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「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」
(ローマの信徒への手紙5:3~4)

皆さんご卒業おめでとうございます。今日は柳城生としての最後の大学礼拝になります。はなむけに上記の聖書のみ言葉を贈ります。

イエスさまを世界に宣べ伝えたパウロは、1世紀のローマの教会へ上記の言葉を送りました。苦難、忍耐、練達といった言葉は、何か無理をして頑張らなければならない、精神修行のような大変厳しい印象を与えます。あまり好きな言葉でないと感じる人もいるかもしれません。でも苦しみが最後には希望を生むのです。素晴らしいとは思いませんか。わたしたちは皆、神さまに愛されているので、苦しみを耐え忍ぶことができます。なぜなら、愛してくださる方のことを思うと、苦しみを積極的に受け入れることができるようになるからです。皆さんも愛する人のためなら、その人の喜ぶ顔を想像するだけで、きっと苦しいことも耐え忍ぶことができるようになると思います。

そして耐え忍ぶことを通して、人として熟練した域に達します。するとそこに希望が生まれてきます。自分の力で耐え忍び、練達の域に達するのではなく、わたしを愛してくださっている神さまの愛の力、支えによって希望が生まれるのです。

深い雪の下の地中で凍死しているようにみえるチューリップの球根は、雪解けとともに芽を出し、やがてきれいな花を咲かせます。冬の間、枯れたように見える固い桜のつぼみも、寒さを通して春を迎え、満開の花びらをつけます。同志社の創立者 新島襄は「真理は寒梅に似たり、あえて風雪を侵して開く」という詩を作りました。苦難、忍耐、練達は、約束されている希望、素晴らしい実りをもたらすための一里塚です。

皆さんは柳城での2年間の大学生活で、勉学、実習で苦しかったこと、人間関係、お友達との関係で忍耐したことも幾度かあったことでしょう。でもそのことが、今後のあなたがたの歩みの中で、きっと豊かに花開き、身を結ぶものになると信じます。

これからの歩みの中で心に留めておいてほしいことを書きます。

・他人と比較しないこと。あなたにはあなただけの良さがあることに気づくこと。
・目先のことに惑わされず、長い目で見ること、長期的な展望を持つこと。
・生活の質を大切にすること。量より質。大きいことは良いことかどうか?
・結果ではなくプロセスを大事にすること。「結果良ければすべて良し」の考えはダメ。
・どんな境遇にあっても、それを受け入れる心を持つこと。「幸いな時も、災いの時も、富かな時も、貧しい時も、健康な時も、病気の時も 」

皆さんのこれからの日々の上に、神様の豊かな見守りがありますように! 主の平和。(チャプレン主教大西修)

「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35)

イエス・キリストの言葉として、パウロがエフェソの教会を去る時、伝えた言葉です。イエスさまを模範とする生き方がこの言葉に示されています。

人が人として生きていく上で、受けること(もらうこと)と与えること(あげること)はだれもが体験するとても重要なことです。この体験なしには人は生きていけません。

イエスさまは与えることがどんなに人を生かし、人に喜びを与えるものであるかを、弟子たちと寝食を共にする中で、お教えになりました

しかし、正直なところ、わたしたちは「与えるより受ける方が幸いである」と思っています。だって、あげるよりも、もらう方が得だし、嬉しいし、いいに決まっているからです。それに反して、イエスさまは人が人として生きていく上で、受けるよりは与える方が、本来的な生き方であると言われ、ご自分の命を与えること(十字架におかかりになり死ぬこと)を通して、与えることがどのような意味を持つのかをお示しになりました。

イエスさまはわたしたちに想像できないほどの、大きく、広く、深い愛をお与えくださいました。それが十字架の上で愛する全人類のために死なれたことだったのです。

肉体的にも精神的にも未成熟な乳幼児の時、老齢期を迎え、気力や体力が衰え、援助が必要となる時、また肉体的、精神的なハンディキャップを負って生きる時、さらに経済的に苦しく困難な日々を過ごしている時などは、ある意味で受けることが多く、与えることが少ないと言えるでしょう。

乳幼児はお乳を飲ませてもらい、ご飯を食べさせてもらい、おむつを交換してもらい、お風呂に入れてもらい、抱っこしてもらい、遊んでもらい、寝かせてもらいます。母親、父親からあふれるばかりの愛を注がれて育った乳幼児は、受ける喜びを心身で体得します。

