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キリストの降誕劇を「ページェント」と呼んでいます。今年も授業科目「キリスト教保育」受講学生22名と、聖歌隊(聖歌隊サークルと有志の皆さんによる)18名、合計40名によるページェントが行われました。なぜキリスト教がクリスマスを祝うのか、その意義を学ぶために、本学で恒例となっています。

これらの本格的な練習が始まったのは、12月初旬だったため、学生たちは本番までのわずか2週間で形にしなくてはなりませんでした。当初は、台本を片手に学生たちは台詞を読むのに精一杯でした。役作りや動きもぎこちなく、科目担当者の私は「これで大丈夫かな?」という不安もぬぐえませんでした。しかし、本番3~4日前のラストスパートで、学生たちはみるみると上達し、劇、聖歌隊ともに目を見張るほどの成長を遂げていきました。これは昼休みや放課後も、遅くまで練習を重ねてきた成果だったと思います。

学内では、様々な行事において「柳城生は本番に強い」と語られています。今年の学生たちは本番だけでなく、練習の過程においても真摯に取り組んでいた皆さんを誇りに思い、心より感謝しています。(智世)

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハネによる福音書15:7)

 


2015年のクリスマス礼拝が、12月16日、本学の体育館で行われました。

全体の流れは昨年同様でしたが、毎年、あらたな気持ちで式に臨むべく、名古屋柳城短期大学の宗教委員会(キリスト教センターと同メンバーで構成される組織)が企画運営にそうとうの時間をかけました。そして、全教職員や関係する学生さんの協力のもと、礼拝を滞りなく主に捧げることができたと思います。質素な中にも手作り感にあふれた本学らしい内容だったと、担当の一人として、ホンのちょっとだけ自負させて下さい。

さて、この礼拝の中で行われる毎年恒例の演奏が、ここで紹介するものです。

ハンドベルクワイアは浅倉ゼミに所属する保育科2年生の皆さんで、一方の手話コーラスは、介護福祉専攻科に所属する皆さんで、それぞれ編成されています。どちらも、うまく統一の取れた演奏で、しなやかさの中にも力強さが感じられたと思います。大勢の前で演奏するのは、けっこうプレッシャーになるかとは思いますが、多くの学生さんが、こういうチャンスを積極的に活用して、自分自身を向上させるという意識を養って欲しいですね。

素晴らしい演奏を主に捧げて、クリスマス礼拝に深みを増してくれた皆さんに、心から拍手を送りたいです。(加藤)

イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」(ヨハネによる福音書4:21)

 

 

 

 

今年のクリスマスプレゼントは、名古屋柳城短期大学のロゴマーク入りメモクリップ&マグネットです。

昨年に引き続き、地域で頑張っている皆さんを応援する目的で、愛知県セルプセンターからのご紹介を得て、名古屋市守山区にある社会福祉法人あさひ会に製作をお願いしました。

訪問させていただいた際に、製作の過程をつぶさに拝見できました。レーザー光線を使って木材を切り出したり、プリンターを使って木材に印刷をしたりと、私にとっては初めて見る光景ばかりだったので、思い切り感動して、現場の「空気」を白けさせたかもしれません。ごめんなさい。

また、施設長さんのお話から、あさひ会の皆さんが地域の方々から愛されていることを知りました。あさひ会がその規模を徐々に拡大できた背景にある経営哲学みたいなものに、本学はそれこそ「思い切り感動」する必要があるかもしれません。(加藤)

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」 (マタイによる福音書10:16)

 

クリスマスは「イエス・キリストの誕生をお祝いする日」のことで、クリスチャンにとっては喜び極まる時であり、その歓喜がノンクリスチャンにも伝わって、日本でも今や国民的なイベントとして定着しているところです。神のご計画の素晴らしさ!

