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「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」
(ローマの信徒への手紙5:3~4)

皆さんご卒業おめでとうございます。今日は柳城生としての最後の大学礼拝になります。はなむけに上記の聖書のみ言葉を贈ります。

イエスさまを世界に宣べ伝えたパウロは、1世紀のローマの教会へ上記の言葉を送りました。苦難、忍耐、練達といった言葉は、何か無理をして頑張らなければならない、精神修行のような大変厳しい印象を与えます。あまり好きな言葉でないと感じる人もいるかもしれません。でも苦しみが最後には希望を生むのです。素晴らしいとは思いませんか。わたしたちは皆、神さまに愛されているので、苦しみを耐え忍ぶことができます。なぜなら、愛してくださる方のことを思うと、苦しみを積極的に受け入れることができるようになるからです。皆さんも愛する人のためなら、その人の喜ぶ顔を想像するだけで、きっと苦しいことも耐え忍ぶことができるようになると思います。

そして耐え忍ぶことを通して、人として熟練した域に達します。するとそこに希望が生まれてきます。自分の力で耐え忍び、練達の域に達するのではなく、わたしを愛してくださっている神さまの愛の力、支えによって希望が生まれるのです。

深い雪の下の地中で凍死しているようにみえるチューリップの球根は、雪解けとともに芽を出し、やがてきれいな花を咲かせます。冬の間、枯れたように見える固い桜のつぼみも、寒さを通して春を迎え、満開の花びらをつけます。同志社の創立者 新島襄は「真理は寒梅に似たり、あえて風雪を侵して開く」という詩を作りました。苦難、忍耐、練達は、約束されている希望、素晴らしい実りをもたらすための一里塚です。

皆さんは柳城での2年間の大学生活で、勉学、実習で苦しかったこと、人間関係、お友達との関係で忍耐したことも幾度かあったことでしょう。でもそのことが、今後のあなたがたの歩みの中で、きっと豊かに花開き、身を結ぶものになると信じます。

これからの歩みの中で心に留めておいてほしいことを書きます。

・他人と比較しないこと。あなたにはあなただけの良さがあることに気づくこと。
・目先のことに惑わされず、長い目で見ること、長期的な展望を持つこと。
・生活の質を大切にすること。量より質。大きいことは良いことかどうか?
・結果ではなくプロセスを大事にすること。「結果良ければすべて良し」の考えはダメ。
・どんな境遇にあっても、それを受け入れる心を持つこと。「幸いな時も、災いの時も、富かな時も、貧しい時も、健康な時も、病気の時も 」

皆さんのこれからの日々の上に、神様の豊かな見守りがありますように! 主の平和。(チャプレン主教大西修)

「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35)

イエス・キリストの言葉として、パウロがエフェソの教会を去る時、伝えた言葉です。イエスさまを模範とする生き方がこの言葉に示されています。

人が人として生きていく上で、受けること(もらうこと)と与えること(あげること)はだれもが体験するとても重要なことです。この体験なしには人は生きていけません。

イエスさまは与えることがどんなに人を生かし、人に喜びを与えるものであるかを、弟子たちと寝食を共にする中で、お教えになりました

しかし、正直なところ、わたしたちは「与えるより受ける方が幸いである」と思っています。だって、あげるよりも、もらう方が得だし、嬉しいし、いいに決まっているからです。それに反して、イエスさまは人が人として生きていく上で、受けるよりは与える方が、本来的な生き方であると言われ、ご自分の命を与えること(十字架におかかりになり死ぬこと)を通して、与えることがどのような意味を持つのかをお示しになりました。

イエスさまはわたしたちに想像できないほどの、大きく、広く、深い愛をお与えくださいました。それが十字架の上で愛する全人類のために死なれたことだったのです。

肉体的にも精神的にも未成熟な乳幼児の時、老齢期を迎え、気力や体力が衰え、援助が必要となる時、また肉体的、精神的なハンディキャップを負って生きる時、さらに経済的に苦しく困難な日々を過ごしている時などは、ある意味で受けることが多く、与えることが少ないと言えるでしょう。

