つ意味」を知らないことを指します。具体的に言えば、沖縄戦のこと、その持つ意味を知らないことは罪であると言えるのです。なぜなら、「本土防衛のため、本土の捨て石」となった沖縄に住む人々の大きな犠牲の上に、本土にいる今のわたしたちは生きているからです。1945年4~8月までの間に沖縄県民約60 万人の4分の1にあたる15万人が犠牲になりました。沖縄が本土に復帰したのが1972年、戦後27年たってからでした。そのころでもガマと呼ばれる自然の洞窟には遺骨がまだまだ残っていました。また、チビチリガマや嘉渡敷島での集団自決の事実を知りました。

語り部でもある石原絹子司祭(現在81 歳)は「沖縄戦を語り継ぐ」~地獄からの魂の叫び~ を書かれました。その中で、父母と3年生の兄、1年生の彼女と 3歳と1歳の妹の6人家族のうち、彼女一人を残して5人が皆次々に死んでいくすさまじい状況を読んだとき、言葉を失いました。しかし、生きていた祖母に迎えられ、悲しみにむせび泣く中で強く抱きしめられ言われた言葉、「戦争さえなければ、皆幸せに暮らせたのに。でも、どんなにつらくても家族のため、生きて平和のためにお手伝いできる人間になるのですよ」が、彼女のその後の生きる道を決めるきっかけになったのです。

平和を実現する人として彼女は、恒久平和を求める沖縄の心「命どぅ宝」(ぬち どぅ たから)~命こそ宝~を叫び続けておられます。「人間の尊厳を何よりも重視し、相手を尊び、お互いに支え合い活かし合い、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求める人間性の発露である沖縄の心」の大切さを訴えておられます。「平和は黙って向こうからやって来るものではない。どんな小さなことでも平和を実現するための努力を惜しまず、また戦争につながるようなことは、どんなに小さくてもその芽を早く摘み取りたいものである。多くの犠牲の上に成り立った平和憲法を守り抜き、二度と戦争をしない、平和を愛する国であることを国の内外に示すことが肝要かと思う」との言葉を心に深く刻みたいと思います。(チャプレン 主教 大西 修)


琉球新報 2018/6/23より

【ペテロの手紙第一 5:7】
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(新改訳)

わたしは20歳のクリスマスに「自分中心ではなく、神さまを中心にする生き方をしていきたい」と願い、洗礼を受けました。今日は洗礼に至る道のりと、その後に「変化した/しなかったこと」に焦点をあてます。その歩みを振り返ると一本の道にみえますが、実際にはたくさんの分岐点で立ち止まり、その都度「どちらの道を行くのか/行かないのか」を選んできました。わたしが道を選ぶときに働いた「不思議な力」は、そっと背中を押してくれるような、迷い悩むわたしを支え、励ます、ささやかで優しい力でした。

キリスト教に興味を持ったのは、クリスチャンであった伯母の葬儀。当時、わたしは10歳でした。快活で朗らかで、みんなに愛された伯母は43歳で亡くなります。この「伯母の死」が、自覚している「神さまとの出会い」です。伯母は美しい讃美歌と真っ白な花に送られて旅立ちました。そのとき、わたしの葬式はキリスト教式で、みんなに讃美歌を歌ってほしいと思いました。さあ、死んだ後のことが決まったので、次は「どうしたらキリスト教の葬式をあげてもらえるか」、つまり「どう生きるのか」が課題です。

洗礼に直接つながる出会いは、大学のときのこと。わたしは国際基督教大学(ICU)で森本あんり先生(宗教学の先生で当時の大学教会・主任牧師)に出会います。洗礼準備会で「まだ聖書を全部読めていないし(読むと眠くなる)、仏教もいいなと思っている」と話し、キリスト教をもっと理解してからでないと洗礼を受けちゃいけないんじゃないかという悩みを伝えました。先生のお答えは、こんな感じだったかと思います。

