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本日は「マルコ通読」の四回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:27~29)

律法学者たちはイエスの存在に恐れを抱き右往左往して邪悪な考えを持ちます。でも、そんなことには無頓着なイエスは、稲妻のような光で世を照らし続けるのです。まさに光と闇。私はここに、イエスの深い霊性を感じました。

「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)

当時の風習や律法に縛られて頭でっかちになっていた人々はイエスの言動は理解できません。でもイエスに心を開放された人々は深いイエスの霊性を信じて癒されていったのです。

私は今回もイエスから大きな恵みをいただきました。それは明確なゴールを掲げ、霊的に進み続けることの強さと、その喜びです。

進化を待ち望み、常に前向きに。

これからもバイブルタイムではイエスの御言葉に学び、生きる喜びをいただいていきます。

心にも滋養を😊✨。

主に感謝。

お昼の賛美歌タイムでは、これまで子ども賛美歌を中心に歌いこんできましたが、最近は日本聖公会の聖歌集にも目を向けるようになっています。

「いい歌がたくさんあるね★彡
毎日のように参加してくれる学生さんがふと語ってくれました。ギターコードを苦労して付けて伴奏する私には、たいへん嬉しい反応でした。

手軽に賛美するにはギター伴奏は必須ですね。できれば全ての曲にコードがついて欲しいです。そうすれば主への賛美がもっと広がるでしょう。(加藤)

 

本日は「マルコ通読」の三回目が行われました。

今回、私はファリサイ派の律法学者の含みある問いかけに主がお答えになられた「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)
が印象に残りました

記事を深めると、その場には徴税人をはじめ「罪人」と呼ばれる人々やヨハネの弟子たちもおり、なりゆきを見守っていた様子がうかがえます。

私はこのお言葉から「人はいつでも悔い改め、赦され、そして生き直すことができるのだ」と感じるとともに、私自身の洗礼によって得られた喜びを重ねました。

新しいぶどう酒とはイエス・キリストの福音であり、また新しい革袋とは古い体制から解放され新しく生きていく人たちをあらわしていると思います。

主は、私たちに常に呼びかけられておられると私はこの回でも感じました。
「真の福音は新しい意識のもとでこそ得られる。素直な心でその意識を呼びおこせ…と。

次回もさらなる学びが続きます。

主にお赦しをいただいた喜びを常に忘れることなく、これからも学んでいきます。

主に感謝

今の時期、保育科1年生が2週間の実習に入り、他の学生さんは授業がありません。

ということで、柳城短大はひっそりとしています。

そんな中でも、朝の祈りは毎日続けられています。

参加者は多い時でも5人程度ですが、満ち足りた10分間が私たちの魂を毎朝目覚めさせてくれています。

マザー・テレサは語っています。
「すべては祈りから始まります。祈ることを愛しましょう。日中、しばしば祈る必要を感じ、祈るため労を惜しまないようにしましょう。」

今朝も、毎日参加してくれている学生さんが「学校に来ない学生の皆さんがつながっていますように」と祈っていました。

名古屋柳城短期大学が祈りによって益々元気になっていくことを願ってやみません。(加藤)

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」【ルカ19:45-46】

by:a4gpa

本日は「マルコ通読」の二回目が行われました。

あっという間に時間が過ぎてしまった前回の私自身の反省をふまえ、質問や自分が感じたことは通読後にお伝えすることになりました(汗)

すると、歩みを緩めることなく行動し続ける師としてのイエスのお姿が、はっきりと感じられました。

今回私は

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」 (マルコ1:38)

この節が印象に残りました

ガリラヤでたくさんの人が押し寄せる中、イエスは民の「信仰」のみを見ながら、癒しをあたたかくお与えになられる。

それは、人の頭の中で考え出された想像や論理をはるかに越えた慈しみの愛の表現。

私にはそのお姿が嬉しく、胸に迫ります。

また「マルコによる福音書」は記事の展開が早く、イエスの道すじを通読初心者がたどるには最も理解しやすい福音書であるなぁと感じました。

今回は難しい…「宿題」をいただきました😊✨

そのお導きに次回がよりいっそう楽しみです。

主に感謝。

バイブルタイムでは福音書を順に読み進める☆春休み特別企画「マルコ通読」☆が始まりました。

毎回、参加者同士が、印象に残った箇所とか感じたことなどを分かち合います。また分からないことは自由に質問できます😊✨

私は今回、「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(マルコ1:22)」が一番印象に残りました。

