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【詩編19:2】
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」

レイチェル・カーソン(アメリカの海洋生物学者、1907~1964年、56歳で死去)のわたしたちへの贈り物は、「センス・オブ・ワンダー」(彼女の遺作)です。1965年に出版され、最初に邦訳されたのは1991年、死後25年以上たってからでしたが評判を呼び、若い母親や幼稚園、保育園、小学校の先生たちにも注目され、50年以上たった現在も必読書として読み継がれている名著です。

「センス・オブ・ワンダー」とは、すべての子どもたちに備わっている天性で、自然界の美しいもの、未知で神秘的で不思議なものを、驚きの目をもって見つめる感性のことです。これはわたしたち大人がいつの間にか、身に着けてしまった知識や経験、常識や習慣などの既定の基準にとらわれない、物事の本質を見極める生命力の原点とも言えます。

子どもたちが生まれながらに持っている素晴らしい感性の力を、いつも新鮮に保ち続けるためには「わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かち合ってくれる大人が、少なくともひとり、そばにいる必要があります。」と彼女は言っています。

残念なことに、わたしたちの周囲を見回すとき、日に日に自然環境が破壊され、環境汚染が進んでいます。自然界のありのままの姿が人間の誇る科学の力によって破壊され、修復できない状況にまで至っています。レイチェルは「センス・オブ・ワンダー」を書いた数年前に「沈黙の春」を書きましたが、その中で、すでにこのことが起こることを予測し、警告を発したことにより注目されました。

子どもとともに大人がまず、自然をじっくり見つめることから始める必要があります。子どもが自然界に生きる大小の動植物に驚きの目を見張り、それに触れて歓声を上げ、喜びを全身で表現すること、また夜空に輝く月や星を見て神秘の世界に没入することなどを、大人のわたしたちもいっしょになって追体験することにより、これから新たに保育者として子どもとかかわりを持ち、触れ合っていく基本的な準備ができるのではないでしょうか。大人が保育者が、子どもに優しく寄り添うことは、子どもに安らぎと安心感と信頼感を与え、心豊かな成長を助け、出会う人々との優しい関わりを豊かなものにしていきます。

このように他の命に対する率直で優しい子どもの感性こそ、人と人、国と国の関わりだけでなく、自然界のあらゆる命の全地球的な調和のとれた平和を作り出す礎になりうるとレイチェルは信じていました。

個性豊かでいつもキラキラ輝いている感性を持った子どもたちと向き合う保育者、保護者の働きがいかに大切であるかを思わされます。自然の中に身を置いて、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)のみ言葉を通して、「人間を超えた存在」を感じとることができれば、最高です。 (チャプレン 主教 大西 修)

ドクダミ

子どもの頃、学習図鑑を見ながら「宇宙って、本当に不思議だなあ」と思いました。何をどう思ったのか全然具体的ではないのですが、とにかく「すっごい」と感じていました。そんな自然界の驚異的な仕組みを、科学者なら数理に、神学者は神に求めるのが一般的でしょう。でも、たとえばアイザック・ニュートンあたりでは「神が創られた規則正しい世の仕組みを解明したい」と考えていたようですので、まさに「二刀流」です。

「センス オヴ ワンダー」を唱えたレイチェル・カーソンは自然界をどう捉えていたのでしょうか。子ども達が生まれながらに持っている感性を大切にした彼女の心の内を知りたいですね。

礼拝、お待ちしています!