その受けた喜びは、与えることを喜びとする人に成長していく力となります。外見的には弱く、力なく、受けることが多いと思われている人々(乳幼児、お年寄り、ご病人、ハンディキャップを負っている人々など)から、実に多くの目に見えるもの、見えないものを受けていることを忘れてはなりません。

神さまは知らないうちに、どのような人にも与える力をお与えになっています。

4月には2年生へと進級するわたしたちです。喜んで与える人へと成長できるように祈り求めていきましょう。(チャプレン 主教 大西修)

 

【コリントの信徒への手紙一  6:19 】
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

「キリスト教の信仰を持つ人には聖霊が宿るのだから、自分の体を神殿だと思って大切にしなさい」と本日の聖書は語っています。今日は、聖霊が宿るその心についてお話をします。

この1年間の学びをまとめる時期に入っていますね。高校までは、どちらかというと進学のための勉強でしたが、柳城では、現場で発揮できる実践的な学びが中心です。授業、実習、礼拝などを通して心が広がったかどうかを今日は考えて欲しいと思います。

心が広いとは、たとえば、色々なタイプの子どもに向かって臨機応変に対応できるか、ということです。心に余裕があると言ってもいいでしょう。全員の子どもに対して一律に教え込もうとしても無理ですよね。でも、心が広いと一人ひとりの状況に対応できるようになります。

自分の心がどうなっているかを客観的に検証する機会はそんなにはないですが、広い心を持つことが皆さんの将来には一番必要ではないでしょうか。

本学の建学の精神である「愛をもって仕えなさい」という心の在り様は、身に付けることがさらに難しいです。でも、その時々のチャレンジが皆さんの成長につながります。どうか励んでみてください。

以上で、私から皆さんへの最後の言葉とします。(名古屋聖マタイ教会 司祭 田中 誠)

プリムラ

【マタイによる福音書2:13-16】
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

クリスマスをお祝いしたわたしたちの思いは、もう年末年始へと向かっていますが、

教会ではクリスマスの期間を12月25日から1月6日(東方の占星術の学者がやってきたことを覚える日。顕現[公現]日~エピファニーデイと言います)まで守ります。ですから,

クリスマス・ツリーなどの飾りなどもその期間飾っておいておかしくありません。日本人にはピンとこないかもしれませんが、キリスト教を背景にする国ではメリー・クリスマスとハッピー・ニューイヤーが重なっています。

さて、わたしたちはイエス様のお誕生の出来事についてはよく知っていますが、その直後のことについてはあまり聞く機会がないので知らない人もいるかと思います。今読んでいただいたところから続けて先を読んでみますと、イエス様は両親であるヨセフとマリアに守られてエジプトへと逃避行されます。それは、ヘロデが自分の王位を守り続けるため、その地位を危うくする、次の王になる可能性のある幼子の虐殺断行を逃れるためでした。

現在でも国境を越え、海を渡り、他国へ逃れる世界各地の多くの避難民の現実の姿には本当に心が痛みます。生まれて間もないイエス様もそのような避難民として、エジプトへ逃れ、そこで幼少期を過ごされたのです。誰もが想像もしなかった劣悪な環境の家畜小屋でお生まれになり、さらに生まれたばかりの幼子としてエジプトでの避難民生活をされたことは、世界の底辺で生きる人々のつらい思いと苦しい体験を共有される方として、幼子の時からイエス様が神の子として人々と共に歩まれたことを物語っています。

皆さんが4月からこの12月までの9か月の日々を振り返ってみる時、楽しく有意義な時も多かったことでしょう。でも一方では、自分の予想以上に大変で、しんどくて、落ち込んでしまう、そんなはずではなかったという経験をしたかもしれません。一見、マイナスと思われるそのような出来事を体験することを通して、わたしたちは一回り大きな人間へと成長させてもらえます。わたしの大変で、しんどくて、落ち込むような経験は、そのような思いを持っている人に対して、深い同情と共感を寄せることができる暖かな優しい人格を築き上げていくことと思います。

わたしはつらく、苦しく、しんどい思いをしたとき、いつもイエス様のことを思い浮かべます。そうするとイエス様は「大丈夫だよ。わたしが一緒にあなたのつらく、苦しく、しんどい思いを担ってあげますから。」と語りかけ励ましてくださることを信じています。

今日12月27日は福音記者使徒聖ヨハネ日という教会の祝日です。ヨハネはイエス様の弟子であり、「愛の使徒」と呼ばれ、ヨハネによる福音書を書いた人です。彼は「愛」についてたくさんのことを教え、書き記しています。「神は愛である」ことも教えています。その愛はイエス様の生き方、教えに示されています。