知識のみではなく人の真理を語るイエスの姿は、律法学者たちとは全く違っていた…。

人々がそのように肌で感じた驚き、そしてイエスの究極さに私は出会いの喜びを感じます。

活発な分かち合いに、1時間があっという間に過ぎてしまいました😊✨

次回も聖書を何度も読んでから参加したいと思います。

主に感謝

【コリントの信徒への手紙一  6:19 】
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

「キリスト教の信仰を持つ人には聖霊が宿るのだから、自分の体を神殿だと思って大切にしなさい」と本日の聖書は語っています。今日は、聖霊が宿るその心についてお話をします。

この1年間の学びをまとめる時期に入っていますね。高校までは、どちらかというと進学のための勉強でしたが、柳城では、現場で発揮できる実践的な学びが中心です。授業、実習、礼拝などを通して心が広がったかどうかを今日は考えて欲しいと思います。

心が広いとは、たとえば、色々なタイプの子どもに向かって臨機応変に対応できるか、ということです。心に余裕があると言ってもいいでしょう。全員の子どもに対して一律に教え込もうとしても無理ですよね。でも、心が広いと一人ひとりの状況に対応できるようになります。

自分の心がどうなっているかを客観的に検証する機会はそんなにはないですが、広い心を持つことが皆さんの将来には一番必要ではないでしょうか。

本学の建学の精神である「愛をもって仕えなさい」という心の在り様は、身に付けることがさらに難しいです。でも、その時々のチャレンジが皆さんの成長につながります。どうか励んでみてください。

以上で、私から皆さんへの最後の言葉とします。(名古屋聖マタイ教会 司祭 田中 誠)

プリムラ

12月20日(水)に行なわれた礼拝の模様をお届けします。

●前奏
「牧人ひつじを」…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏

 

 

 

 

 

点火の祈り
「大いなる光を造られた主が、豊かな憐れみによってわたしたちの心の闇を照らし、喜びに目覚めさせてくださいますように。光の源である主の輝きによって、救いの光が世の隅々にまでゆきわたりますように。義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますように。」

 

 

 

 

 

 

●聖歌…第69番「もろびとこぞりて」
→司式者団が入場し、中央通路のロウソクが点火されます。

 

 

 

 

 

 

●ページェント…「キリスト教保育」受講生、有志学生
1 受胎告知
2 ベツレヘムへの旅
3 野の羊飼いと天使
4 み子の誕生と羊飼いの礼拝
5 占星術の博士たちの礼拝

→恒例のイエス・キリスト降誕劇。本日の礼拝の意味が伝えられる大切な時間です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

福音書…ヨハネによる福音書 1:1-5、14
●クリスマスメッセージ…チャプレン 主教 大西 修 →こちらでご覧ください。

●手話コーラス…介護福祉専攻学生、有志学生
「YUME 日和」「Smile」

 

 

 

 

 

 

●ハンドベル演奏…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏
「いのちの奇跡」 編曲:扶瀬 絵梨奈

 

 

 

 

 

●演奏…保育専攻学生  伴奏: 内山 尚美
「Ave Verum Corpus」 (W.A. モーツァルト)
「Hail Holy Queen 」映画「天使にラブ・ソングを」から(Traditional)

 

 

 

 

 

聖歌…第76番「かいばおけの干し草に」
●奉献の祈り
●聖歌…第91番「荒野のはてに」
●聖歌…「おほしがひかる」
→聖歌の間にロウソクの火がすべて灯されます。

 

 

 

 

 

主の祈り(主イエス・キリストが教えてくださった祈り)

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

 

 

 

 

 

●諸祈祷
・名古屋柳城短期大学のための祈り
・東日本大震災と熊本地震を受けて―祈りをともに
・アッシジの聖フランシスの祈り

主よ、
あなたの平和を人々にもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、
疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇には光を、
悲しみのあるところには喜びを、
もっていくことができますように。
慰められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを、
求める心をお与えください。
私たちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
自分自身に死ぬことによって
永遠のいのちをいただくのですから。

 

 

 

 

 

 