●説教のテーマ:センス オブ ワンダー
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:詩編19:2
19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。

●日時:5月30日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・6/6(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 説教:大西チャプレン
★礼拝後に奨励奨学生表彰式と新生病院リトリート報告会を開催します。
・6/13(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:勝間田明子先生

今日はマルコ通読十五回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコによる福音書8:33~35)

イエスがお伝えになられた十字架への道のりに対し、ぺトロは情に流された言葉を返してしまいます。イエスはそんなペトロの姿を、激しく戒められたのでした。

私はこの記事をとおして、イエスの十字架の意味、またその十字架を背負い生きることの覚悟を改めて考える機会をいただきました。

誰しも「まさか私がイエスと同じ痛みを背負って生きて行くことは難しいし、到底できない…」と普通は考えるのではないしょうか。

今回のバイブルタイムでは、「私たちがイエスと同じ痛みを負うことは難しいかもしれない。しかしイエスの御姿を理解することで、少しでも十字架に近づきたいと願うことは出来るのではないか。」と私は感じました。

そして進歩し続ける努力をして行くことで、限りがある「わたし」を捨てることが出来るのではないかとも思いました。

イエスは常に私たちに十字架を背負い生きることの覚悟を問われています。
「私に従いなさい。」
そうイエスは、ただ一つの決然とした真実を諭されます。

それは理屈を越えた確信であると感じます。「わたし」を捨て、イエスにただひたすら頼り生きて行くその喜びは、私の心を子どものように澄まし、安らかにしてくれます。

決然とした真実を与えていただいた私を、いかにこの世に差し出し生きて行くのか…。
福音書の御言葉をとおし、学びの日々は続いていきます。


ローズマリーの開花

【マタイによる福音書6:7-13】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

「主の祈り」はイエスさまが教えてくださった祈りで、一番基本的で大切な祈りです。マタイによる福音書6章9節―13節とルカによる福音書11章2節―4節に記されています。それはイエスさまの言われたこと、なさったことの要約でもあります。

「主の祈り」は1,900年前から今日まで、教会の礼拝の中で絶えず祈り続けられてきました。わたしたち柳城の水曜日の礼拝でもいつも用いられています。

有名な神学者マルティン・ルターはとても大切な「主の祈り」が非常に粗末に軽く扱われていることを憂い、「主の祈りこそ教会史上、最大の殉教者である」と言いました。

「主の祈り」の内容は(1)呼びかけ~呼びかける相手がはっきりしている。(2)神(あなた)についての祈り~前半の三つ(3)人間(わたしたち)についての祈り~後半の三つ から成り立っています。

(1)    祈りは神さまとの対話です。ですから、必ず対話の相手である神さまに、天におられるわたしたちの父よ、と呼びかけます。相手が分からなくては呼びかけられません。その相手(神さま)を本当に信じていなければ、祈りにはなりません。

(2)    そして、信じている神さまの偉大な力と素晴らしさをすべての人がほめたたえ、賛美し、あなたによる正義と平和と愛がこの地上にも実現しますようにと祈ります。

(3)    最後に、わたしたちについての祈りがあります。

日本人の多くは、神さまへの祈願(お願い)=祈りと考えています。祈願=祈りではなく、祈願は祈りの一部です。「主の祈り」の大切なところは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」であることです。全人類のための祈りと言ってもいいと思います。

当たり前のこととして毎日3度の食事をとっているわたしたちが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るのはなぜでしょうか。それは現在でも世界で1日に25,000人もの餓死する人がいるからにほかなりません。その人たちのことも覚えて祈るのです。

「わたしの罪」ではなく「わたしたちの罪をおゆるしてください。わたしたちも人をゆるします」と祈ります。わたしたちは神さまの思いをしばしば裏切りますが、わたしたちを愛しておられる神さまは、そんなわたしたちをゆるしてくださいます。ゆるされた喜びを知った人は、他者をゆるすことができる人へと変えられていきます。

誘惑とは、わたしたちを常に神さまの思いから引き離し、自己中心的な生き方へと引き寄せる力、「サタン」「悪魔」の働きのことです。現代のように物質的に豊かな社会では、物質的な欲望への刺激や、性的な誘惑などが巨大化しています。このような中でわたしたちは日々、自己中心的な決断をし、隣人を無視、黙殺し、苦しみ、悲しみ、悩む人々を冷たく切り離しています。そのように悪におちいりやすく弱いわたしたちを支え励ましてくださいと願い、祈ります。