今年もあと4日、新しい年を、柳城が拠って立つみ言葉「愛をもって仕えなさい」の具体的実践の年として迎えたいと思います。(チャプレン大西 修 主教)

寒さに耐えるペチュニア

【ルカによる福音書1:26-38】
1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

初期ルネッサンス期に、イタリア人の有名な画家フラ・アンジェリコ(天使のような修道士の意味、本名はグイ―ド・ディ・ピエトロ1395-1455~ドミニコ会の修道士)が描いた代表作「受胎告知」を知っている人は多いと思います。現在はこの絵はフィレンツェのサン・マルコ美術館(修道院)にあります。

この絵は今読んでいただいてルカによる福音書1:26-38が素材になっています。天使ガブリエルがガリラヤ地方の町ナザレのマリアのもとに、神から遣わされ、次のように告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。」

天使ガブリエルは口元に微笑みをたたえ、祝福に満ちた優しいまなざしでマリアを見つめて素晴らしいメッセージを伝えています。そしてマリアは胸に両手を交差させて、厳粛な面持ちでメッセージを受け入れているように描かれ、またその両手は胎内に宿る命を優しく守っているようにも見受けられます。

そのほかにも「受胎告知」の絵画は、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されているレオナルド・ダ・ビンチとアンドレ・デル・ヴェロッキオによるものなどが有名です。(大塚国際美術館にその陶板画があります。)

美術作品としての「受胎告知」はとても美しく、優雅な情景として描かれていますが、聖書の告げる「受胎告知」は、思いも寄らないほど厳しく、想像をはるかに絶する苦しみと過酷な現実をわたしたちに提示しています。なぜならば、まだ結婚もしていない十代の一人の乙女のところに、天使が現れ、「あなたに赤ちゃんが生まれます」と告げたのです。しかも「恵まれた方、おめでとう」とまで言うのです。マリアが驚かないわけがありません。寝耳に水、何がおめでとうですか。ふざけないでくださいと言ってもいいくらいな、当時(2000年前)ではとても考えられない、まず生きていけないほどのスキャンダラスな出来事だったのです。マリアの小さな胸は張り裂けんばかりであったでしょう。ですから「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と天使に答えているのです。

マリアが神の子を身ごもることは、彼女の意志ではなく、神の御計画であり、神があなたをお選びになったのだと天使は告げます。マリアは小さな田舎町の一女性であり、地位も身分も財産も、学歴もなく、また人間として特別に秀でていたわけではありませんでしたが、不可能を可能にする神を信じ、その神に自分自身を委ね、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。マリアのどこまでも謙遜で従順な姿が、イエスをこの世に送り出す器とされたのです。神がイエスを人間としてこの世にお遣わしになり、マリアは神であるイエスの母として生きる光栄を与えられたのです。クリスマスは、神が一人の乙女マリアを通して、人間の世界に直接関わってこられた出来事であり、この出来事をわたしたちは「おめでとう」という挨拶で受け入れます。

わたしには到底信じられないようなことを信じる決断をする時、そこに不思議な出来事、すなわち奇跡が起こります。マリアが世界中の人々から親愛の情をもって現在も崇敬されているのは、彼女が一人の人間として思い悩み、迷いつつも、最終的には神にすべてを委ねる生き方を信仰によって決断したからに違いありません。

クリスマスはまさに奇跡です。わたしたちには到底信じられないようなことが起こったからです。このイエス誕生の出来事を信じるとき、わたしたちは「主が共におられる」大きな喜びを、間違いなく体験できるのです。(チャプレン大西 修 主教)

ラベンダー

可愛い天使たちが今年も柳城短大を訪れてくれましたよ。

附属柳城幼稚園の年長さんたちと和やかなひと時が持てました。主に感謝です。トーンチャイムの演奏とクリスマスソングのお歌が元気いっぱいチャペルに響き渡ります。

舞台に立ちながらも、お母さんの目の前で満面の笑みを見せる園児さんがとても印象的でした。クリスマスの思い出がこの子たちの胸に一生生き続けるよう、主にお願いしたいです。

 

 

 

 

 

 

●お話「クリスマスの備え」~愛あるところに神います~
【マタイによる福音書25:34-40】
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

