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11月2・3日の2日間にわたって、本学の大学祭が行われました。体育館でのステージ企画で聖歌隊が参加し、10月27日の昭和区民祭と同様の6曲を歌いました。今年の聖歌隊6名は全員2年生です。メンバーは聖歌隊の他にも、大学祭の実行委員や模擬店の準備もあるため、それらの役割との調整を行いつつ、限られた練習時間をやりくりしながら、柳城祭本番のために聖歌隊の練習にも取り組んできました。

当日は、体育館に多くの観客が集って下さり、私たちの演奏に耳を傾けて下さいました。「海と空つくられた主は」の手話付きソングでは、お客様ののりがよく、皆さんの温かい雰囲気に助けられて、歌っている私たちも練習の時以上の力を発揮することができました。

また、演奏後に卒業生さん(現在も保育士として活躍中の大ベテランさんです)が体育館外の通路にお越しくださって、労いの言葉をかけてくれました。思いがけないサプライズに感謝です。

ご観覧下さった皆様、演奏を聴いて下さり、どうもありがとうございました。(柴田)

天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:10~12)

クリスマス降誕劇で良く知られたイエス・キリスト誕生の物語。今回は「マタイによる福音書」と対比させながら学んでいきました。

福音記者ルカは、イエスがベツレヘムで生まれて飼い葉桶に寝かされると、そこへ羊飼いたちが見にやって来るという物語を綴りますが、マタイの方は、イエスの生まれたベツレヘムの、その「家」に東方から学者らがやって来て高価な贈り物を捧げたと記します。

降誕劇の台本はこの二つの事実をミックスして作られています。だから、これでは、ルカとマタイがそれぞれ別の視点でイエスの誕生を捉えている点が曖昧になってしまうことに、今回はじめて気づかされました。

マタイの視点とは…。それは「学者」という権威ある者がイエスを拝んだことで、イエスの尊厳さを際立たせようとしたことです。それは権威を重んじるユダヤ人指導者の発想に近いものでした。でも、その学者らは異国人でした。だから、マタイは「ユダヤ人のために生まれたはずのイエスをユダヤ人が拝みに来ない」と風刺するとともに、イエスがユダヤだけではなくて全世界の救世主である点を強調することも忘れてはいません。

一方のルカは、当時、地位が低く軽蔑されていた職業である羊飼いを登場させます。弱者の側にいつも立つイエスを「飼い葉桶」によって象徴的に描こうとするルカの姿勢がここにも表れています。ちなみに、マタイが「赤ちゃんイエスが家に住んでいた」ことを示唆する、その違いを見逃してはなりません。

そして、羊飼いらに天使は次のように語ったとルカは続けます。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。(2:10)」  
「民全体」とは全世界を意味しますので、ルカもマタイ同様、イエスがユダヤだけの救世主ではないことを伝えます。なお、この「告げる」とは「福音を告げる」ことを意味する言葉だそうです。

さて、彼らは一連の不思議な体験を人々に告げ知らせますが、信じてはもらえなかったようです。でもイエスの母マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた(ルカ2:19)」のです。

マリアは羊飼いらの姿を見て感じながら確信を持ったのでしょう。「心に納める」とは、内緒にすることではなくて、しっかりと記憶するという意味です。

このマリアの姿勢は保育者となる私たちに常に必要な冷静さを教えてくれています。自分なり、独りで感じること…そう。大きな確信を得て、これからの道を冷静に歩いていく術をマリアから学べるのではないでしょうか。

飼い葉桶に寝かされたイエス。
「だが人の子は枕する所もない(ルカ9:58)」 
この御言葉どおりのご生涯が、今、始まったのでした。

次回もイエスの道をたどり、学んでいきます。イエスを大好きになる、そんな子どもたちが一人でも増えることを信じて。(Y)