乳幼児はお乳を飲ませてもらい、ご飯を食べさせてもらい、おむつを交換してもらい、お風呂に入れてもらい、抱っこしてもらい、遊んでもらい、寝かせてもらいます。母親、父親からあふれるばかりの愛を注がれて育った乳幼児は、受ける喜びを心身で体得します。

その受けた喜びは、与えることを喜びとする人に成長していく力となります。外見的には弱く、力なく、受けることが多いと思われている人々(乳幼児、お年寄り、ご病人、ハンディキャップを負っている人々など)から、実に多くの目に見えるもの、見えないものを受けていることを忘れてはなりません。

神さまは知らないうちに、どのような人にも与える力をお与えになっています。

4月には2年生へと進級するわたしたちです。喜んで与える人へと成長できるように祈り求めていきましょう。(チャプレン 主教 大西修)

 

本日は「マルコ通読」の九回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。(マルコ6:33~37)

イエスは「出かけて行って悔い改めさせるために宣教した(マルコ6:12)」使徒たちをやさしい眼差しでお迎えになられました。

「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(マルコ 6:30)
その様子は、夕に親鳥のもとに帰り一日の報告をする小鳥たちのようです😊✨
私はそこに使徒たちの宣教において経験した達成感と「喜び!」を感じました。こうやってイエスの使徒たちは自立の一歩を踏み出したのです。

一方、民衆たちも、使徒たちと同様に熱い思いを持ってイエスのもとに駆けつけます。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

今回の記事ではイエスの有名な奇跡―五千人の給食―を知ることが出来ます。私は初めてこの奇跡に触れた中学生の時「イエスさまは何でも形にしてしまわれる、すごい方なのだなぁ」と思いました。

そして、現実としてイメージできなくても不思議に「信じられる」気持ちが沸いてきました。そして私のイエスへの親愛はここで既に生まれていたのだと今、嬉しく感じられます。

五つのパンと二匹の魚。
これらを象徴とする奇跡をどのように捉えるのかを、福音書は私たちに問いかけています。
それは「目で見えるものと、見えないもの双方を与えられた上で、信頼、真理の拠り所を自分自身で勝ち取れ!」と、私たちに突きつけているように感じます。

光輝くイエスは何度も問いかけます。
そして…、実生活に流され、移ろいやすい私たちの心を導いてくださいます。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(マルコ6:37)
このイエスのお答えに励まされた私は、保育者としてどのように考え行動し生きていくのかをバイブルタイムを通して熱く学んでいくつもりです。

今、私自身が喜びに包まれ益々イエスを頼る「子羊」そして「小鳥」となっていることに…恵みを感じます。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の八回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。(マルコ6:4~6)

イエスは弟子たちを従えて故郷ナザレにお帰りなりました。
会堂でお話になられると、人々はその教えやお姿に大変驚き「この人は大工ではないか(マルコ6:3)」とイエスを訝(いぶか)りました。

そのような故郷の人々の様子を、マルコは「人々はイエスにつまずいた(マルコ6:3)」とあらわしています。

彼ら彼女らはイエスを昔馴染みの「俺たちの知っているイエス」と見てタカをくくったのですね。イエスはそんな人々の姿をご覧になり、彼らの信仰心の無さに驚かれ、奇跡をおこされることなく故郷を離れられました。

私はこの記事より、心から純粋にイエスを欲し慕う信仰心こそがその人を救うのだ…、そんな思いを持ちました。

そしてイエスを信じる信じないの差はどこから来るのだろう。そんな問いかけを与えられたと感じています。

私たち人間では計り知れない愛と力をお持ちになられるイエス…。

そのようなイエスの御業を私はこれからも福音書から学び続けます。

それは真理につながる光、深い生き方への道しるべだと信じて😊✨

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の七回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ 5:33~34)

この長血の女は社会より拒絶され孤独に苛まれていました。宗教指導者らから「汚れた者」として扱われていたからです。

そんな彼女がイエスの存在を知ったとき、どれほど純粋に畏敬の念を持ったのか…。私は、その思いをじっくり体感することに集中しました。

「この方の服にでも触れればいやしていただける。」(マルコ5:28)
彼女は押し迫る群衆を横目に、言葉を発することなく、彼にただすがりました。

イエスは言われた。
「娘よ。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)