今週からクリスマスの準備に入りました。そこにある4本のローソクは日曜日ごとに1本ずつ点灯されていきます。クリスマスは私たちを嬉しい気持ちにさせてくれますね。

さて、よく知られた話に『靴屋のマルチン』というのがあります。幼稚園児もよく知っているこの物語は、愛のあるところに神様もおられることを伝えようとしています。その幸せを伝えるために神様はイエス様を地上に送って下さいました。

「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と今日の聖書には書かれています。私たちが人をそのように愛する時、それを神様はよくご存知です。ただ、それがごく自然な気持ちからではなくて、何か打算的に働く時、神様は本当にはお喜びにはなりません。

私たちが知る知らないに関わらず、神様はいつも働いて下さいます。イエス様をこの世に送って下さったのもその表れです。神様の愛で満たされたクリスマスを喜んで迎え入れ、周りの人々にもその喜びをおすそ分けしたいものです。(チャプレン大西 修 主教)

【申命記16:16-17】
16:16 男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。
16:17 あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。

11月23日は勤労感謝の日です。様々の分野で良き働きをされた人々を覚え、感謝する日です。教会ではこの日に近い日曜日(降臨節前主日)に収穫感謝の日を守る習慣があります。

勤労感謝の日は働く人々に対して感謝する日ですが、収穫感謝の日はすべてのものをお与えくださる神さまに感謝する日です。教会では果物や野菜などを持ち寄って、大人も子どもも一緒に集まって収穫感謝の礼拝を捧げ、神の恵みに感謝します。

旧約聖書の出エジプト記23章、申命記16 章などを見ますと、イスラエルには三つの大きなお祭りがありました。その一つに取り入れの祭り(仮庵の祭り)があり、秋の収穫物を神さまにお捧げし、「神さま、こんなに多くの地の産物が取れました。ありがとうございました。」と感謝しました。これがもともとの感謝の日ですが、今日教会で守っている収穫感謝の日の起源は、今から約400年ほど前、日本では徳川家康の時代にさかのぼります。

1620年9月6日、イギリスから神を信じ、イエス・キリストを信じる人々102人(男78、女24)が新天地を求め、メイ・フラワー号という船に乗って、アメリカに向かいました。12月21日,アメリカの東海岸プリマスに上陸し、そこに丸太小屋を建てました。その冬の厳しい寒さと飢えのために半数近くの人が死んでしまいました。翌年、親切な先住民に助けられ、トウモロコシを作り、僅かでしたがその秋トウモロコシを収穫することができました。人々はこの収穫を心から喜び、3日間にわたって神さまへの感謝のお祭りをしました。

これが今日守っている収穫感謝の日の始まりです。アメリカ合衆国ではリンカーン大統領が1864年、11月第4木曜日を収穫感謝の日と定め、国の祝日として記念しています。

わたしたちはこの日を、日々の糧が与えられていることへの感謝と共に、今なお多くの飢餓の中に苦しんでいる世界各国の多くの人々を覚える日として、大切にしたいと思います。申命記14:22―27では、神さまに捧げられたものを隣人と共に分かち合うことの大切さが強調されています。わたしたちが収穫感謝の捧げものなどを、施設に入っておられる方々、ご病人やお年寄り、孤独な人々にお届けし、感謝と喜びを分かち合うことは意義あることです。

神さまと人々に心から感謝すること、ありがとうございますと言うこと、それが今のわたしたちに一番欠けています。感謝より不平のほうが多い日々です。ですから、日々の生活の中で、意識して感謝の気持ちを態度に表していくようにしたいものです。

来週からの保育実習の現場で実際にやってみてください。(チャプレン大西 修 主教)

ローズマリー

【マルコによる福音書4:30-32】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

神様の国はからし種のようなもの。土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作ることができるほど、大きな枝を張る。

わたしの小さな、からし種のような出来事を、今日はお話ししたいと思います。私は20代の時、自分の進路に悩み、苦しんでいました。ある時、ボランティア募集の広告を見て、近くにある福祉施設を訪問しました。

天気は薄曇りで、小雨が降っていました。広い敷地には物音もせず、静まり返っていました。私は帰ろうとしました。その時、

「こんにちは。どこから来たの。また来てね」

と声をかけてくれた方がいました。その方は知的なしょうがいをお持ちの方でした。手を差し出してくださるので、私も手を握り、「また来ます」と言いました。

帰宅後、「また来る」という約束をしてしまった…と思いました。約束を思い返し、もう一度その施設を訪れることになりました。そこで私は、施設を利用する子ども達や、大人のみなさんと、様々な出会いをし、スタッフとしてそこで働くようになりました。そこは聖公会の施設でしたので、わたしはチャペルに通うようになり、洗礼を受けました。