「アーメン」は「そうです、そのとおりです、本当に」の意味です。 (チャプレン大西 修)

「主の祈り」はイエス・キリストが教えて下さった大切な祈祷文で、キリスト教のほとんどの教派で使われています。福音書に書かれているから当然といえば当然ですが・・・。

この祈りの中で、私は「わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください」という部分が好きです。清らかな信仰にこだわりつつも、いつも庶民の側に立って行動されたイエス・キリストの温かい心が感じられるからです。

主の祈り、皆さんはどのように感じますか?
ご参加ください。お待ちしています。

●説教のテーマ:祈ること~「主のいのり」に学ぶ
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書6:7-13
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

●日時:5月23日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・5/30(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
・6/6(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 説教:大西チャプレン
★礼拝後に奨励奨学生表彰式と新生病院リトリート報告会を開催します。

【ルカによる福音書 5:27-32】
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

「スマホ廃人」(石川結貴著、文春新書)という本の中で「ママのスマホになりたい」(のぶみ作WAVE出版)という絵本が紹介されています。シンガポールの少年が書いた作文をもとにした絵本です。スマホばかり見ているママに自分を見てほしいと願う物語。自分がスマホになれば、ママに見てもらえる。だからママのスマホになりたいという切ない願いは、現代の日本の子どもたちは勿論のこと、小・中・高校生をはじめ、大人にも通じるものがあります。

SNSは現代のわたしたちにとってはなくてはならないものになりました。文明の利器としてとても便利で役立つことは事実です。スマホなどは、電車やバス、新幹線に乗ると大半の人が手にして操作しています。手にしていないと不安になるという一種のスマホ依存症になっているとも言えます。わたしも最近少しその傾向があるようです。

スマホの過度な使用は次のような多くのリスクがあると言われています。①睡眠時間不足 ②体力が落ちる ③学力低下 ④視力減退 ⑤脳機能へのダメージ ⑥コミュニケーション能力の低下。そして1日3時間使用する人は、何と1年365日のうち45 日間(1ケ月半)をスマホと過ごしていることになります。使用者の約3分の1がこれに当たります。

SNSはいろいろなニュースや情報を知ったり、連絡事項を一斉に伝達したり、音楽を聴いたり、ゲームを一人でしたりするために、大いに役立ちます。

けれども、このような状況の中で、わたしたちが一番気をつけなければならないことは、SNSでは人の心や気持ちや思いを十分に伝えることが困難だということです。機械を通して伝えることのできる事柄には限界があります。事務的な事柄であれば、十分伝えられるでしょう。心の内にある深い思いは、電子媒体では伝えられません。メールでどんな装飾文字や記号、そして絵を使って送信したとしても、それによって人の心の思いは十分に伝わらないでしょう。

もう少し進んだ方法として、ラインの動画と音声によって話せば、思いも以前よりは伝わるでしょうが、何といっても心の思いが確かに相手に伝わる最善の方法は、直接出会って、相手の表情を見ながら、対話することに勝るものはありません。

今日読んだルカによる福音書5章27節以下では、徴税人レビがイエスさまに声をかけられ、従って行った話が記されています。勿論、その時代SNSなどありませんでしたが、イエスさまはレビに直接出会い、彼の顔を見ながら愛をもって声をかけられました。レビはその声に応え、従って行き、勇気をもって新しい行動を起こしました。イエスさまの愛ある行動がいかに大切であったか、そして、レビには想像もしなかったような大きな喜びの人生が始まったことを教えています。

わたしたちは日々の生活の中でいつも出会う友人・知人に対して、SNSに頼らず、直接向き合い、声をかけ、心を込めて対話することの大切さを再認識しましょう。(チャプレン主教 大西 修)

ニーレンベルギア

今日はマルコ通読十四回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。(マルコによる福音書8:17~18)