1)「これまで」どう生きてきたかというより、「これから」どう生きていきたいかが大事
2)「全て理解してから洗礼を」と言っていたら、きっと、生きている間に洗礼は受けられない
3)理解してから信じるのではなく「信じてからわかることもある」
4)「祈り」は、自分の都合の良いお願いではない
5)「祈り」は集中であり、集中して祈ることは難しく、祈りに集中すれば自ずと道が見える
6)「祈ること」は「的を外さずに生きること」であり、「祈りはおこないである」
7)罪の本質は「自己中心」で、それは「自分を神さまのように扱うこと」

そして、先生は「あなたが神さまを選ぶのではない。神さまが既にあなたを選んだから、あなたは今ここにいるのではないか」と仰いました。あぁ、それならば、わたしなどには到底知る由もないご計画を信じ、いっさいを御手にゆだねようと思いました。こうして10歳で「死に方」が、20歳で「生き方」が決まります。

では「洗礼を受ける前と受けた後」で、わたしはどう変わったのでしょう。わたしの場合、受洗後は間違うことなく常に神さまを仰ぎながら生きてきた…はずもなく、相変わらず自分中心に物事を考え、何度も失敗し、何度も悲しみにくれています。鶏が鳴く前に、3回、イエスを知らないと言ったペテロは、まさにわたしでした。自分の無力を思い知ったとき、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)という聖句がうかび、「まことにこの人は神の子であった」(マタイ27:54)という言葉も響きます。

わたし「が」なんとかしよう、という「が」の強い自分を手放すのは難しく、「自分は欠けだらけの土の器だ、本当にそうだ」と今、ここで強く思っているのに、ふと気づくと、自分を中心に考え、例外をつくり、言い訳を繰り返しながら、自分の言動を正当化して振る舞う弱さを抱えています。わたしの弱さは、洗礼によってさっぱり洗い流されてしまうものではありませんが、クリスチャンとして生きることは、自分の力で自分を変えることすらできない自分に絶望することなく、その弱さに注がれる神さまの愛と、弱さも豊かに用いて下さる神さまの働きを喜ぶことなんだろうと思います。

「弱さこそが恵みであり、弱いからこそ、強い」。20歳のクリスマスに、わたしは今日の讃美歌の一節「寒い冬の中 春は目覚める」にあるような「逆転の発想」を会得し、「信じる人」になりました。これまでの悲しいことや辛いこと、これから経験する苦しみや痛みも、わたしは恵みとして両手で丁寧に受け取り、祈りの中で喜びにかえることができます。…一緒に信じる人になりませんか? (勝間田 明子 本学教員)

イエス・キリストの言葉に、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ10:34)」という衝撃的なものがあります。説教ではあまり扱いたくない箇所のようですが(笑)、イエスの心を理解するには避けて通れない言葉です。

人とのいさかいが無い状態だけを「平和」だと思っていると、力の持った者が好き勝手やる傾向になり、世の中は、ゆっくりと、そして確実に衰退していくことでしょう。イエスの時代がまさにそうでした。宗教指導者らの身勝手な信仰が社会を硬直させていたのです。

世の中全体の平和も大切ですが、一人ひとりが属するいくつもの小さな集団の平和についても考えたいものですね。礼拝、お待ちしています。

●説教のテーマ:「沖縄慰霊の日(6.23)を前にして、平和を祈る」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書5:9
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

●日時:6月20日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・6/27(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 奨励:ギデオン協会員による証(あかし)
・7/4(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン ★7月誕生日の祈り

今日はマルコ通読十七回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が、走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

高い山に登られたイエスを待つ群衆には様々な人間がいました。汚れた霊をもつ子どもの父親もイエスを待ち望む人間の一人でした。

山腹に残された弟子たちには、この子どもの悪魔払いができません。それに目をつけた律法学者らは彼らに難癖をつけていたことでしょう。しかしイエスが急にお帰りになられたので、皆は大変驚きます。

弟子たちの不甲斐なさを見たためでしょうか。この父親は「できれば…」という言い回しでイエスに霊を出してくれるよう頼むのでした。ここに人間の不信仰を見ることが出来ます。