あの時の、手を差し出してくれた方との出会いがなかったら、私は今、ここにいません。出会いの不思議さを思います。

詩人・塔和子さんの詩に、「胸の泉に」という作品があります。

「人はかかわることからさまざまな思いを知る/子は親とかかわり/親は子とかかわることによって/恋も友情も/かかわることから始まって/かかわったが故に起こる/幸や不幸を/積み重ねて大きくなり/くり返すことで磨かれ/そして人は/人の間で思いを削り思いをふくらませ/生を綴る」

わたしは自分の胸の中に、施設や教会で出会った、たくさんの人達の面影があることを感じます。そしてそれらの人達が今も私を励まし、支えてくれていると、実感しています。

みなさんは今、子ども達にかかわり、共に生きるための準備をしています。これから磨かれていく、宝石の原石として、一生懸命に毎日を送っています。これからたくさんの人と出会い、たくさんの人と別れ、喜び、泣きながら生きていくことでしょう。それらすべての出会いは、みなさんの「胸の泉」を豊かにしてくれます。いつか、気付く時が、必ず来ます。「あの、からし種のような小さな出会いが、私を深く豊かにしてくれたのだ」と。

みなさんも自分の「胸の泉」に、たくさんの人の思いを集め、そして他の人の「胸の泉」に、たくさんのものを手渡して、心の広い、大きな人になってください。その木陰で鳥が巣を作り、休めるような、深い思いを持った人になってください。(大和孝明さん:中部教区センター職員)

【マルコによる福音書6.45-51】
6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

今日の聖書箇所は、有名な、そして不思議なお話です。

イエスの弟子たちが、夜、湖の真ん中で、手漕ぎ船に乗ったまま、嵐に襲われて激しい逆風の中で進めなくなってしまった。夜が明ける頃、イエスが水の上を歩いて近寄っていかれ、弟子たちの船に乗られると激しい嵐が収まった、というお話です。

そのときイエスは、幽霊が来たと思って怖がって叫んでいる弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけます。夜の湖で、しかも激しい逆風で進めなくなってもう沈むかもしれないという大ピンチの中で、いよいよ最期のときか、向こうから来るのはお化けか幽霊か、と思ったら、救いの主だったわけです。今日読んだ『マルコによる福音書』の記述はこれで終わっていますが、同じ記述がある『マタイによる福音書』では、そのあとでペトロが同じように水面を歩こうとして沈みかけて「信仰の薄い者よ」と言われてしまうという場面もあります。

激しい逆風は、私たちが生きていく中でも吹き荒れることがあります。なるべく避けたいことですが、真っ暗な湖の真ん中で、どちらが岸なのか方向もわからなくなって、吹き荒れる逆風に沈みそうになる、といった場面に似た状況が人生の中で訪れることがあるかもしれません。本当にそうなってしまったとき、それでも沈まないで何とか進んでいくために、誰かの助けが必要となるようなときがあるかもしれません。

ピンチのとき、今にも沈みそうなときに、あなたに手をさしのべてくれそうな人たちが、きっとまわりにいます。そんなとき、その人たちの心の言葉をよく聞いてください。中には、甘く優しい言葉で近寄ってくるけれども、あなたを助けるよりも自分の利益を求めてあなたを利用したり、あなたを陥れたりする人もいるかもしれません。一方で、怖そうな顔であなたに厳しい言葉を投げかけながら、ほんとうにあなたのことを助けたり励ましたりしてくれる人もいるかもしれません。

私にとって、大学時代からずっとお世話になってきた先生が、まさにそのような人でした。卒業論文の下書きを「こんなのでは全然ダメだ」と突っ返され、大学院を出ても仕事先が見つからないでいたら「大学で教えていないのか? それじゃダメだ」と怒り、それでも、ご自身の非常勤講師の職を譲ってくださった方です。そして、これ以上は続けられない、もうダメだ、と思ったときに、「投げ出さないで研究をしなさい」と叱って、やがて今の職場に呼んでくださいました。ほんとうに厳しくて怖い方でしたが、私を生かしてくださった方です。私にとって、一番怖い人が、一番、助けてくれた人でした。