そんな彼女の思いに応え、イエスは彼女の願いを体で感じて、すぐさま癒しを与えられました。人に近づくことも家族と交わることも絶たれていた彼女にとって、唯一の「希望」が信仰であったことを、イエスは一瞬にしてお気づきになられたのです。

「真剣な祈りから発せられる願いは、まさに信仰の証」
私はイエスの御言葉を真理だと確信して喜びを感じています。

さて✨バイブルタイムではその時代の地図を手もとに、イエスの軌跡を辿っています。また難解な言語である古代ギリシャ語に触れるチャンスもいただいています。

好奇心と真実に満ちた学び。
次回も真摯に理解できる私でありますように…✨

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の六回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。 」(マルコ 4:26~29)

イエスは引き続きたとえを用いて民衆に話されますが、今回は「信じること」の大切さを噛み締めながら読み進めました。それは前回の学びから「神の国の秘密は素直に信じることで知ることができる」と感じたからです。

ブログを投稿するにあたり御言葉を何度も何度も繰り返し読んでいた私は、ハッとしました。

「御言葉の深さを読みきれない、このような今の私であっても。ひたすら真理を知りたいと願い、神さまを信じ、全てをおまかせしても良いのだ…。神さまはそんな幼い私の育ちをも、いつも見守ってくださるのだ」と。

私は小さい種…ひとりでに実を結ばせる…。
そんな私は「どうしてそうなるのか知らない種」なのです。

つまり、全てをおまかせし生きるのみです!

今喜びと共に一日一日が安心に包まれています。そしてバイブルタイムを重ねるごとに「師」としてのイエスへの憧れが増していきます。

また、今回は頭が爆発しそうな程、難しい宿題をいただきました😊✨

イエスさまの道をたどる旅は続きます…✨

主に感謝。

朝の祈り」タイム同様、「お昼の賛美歌タイム」もしぶとく続いています。

たった15分の賛美ですが、いつも来てくれる学生さんは「これがないと気持ちが悪い(笑)」と言ってくれています。伴奏担当の私もその気持ちが分かる気がします。

主を賛美できるだけでなく、午前中のハードワーク(笑)で疲れた頭をリフレッシュできますからねえ。

清い時間が与えられて、本当に主に感謝です。(加藤)

他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:15-16)

「マルコ通読」の五回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(マルコ 4:14)

イエスはどんな時も民衆の日常生活を題材にしたたとえを用いて話されました。まるで子どもたちに説いて聞かせるような柔らかいイメージです。

一方、弟子たちにたとえについて尋ねられた時のイエスの空気は全く異なっています。それは神の国の秘密を伝える唯一の指導者としての厳しい姿でした。

私はその姿に、「神の国の秘密は素直に信じることで知ることができるのだ」と伝えられているように感じました。

主の御言葉が自分の血となり肉となるためには信念を持って聞くことが重要ではないかと私は思いました。

また御言葉を知った後も繰り返し味わうことが必要なことも教えられました。

種を蒔く…

マルコ通読では毎回のように蒔かれる主の御言葉が、これからも楽しみです。

主に感謝。

本日は「マルコ通読」の四回目が行われました。

今回響いたイエスの御言葉は…

「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」(マルコ3:27~29)

律法学者たちはイエスの存在に恐れを抱き右往左往して邪悪な考えを持ちます。でも、そんなことには無頓着なイエスは、稲妻のような光で世を照らし続けるのです。まさに光と闇。私はここに、イエスの深い霊性を感じました。

「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)

当時の風習や律法に縛られて頭でっかちになっていた人々はイエスの言動は理解できません。でもイエスに心を開放された人々は深いイエスの霊性を信じて癒されていったのです。

私は今回もイエスから大きな恵みをいただきました。それは明確なゴールを掲げ、霊的に進み続けることの強さと、その喜びです。

進化を待ち望み、常に前向きに。

これからもバイブルタイムではイエスの御言葉に学び、生きる喜びをいただいていきます。

心にも滋養を😊✨。

主に感謝。

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