祝祷
●聖歌…第81番「神には栄え」
→聖歌の間に司式者団が退場します。

 

 

 

 

 

後奏

この後、今年のクリスマスプレゼントが紹介されて、礼拝は無事終了となります。

 

 

 

 

 

 

いくつかの出し物に彩られた、すてきなクリスマス礼拝だったと思います。イエス・キリストご誕生の意味がすべての参加者の心に届く、そんな礼拝を求めて、柳城短大のチャレンジはこれからも続くことでしょう。(加藤)

「このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイによる福音書23:28)

【入試広報課ブログもご覧ください】

【ヨハネによる福音書 1:1-5、14】

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

 

 

 

 

 

クリスマス~受けた愛に答える時

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

今年もクリスマスを迎えようとしています。柳城では早目の今日、お祝いしていますですが。

わたしの記憶に残っているだけでも、これまで60回を越えるクリスマスを経験してきました。それら一つ一つを思い出すことはできませんが、同じクリスマスは一度もなかったことだけは確かです。毎年毎年、違う思いをもってこの日を迎えてきました。

ことのほか、この日が待ち遠しくて、楽しくて、嬉しくて仕方がなかったのは小学生の時までだったでしょうか。サンタクロースからのプレゼントを、宝物のように大切にして過ごした日々がそれでした。

中学、高校時代は教会で日曜学校(教会学校)のお手伝いをしたり、新米の教師をしたりする中で、自分よりも小さな子たちにいっぱい楽しんでもらいたいという熱い思いに満たされ、クリスマスの喜びを共に分かち合うことの素晴らしさを学びました。

大学時代には教会から外に出て、現実の世界に目を向け、歳末の町でキャロルを歌い、クリスマスの案内を道行く人々に手渡したり、救世軍の慈善鍋に倣って募金活動をしたりしました。また、少年刑務所に行って、入所している人たちと一緒にクリスマスソングを歌うひと時を送ったこともありました。

神学校に学び、卒業後は教会の牧師として、また時には教会付属の幼稚園・保育園の園長として各地で迎えたクリスマスは、都市化し、世俗化し、人間関係が希薄化する中で、教会と関わりのある諸施設、学校、幼稚園、保育園でクリスマスをお祝いする意味、意義はどこにあるのだろうかと絶えず自問しつつ過ごす時でもありました。

よくクリスマスを「苦しみます」と言ったりしますが、自分でそのことを体験することも多くありました。満面の笑みを浮かべて登園して来る園児たちの姿を思い浮かべながら、園児たちにどんな喜びがあげられるだろうか?と思案しながら、夜遅くまで一人一人のプレゼントに名前とメッセージを書いて、包装したこと、夜明け前の園庭に出て、1m以上降り積もった雪かきをし、汗びっしょりになって通園路の確保に腐心したこと、野宿を余儀なくされている人々の越冬炊き出しのお手伝いや、夜回りに行ったこと、洪水、地震による多くの被災者の支援活動を進めていくため、オープンスペースを教会や保育園に開設したことなど、考えてみればこのような「苦しみます」と思える事柄と、クリスマスの出来事・主イエスの御降誕の情景が重なり合うとき、不思議に「苦しみます」と思える事柄がいつの間にか喜びへと変えられていく経験を何度もしました。神様はいついかなる時にも、どこにおいても一緒にいてくだり、見守り、支えてくださるお方です。

主イエスの御降誕は飼い葉桶の中に眠る幼子が、厳しい貧困の現実の只中で、ひたむきに生きる羊飼いたちに生きる喜びを与えました。この世界から全く孤立し、顧みられなかったような羊飼いたちが、天使の呼び掛ける歌声に答えることを通して生きる意味を見出したのです。

神によってこの世に遣わされた幼子は、貧しく、小さく、か弱い姿で、わたしたちに呼びかけてこられます。「あなたは愛されている。神から、そしてわたしから。あなたは与えられた大切な命を惜しみなく用いなさい。あなたの命はかけがえのない命、何ものにも代えがたい命なのだから」と。その声に耳を傾け、その声を聴き取り、それに答える人に、クリスマスの喜び、救い主キリストの到来の喜びが現実のものになるのです。

皆さん、クリスマスおめでとうございます。(チャプレン 大西 修 主教)

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