沈みそうになり、折れそうになっている人の傍らに歩み寄って、その人を助けてくれる存在は、必ずあります。でも、それがいつも優しく親切な表情で近寄ってくるとはかぎらないので、気づかないこともあるでしょう。ですから、沈みそうなときには、よく耳を澄ませてください。あなたを叱ったり怒ったりしているように聞こえる声が、ほんとうは「安心しなさい。私だ。もう大丈夫だ」と手を差し伸べてくれる人の声だということが、あるのです。ウィリアム・ジェイムズは人生を一本の鎖にたとえて、こう言っています。

「一本の鎖は、その鎖のいちばん弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに一本の鎖なのだ。」(『宗教的経験の諸相』第六・七講「病める魂」)

一番弱っているとき、それでも何とか砕けないで自分自身を明日につないでいくようなぎりぎりの弱さが、その人のほんとうの強さです。そして、そういう強さは、その人の中からではなく、外から来ていることが多いように思います。あなたの人生の鎖の中で、ある輪が今にも砕けそうになったとき、必ず、あなたの人生という一本の鎖のなかの、そのもっとも弱い環をめがけて、嵐の中を歩いて助けにきてくれる存在があります。でも、それはときには怖そうな外見で、きつい言葉で、語りかけてくるかもしれません。ですから、心の耳でしっかり聞いてください。厳しい表情や怖そうな外見の裏側で「安心しなさい。私だ」と語りかけてくるようなそんな存在がきっといます。(村田)

【ヨハネによる福音書3:1-6】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

本日の礼拝の中で、一人の姉妹の洗礼堅信式が行われます。この式が柳城の礼拝の中で行われることは多分初めてのことと思います。これはとても素晴らしい出来事です。

ほとんどの皆さんは洗礼堅信式という言葉を初めて聞くし、勿論見たこともないでしょう。

ですから今日はしっかり見て、なるほどこういうことなのかという体験をしてください。

洗礼」とは神様の子どもとして新しく生まれるために行われるキリスト教の一番大切な式です。今までの自分本位な古い生き方に死んで、わたしは神様に生かされているのだという自覚のもとに、新しく生まれ変わらせていただくため、イエス様がお残してくださったものが洗礼です。洗礼には目に見える外のしるしとして「水」を使います。

「水」はものを洗い流します。汚れを落としてきれいにします。洗礼で頭から水を注がれることが、見えない心の中の醜いものを洗い流していただく神様の恵みのしるしとなります。そこに神様の見えない力(聖霊)が働き、罪が洗い清められ、古い自分は死に、新たに生まれ変わるのです。洗礼をバプテスマと言いますが、バプテスマとは水の中に浸して一度死ぬことを意味しています。ですからバプテスト教会ではその名の通り、全身水に浸かる形の洗礼が行われています。

洗礼は「入信の式」と言われ、イエス様を信ずる教会(共同体)のメンバー、神の家族になる式です。私たちは家に入る時、土足では入りません。教会に入る時、入口で心をきれいにしてから入るために、洗礼盤は一番後ろに置かれており、そこで洗礼を受けます。

洗礼を受けるとき先ず「教名」(洗礼名、クリスチャンネーム)を付けていただきます。この名前は、この世でも、死んだのちにも神の国(天国)で通用する名前です。今、私たちが持っている名前はこの世での名前(俗名)で、死ねばなくなる名前です。

そして「教父母」(ゴッドファーザー、ゴッドマザー)が与えられます。成人の場合、男女一人ずつの教父母です。教父母は洗礼を受けた人の信仰上の両親となり、その人の相談役になったり、良きアドバイザーにもなります。

洗礼を受ける人は「捨てること」「信じること」「守ること」を、日々の生活の目標にします。「捨てること」とは、罪の虜であった自分を捨てること、新しい自分になることです。「信じること」とは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストの父なる神様、そして今も歴史を通して働いておられる聖霊なる神様を信じることです。さらにすべての人々を信じることです。

「守ること」とは、モーセの十戒、イエス・キリストの愛のおきて、神を愛すること、自分を愛するように、隣人を愛することです。これらを自力でクリアーすることはできません。ですから、この微力な私を支え、励まして下さる神様の力に信頼していくとき、これを達成できるのです。

堅信式」は洗礼を受けた人が、主教様に頭に手を置いていただき、聖霊なる神様の力をいただき、それぞれ与えられた場所へと進んでいけるよう、励まし祈っていただく式です。

これらのことを思い浮かべながら、今日の礼拝に出席してくださるようお願いいたします。(チャプレン大西 修 主教)

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