本学のクリスマスカードの表紙を飾る写真は、この「喜び」をテーマに、学内から公募した「今年の一枚」を採用しています。イエス・キリストご降誕の喜びが12/25だけはでなく、1年中続くといいなあという思いが、そこには込められています。

今年のカードに記載された説明文を、以下に掲載しておきます。

写真は、10月14日の大学礼拝後の様子です。AHIアジア保健研修所からパキスタン出身のゲストをお招きして、礼拝中にメッセージを頂きました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)という聖書の言葉に導かれた現地での豊かな活動が紹介され、本学にとって大きな恵みとなりました。主に感謝です。詳しくはウェブで。「柳城 AHI」で検索してみて下さい。(加藤)

 

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネによる福音書 1:1-5、14)

先ほどのクリスマスページェントの登場人物の中で、羊飼いらは、貧しい者も含めた全人類がイエスによって救われる事を、一方、3人の博士らは、救い主イエスの誕生が疑いもない事実であった事を、それぞれ表しています。

神の前にあっては、この世の権威とか権力は打ち砕かれるものですが、イエス誕生の当時、ユダヤの人々はローマの支配下で苦しめられていました。救い主の誕生が強く期待されていたゆえんです。神はそれに応えてイエスをこの世に送って下さいました。でも、イエスの登場によってユダヤの社会が劇的に良くなったわけではなく、それ以後、2000年の長きに渡って、十字架上のイエスを仰ぎ見ながら人類は社会を徐々に良い方向へと変えてきたのです。今の世界はまだまだ発展途上ですが、私たちはこの世の不幸に関心を持って、全人類の平和の実現に向けて努力を重ねていきたいものです。先ずは身近な課題から。そして全世界的な視野へと広げていきましょう。

「全世界」と言われてもなかなかピンと来ないかもしれません。その点、宇宙から地球を見た人々はどうでしょう。私は以前、『宇宙からの帰還』という映画を見て、この全世界を少しだけ実感した事があります。真っ暗な宇宙に浮かぶ美しい青い地球が大きなスクリーンに映し出されます。そこに全ての自然界が息づいている。まさに奇跡。地球を見た宇宙飛行士の中から宣教師が誕生したという、その理由が分かるような気がしました。貴重な存在である地球の中で、すべての人々が平和に助け合いながら暮らしていけたらと願います。宗教間の対立などという事がよく言われますが、本当でしょうか。すべての宗教は愛と平和を求める中で一致できるはずなのに、人間の勝手な解釈で、それが歪められてしまっているのではないでしょうか。

神の真意や、イエスがこの世に誕生した意味を考える、そんなクリスマスにしたいものです。
(田中チャプレン)

 

今年も子どもたちの歌声が学内に響きました。附属柳城幼稚園による恒例のキャロリングとトーンチャイムの演奏です。

今回の舞台は本学の体育館です。大学礼拝の直後に、保護者の皆さんも見守る中、園児さんらに入場してもらいました。30名の年長組の皆さんたちです。体育館が広過ぎたせいか、リハーサルの時から顔がやや引きつった感じの子もいましたが、本番では、元気な歌声と、トーンチャイムの一生懸命な響きが私たちの気持ちを潤してくれました。胸に十字架のついた衣装をまとった子どもたちは、ホント、「かわいい」の一言につきます。練習も大変だったろうなと思うと、引率の先生方にも感謝しなければなりません。毎年、名古屋柳城短期大学のためにありがとうございます。

ちなみに、今年の曲目は、「かみさまのおやくそく」、「かいばおけにねむる」(以上、キャロル)と、「もろびととこぞりて」(トーンチャイム)でした。子ども用の讃美歌は、そのシンプルな歌詞とメロディーゆえの価値が光ります。

むかしユダヤのひとびとは
かみさまからのおやくそく
とおといかたのおうまれを
うれしくまっておりました
(「かみさまのおやくそく」1番)

年を重ねても、子どもの歌に親しみたいですね。ここに載せる聖書の言葉は次のものしか思い浮かびません。(加藤)

イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 (マタイ19:14)

12/4付の記事の3本目です。

この日の大きなイベントは、16:45からXmasツリーの点灯式と18:10からはXmasミニコンサートの2本でしたが、実は、本学が誇るチーム・パティシエの皆さんは、午前中から、人知れず(?)東北の被災地へ届けるためのケーキ作りに取り組んでいました。

時間の都合がうまくついた学生さんは、この日、ケーキ作りの合間を縫って点灯式とコンサートに出席して、さらにそれから調理実習室の後片付けをして帰路につきました。遅くまで、本当にお疲れ様でした。キリスト教センターの諸活動へいつも積極的に関わっていただき感謝感激です。

出来上がったケーキは写真にある「リンゴのパウンドケーキ」です。ふっくらとして、おいしそうでしょ!