舟の中で、パンを持ってこなかったことを論じ続けていた弟子たちをイエスは厳しく戒められました。

「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(8:15)

イエスは慎重に良いパン種(=信仰)を選び続けることの大切さを諭されました。しかし弟子たちはこの言葉の意味が理解できず、目の前の状況に捕らわれ続けるのでした。

その様子をご覧になり、イエスは
「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。(8:17)」と弟子たちに向かって再度投げかけられています。

これらイエスの御言葉は、物に固執するあまり真理や心の問題に関心が薄れがちな私たちへの警告ではないでしょうか。

私は今回の御言葉をとおし学んだ教えを再び刻み、私たちに与えられている道を、自身で選び取る真実を、日々主に感謝して過ごしていきたいと思います。


ラベンダーの収穫

1862年に『レ・ミゼラブル』を出版した直後のヴィクトル・ユーゴーは、旅行先の海外から出版社に宛てて手紙を送りました。それは便箋の真ん中に「?」とだけ書かれていたそうです。その返事は、というと、同じく便箋の真ん中に「!」とだけ書かれていました。もちろん、「本の売れ行きはどうですか?」「順調です!」という会話が成立したのです。

さて、多くの人にとって、日常欠かせないツールであるSNS(Social Networking Service)。

確かに、気心の知れた間柄なら、数文字打つだけで、場合によっては絵だけで気持ちまで伝わってしまうから大したものです。大切な情報を遠隔地までリアルタイムで届けられるのも嬉しいですね。何かとせわしい現代人にはピッタリなコミュニケーションツールには違いありません。

でも、しかし・・・。

大学礼拝にご参加ください。お待ちしています。

●説教のテーマ:「SNS(ラインやツイッターなど)では伝えられないもの」
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書 5:27-32
5:27 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。
5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。
5:29 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。
5:30 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」
5:31 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。
5:32 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

●日時:5月16日(水)
14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:通常礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・5/23(水)通常礼拝(チャペル)14:50~(前半のみ実施) 説教:大西チャプレン
・5/30(水)通常礼拝(チャペル)14:50~(前半のみ実施) 説教:大西チャプレン

 

年に一度のカレーサービスの日(笑)

キリスト教センターのスタッフと学生さんが一生懸命作ってくれましたよ(^o^)/ 感謝

お味のほうは、お子様大好きカレーって感じで、ドンドン食べれちゃう。サラダもしっかり付いていて嬉しかったなあ~(^^♪

もちろん、やることはキチンとやりました。学生宗教委員としての心構えなどを皆でチェック! 学生の皆さん、今年もよろしくお願いします。

食事会が大好きだったイエス・キリストの席も設けておくべきでしたか。(加藤)

人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(マタイによる福音書11:19)

 

今日はマルコ通読十三回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…

ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。(マルコによる福音書8:11~13)

ファリサイ派の人々は、またしてもイエスを試そうと議論をしかけます。そんな姿に深く嘆かれながらもイエスは「はっきり言っておく」(8:12)と宣言され、強く「しるし」について説かれました。

彼らの言う「しるし」とは、人を畏れさせるほどの迫力を持った、目に見える奇跡のことでしょうが、イエスが語ろうとされた「しるし」は、信仰によってしか捉えることができない恵み、すなわち喜びではないでしょうか。

たとえば、場合によっては美しい花一輪にだけでも、人は神の臨在を感じることができます。信仰の曇ったファリサイ派の人々には、理解し難い世界でしょうが…。

安易にしるしを求めるファリサイ派の人々に対するイエスの姿は冷静で鋭く、まさしく人間・イエスの崇高な姿であると思うのです。

一方、その光に反し、彼らは益々イエスの存在に脅威を持つようになっていきます。

次回も現代の私たちに、お与えになられるイエスのお姿や御言葉から、様々な「しるし」を「喜び」としていきます。

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