押し花の準備

鶴舞公園で行われた昭和区民祭でのふれあいステージ企画に、今年も聖歌隊が参加し、キリスト教の聖歌や讃美歌をはじめとする歌を披露しました。

曲目は、「わたしをお使いください」「いつくしみふかき」「ことりたちは」「海と空つくられた主は」「上を向いて歩こう」「もみじ」の全6曲です。このうち、「海と空つくられた主は」は、子ども向きの手話付きの歌です。観客の皆様もご一緒に手を動かして、口ずさんで下さいました。どうもありがとうございました。

当日は、大変よい天気と気持ちの良い気候に恵まれて、たくさんのお客様に聴いて頂いたことを感謝申し上げます。(柴田)

今回は特別企画として「黙想と祈りの集い」を行います。

大きな意味では礼拝の一つの形式ですが、「黙想と祈り」に時間をたっぷり使う点が異なります。

この「集い」はフランスのテゼ村にある男子修道会(テゼ共同体と言います)が始めた典礼にアレンジを加えたものです。そのアレンジ版は八事にある聖霊修道院で使われていたもので、それを柳城流に再アレンジしたものを今回は用います。ややこしいですが、先ずは、体験していただくのが何よりかなと思います。始める前に、テゼ共同体について簡単に説明をしますので、ご安心ください。

「黙想と祈り」は宗教的儀式というよりは、人間の本能的な行為ではないでしょうか。それは、自分の「今」を見つめ、神などの「大いなるもの」に身を寄せ、未来に向かって歩みだすための時間です。

皆で静かなひと時を楽しみましょう。柳城祭を終えた今、心のスイッチを切り替えるには良い機会かもしれません。

お待ちしています!(^^)!

2017年に開催した時の記録はこちらで。

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●日時:11月5日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●テーマ:「自分らしく生きる私たち」
聖書箇所:「マルコによる福音書1:16‐20」
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

●次回以降の予定
・11/12(火)通常礼拝(チャペル)お話:大澤弘毅さん(本学事務職員)
・12/3(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン ★16:30よりXmasツリー点灯式
・12/10(火)通常礼拝(体育館)説教:大西チャプレン

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」(ルカによる福音書1:76~77)

前回ではマリアの賛歌を学びました。

今回はザカリアの賛歌(ベネディクトス)を通して、ザカリアの息子・ヨハネが洗礼者となりイエスの先立ちとなることを預言する場面を学びました。ベネディクトスとはラテン語で「ほめたたえよ」という意味です。

ザカリアの賛歌はマリアの賛歌と同じく旧約聖書(詩篇、エゼキエル書、ミカ書、マラキ書、イザヤ書、エレミヤ書等)の言葉が集められています。彼は、その当時の敬虔な宗教家かつ知識人らしく、賛歌全体を通して神の言葉を引用しながら神を讃えています。

ザカリアの賛歌は1:68~75までは常に敵国に包囲されていたイスラエルの苦悩と、神との契約、民の解放の歴史においての神への賛美がなされ、1:76~80では洗礼者ヨハネの生涯についての預言が語られています。

また救いの角(1:69)とは動物の角のことで「強さ」をあらわし、ダビデの家から強い者があらわれるという、イエスの誕生についてが預言されています。

1:78~79では「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と記され、まさにイエス・キリストがこの世にあらわれた世界が表現されています。

私は今回改めて、ザカリアによって預言されたヨハネの洗礼者としての働きについて深くイメージし考える機会をいただきました。

ザカリアの息子ヨハネはその当時、罪人扱いを受けていた弱い立場であった民衆の救いでした。ヨハネのもとに集まった民衆は救世主を待ち望み、罪の赦しを求めていたのです。

しかしヨハネは罪の赦しを担う権威は持っていませんでした。ヨハネはあくまでも、ただ洗礼を悔い改めのきっかけとして用いる者でした。

ルカはマリアの賛歌の後、ザカリアの賛歌を記すことにより、イエスの先立ちとしてのヨハネの使命を強調しています。

次回は、いよいよイエス誕生の場面です。園において子どもたちと共に過ごすクリスマスシーズンを感じつつ、学びを進めていきます。(Y)