今日の働きを無事に終えた学生さん、ならびに付き添った教員の皆さんに、主の安らぎと祝福とがありますように。(加藤)

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(マタイによる福音書6:34)(ちょっと引用が大げさ過ぎました)

Xmasツリーの点灯式の後、18:20からチャペルでXmasミニコンサートを開きました。

本学の同窓会のご協力を得て、他大学から5名の演奏者をお招きできました。皆さん、音楽の専門教育を受けておられる方ばかりで、そのみごとな演奏に、本学の音楽担当教員も絶賛されていました。ステージの出で立ちも優雅でしたし、仮面やXmas衣装の小道具がスパイス的に効いていました(掲載した写真の出来栄えが悪くてすみません)。

演奏後の感想を出演者に尋ねたところ、一つはチャペルの雰囲気、もう一つは聴衆の大多数である本学の学生さんがアットホームであった点を挙げながら「本当に心地よかった」というお返事をいただきました。

主催者側からは、次の聖句によるXmasメッセージをエンディングに付け加えさせていただきました。この箇所はたいへん重要で、聖書の中心であると考える人も多い所です。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

わたしたちが信じる/信じないに関わらず、神は全ての人々を愛しておられます。その徴として神はイエス・キリストをこの世に送って下さいました。空気みたいな存在である(つまり、生きるに不可欠な割には意識されにくい)この愛に気付くことができるような、そんな本当のクリスマスを迎えたいものですね。

今宵のコンサートも、まさしく神の愛によるプレゼントでした。感謝です。(加藤)

 

 

16:45から玄関ホールにてXmasツリーの点灯式を行いました。

祈りと聖歌が神に捧げられました。用いられた聖書は「ヨハネによる福音書」の1章1節からです。

1:1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。

最初の1節は、ご存知の方も多いのではないでしょうか。この「言」はギリシャ語の「ロゴス」を訳したもので「宇宙の摂理」といった内容です。著者のヨハネは、このロゴスを「神」、「命」、「光」、「イエス・キリスト」といった言葉に置き換えながらイエス・キリストのご生涯とその存在意味を私たちに伝えようと一生懸命でした。目に見えない世界の話を伝えるのですから、文章が詩的になって分かりにくくなるのは仕方がないことでしょうね。

クリスマスシーズン中、あちこちで見かけるロウソクやLEDのイルミネーションは、混沌とした世間の暗闇をさまよう私たちを真実へと導く、イエス・キリストからの道しるべの象徴です。その光を灯す意味を、今一度心に留めた今日の点灯式でした。主に感謝です。(加藤)

 

 

【マタイによる福音書 1:20-23】
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

今の時期、キリスト教の暦ではアドベント(降臨節)を迎えています。これは、12月25日のクリスマスまでに心の準備をするという期間で、古くは、洗礼の準備に当てていたといいます。どちらにしても、自分を振り返って神の事を考える期間です。

クリスマスといえばプレゼントを連想しますが、信仰的にいうと、プレゼントは「幸福を互いに分かち合う」手段です。

フィリピンは長い間スペインの植民地であったこともあり、キリスト教の精神が日常に浸透していますが、クリスマスシーズンになると、たとえば、信号待ちの車に群がる貧しい人々に、運転手がお金を与えるシーンをよく見かけるようになります。ある時など、信号で止まっている最中のジープニー(乗合バス)に、目の見えない子どもが突然乗せられ、お金を集めた後、その親と共に去っていく場面に出くわしたこともありました。

「分かち合い」は「互いに愛し合う」行為ともいえます。この言葉が聖書には何度も登場します。私たちも分かち合いに心がけ、特にこの時期は近くの人だけではなく、会ったことも見たこともない人に対しても「クリスマス献金」という形で助け合いの気持ちを表したいものです。

人を愛し、互いに分かち合うクリスマスを! (チャプレン)

ガーデンシクラメン

 

 

 

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