イエスは信仰の乏しいその言葉を決して見逃しはしませんでした。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

このイエスの言葉に我にかえった父親は叫びます。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と。この父親の叫びは真の心から湧き出た祈りです。

人は時として不信仰な存在であることをこの父親と同じように、隠しとおすことが出来ない場面に遭遇します。しかし、イエスはそんな人間の浅ましい心を知ったうえで、父親の悔い改めと子どもへの思いに愛をもって応えられ、悪魔をお叱りになられました。

私たちはイエスの限りない愛を、福音書をとおし学ぶことが出来ます。

「信じる者には、何でも出来る。」
このイエスの御言葉を忘れることなく、私は一歩一歩学んでいきたいと思います。


カフェ棟の花壇

【コリントの信徒への手紙一 3:6-7】
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。

6月に入りそろそろ梅雨の時期を迎えようとしています。この時期、園では子どもたちが花壇や植木鉢、プランターなどにひまわりや朝顔の種を蒔いたり、きゅうりやトマトの苗を植えたりします。毎日お当番が喜び勇んで水をあげたり、時には肥料を施したりしながら、それらが花を咲かせ、実を結ばせる日を楽しみに待っている姿を見ていると、とても嬉しくなってきます。

けれども、連休明けに登園して来た子どもたちは、心配そうな顔をして草花や野菜の様子を見に行き、元気に成長しているのを見届けてひと安心します。そしておもむろに尋ねます。「先生、お休みの間、お水あげなかったのにどうして枯れなかったの?」と。

使徒言行録9章を読みますと、紀元30年代の中頃、熱心なユダヤ教徒であったサウロはキリストを信じる者を捕縛するためダマスコへ向かう途中、復活された主イエスに出会い、劇的な回心をし、熱心なキリストを信じる者となります。その後、パウロと呼ばれ、1世紀中頃、ギリシャ・ローマ世界へ伝道活動をして歩き、ギリシャのアテネ、コリントという当時の商業文化の盛んな都市に教会の基礎を築きました。コリントの教会ではパウロが去った後、信徒の中に妬みや争いが起こり、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」などと言って、何人かの指導者の名を掲げた分派が生まれました。これに対してパウロはこの手紙を書きました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と。

パウロもアパロもコリントの教会の指導者として大切な役割を担ってきました。けれども、彼らはどこまでも神のために力を合わせた働く同労者であり、自分が最も優れているなどとは全く考えていませんでした。なぜなら、彼らにとって主イエスをこの世に遣わしてくださった神こそすべてであり、その神によって自分たちが生かされていると信じて疑わなかったからです。パウロはわたしやアポロを見てそこに留まるのではなく、わたしたちが示す神を、主イエスを見て歩むことが最も大切なことであると訴えました。

コリントの教会の出来事を通して教えられることは、わたしたちはいつも自分を中心に、自分を基準にして物事を考え、行動していないだろうかということです。少しでも学力や知能が他者より優れていると、皆から注目され、敬われていると思い込み、いつの間にか舞い上がって、自らを誇る言動に出てしまいがちです。わたしたちは自分の言動が高く評価されることを期待します。「わたしが植えたから成長したのよ」「うそ~、わたしが水をあげたからこそ成長したのよ」と、各々自分のしたことをPRします。自己PRは時として自己主張となり、さらには自己正当化へ、そして他者を否定する危険にもつながる要素を持っています。このことは保育の現場、学内においても言えることではないでしょうか。

「父母(保護者)が植え、保育者(教師)が水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。大切なのは父母(保護者)でも保育者(教師)でもなく、成長させてくださる神です。」と、言葉を置き換えてみてはどうでしょうか。わたしたちは目に見えない神さまの大きな力に見守られ、保育者(の卵)として現在生かされていることを自覚しつつ、常に謙遜さを身にまとうことを忘れないようにしたいものです。

「先生、お休みの間、お水あげなかったのに、どうして枯れなかったの?」と質問してきた子どもに、あなただったらどのように答えますか。(チャプレン大西 修)

ビオラとツマグロヒョウモン

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