ミニヒマワリ

 

保育経験40年という榎戸裕子先生のお話は、あふれる実務体験がよどみなく流れ出るといった感じで、聞いていて心地良かったです。そして、その確かな実績には説得力がありました。だから、お話の最後に出てきた「私は愛をもって仕えます!」という言葉が完璧に耳に残りました‼ このような感覚はまったく新鮮でした。

以前、オープンキャンパスで出会った高校生の母親が「結局、By Love Serveなんですよね‼」って、ご自分の母校である柳城を誇らしく語ってくれたことが思い出されます。

榎戸先生のお話の内容は、後日、「ちゃぺるにゅーす」でご紹介しますので、お楽しみに(^^♪ 今回はひとまず、建学の精神が柳城にとっては何よりの宝であることを改めて感じさせてくださった先生について、感謝の気持ちを込めてご報告しました。「By Love Serve」を宗教などという枠に押し込めないで、日常会話でもっと使えるように訓練したいものです。それこそが本学の社会的役割だと確信するからです。(K)

今回のテーマはイエスの十二使徒です。

ルカによる福音書は「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。(6:12-13)」と記しています。イエスにはたくさんのお弟子さんたちがいましたが、彼はその中でも特別な十二人を一晩中祈ってから選んだということです。

では、選ばれた十二人は、とっても出来の良い人たちばかりだったかというと…。さて、どうでしょうか?

イエスの人選の仕方は、現代においても大変参考になると思います。脆弱な組織体には特に参考になるかもしれませんね。

お待ちしています!(^^)!

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●日時:10月29日(火)
3限 13:10~:大学礼拝【保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員】
4限 14:50~:大学礼拝【保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員】
●場所:チャペル
●お話:大西チャプレン
●テーマ:「イエスの12人の弟子たち」
聖書箇所:「マルコによる福音書3:13-19」
3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

次回以降の予定
・11/1(金)創立記念礼拝(体育館)
・11/5(火)特別礼拝(チャペル):「黙想と祈りの集い」を開催します。
・11/12(火)通常礼拝(チャペル)お話:大澤弘毅さん(本学事務職員)

今年で5回目を迎えたAHI巡回報告会。年にたった一度の機会ですが、毎回、中身の濃いお話を頂き、ほんとうに感謝です‼

今回はカンボジア国籍でクリスチャンのチャン・レイさんをお招きしました。通訳はいつものようにAHIスタッフの中島隆宏さんです。

チャンさんはFIDR国際開発救援財団の職員で、現在は、カンボジア事務所に勤務しています。栄養改善のため、州・郡の保健課職員の能力育成とともに、母親グループづくりによって5歳児未満の子どもたちの栄養改善活動に取り組んでいるとのことです。

その現状と、ここまでに至る彼女の道のりとが、礼拝の奨励と礼拝後の「柳城タイム」の中で熱く語られました。それらの要点を以下に箇条書きします。テーマの根底を支える聖書の言葉は、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)」

なお、詳しくは「ちゃぺるにゅーす」にて後日ご報告します。

✝ ✝ ✝

①高校卒業後から働いてきた中国資本の工場を辞めて、キリスト教会の英語の教師になったことで給料が大きく下がったが、教会に通う中で、私は人々への奉仕の仕事が自分にとって一番大切なことだと気づいた。

②看護大学在籍中、インターンでの経験から、病気の人々の命を救いたければ、治療よりも予防の方が優先事項であることを学んだ。

③失業中、私は多くのことに悩まされ、「神様、あなたの次のご計画は何か?」、「どうすれば私はそれを実現できるのか?」という問いかけをした。そして「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:13)」とのみ言葉が与えられた。私は待つことを学び、神のご計画の中にあることを知って、心穏やかになった。

④私はカンボジア保健省と協力してファシリテーターとして働き、母親と子どもの健康を改善するために、母親対象に健康と栄養に関する知識を伝え、意識を変える活動をしている。ところが、親の半数以上が乾季になると州外に出稼ぎに行ってしまう。残された子どもの面倒を見るのは祖父母であるが、彼/彼女らは、あの過酷だったポル・ポト政権時代の世代なので、教育や保健衛生の分野における知識が乏しい傾向にある。私は祖父母らの子育てをもサポートしようと努力しているが、読み書きができない人もいて、その道のりは大変険しい。でも、私は決してあきらめるつもりはない。ひたすら忍耐強く取り組むのみである。

⑤今回、AHIの研修に参加することで多くの経験と新しい知識を得たが、私が最も強いインスピレーションを持ったのは広島から学んだ「平和への構築」だった。被ばくしても生き続ける木や残された建物が私に大きな希望を与えてくれた。私は身近なところから平和を求め、家族や職場に広げたいと思う。

⑥すべての子どもは白い紙のように純粋なものとして生まれるが、中には暴力を受けたり親から離されたりして、十分なケアを受けられないケースもある。一緒に種をまこう。そうすれば将来に実りがあり、あなたの社会は愛で包まれるはずだ。愛と平和をあなたの周りの子どもたちと分かち合おう。そして、平和の作り手となろう。

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●最後にAHIのサイトに掲載されている記事をご紹介しておきます。こちらへ。

 

 

 

今回は、あの有名な「マリアの賛歌」に触れて、マリアの姿を強くイメージすることが出来ました。

旧約聖書(詩篇、サムエル下、ヨブ記など)の言葉の段片が豊富に散りばめられているこの賛歌。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。(1:46~48)」とか「その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。(1:50)」には、受胎告知を受けた母マリアの深い信仰と神への賛美、謙遜な姿が女性らしい祈りの言葉として記されています。

一方、51節からは「腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(1:51~56)」と記されているように、言葉にも勢いが増します。そこには当時のイスラエル人らしい、全てを神に信託するマリアの本性が力強く感じられます。

今回私はこの美しいマリアの祈りが、単なる神への賛美だけではなく「預言」でもあることを知りました。

マリアは聖霊に満たされる中で、イエス・キリストの誕生によって旧約の時代が終わり新しいイエスの時代へと世の中が変わることを、喜びを持って告げました。

新しい時代では、神によって、権力を持っておごり高ぶる人間は引き下ろされ、不要な人間と蔑まれてきた弱い立場の人々は高くあげられるのです。

私は、このマリアの預言はイエスによって実現し、これこそが「希望」だと感じます。自分を「はしため」と語ったマリアもその希望は同じ思いであったのでしょう。

次回では、いよいよイエスが誕生なさいます。「深い闇を切り裂く光」の象徴であるイエスの登場に心をときめかせながら学びを進めていきます。(Y)


オオスカシバ

今回は本学教員の榎戸裕子先生にご登場いただきます。

学生さんに命の大切さを伝えたいという気持ちから、ご自分の研究室でハムスターを一生懸命に飼育されています。現在、2代目君が元気だということですが、初代のハムちゃんについてはこちらをご覧ください。

「命」は聖書にとっても大切なキーワード。福音書では主に「永遠の命」について語られることが多いです。今から2000年前のイエスの時代です。戦争が多く、医療技術も未熟だったので、当時の人々は死と隣り合わせの生活を送っていたことでしょう。だから、長生きはもとより、死後の命についても関心が高かったわけで、「永遠の命」を保証するイエスが受け入れらる素地は整えられていたのです。

話が飛躍しましたが、榎戸先生が語るハムスターの命に期待したいと思います‼

お待ちしています!(^^)!

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●日時:10月22日(火)
3限 13:10~:大学礼拝【保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員】
4限 14:50~:大学礼拝【保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員】
●場所:チャペル
●お話:榎戸 裕子 先生(本学教員)
●テーマ:「わたしが、なぜ、ハムスターを飼い続けるのか」

次回以降の予定
・10/29(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・11/1(金)創立記念礼拝(体育館)
・11/5(火)特別礼拝(チャペル):「黙想と祈りの集い」を開催します。

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