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子どもの頃の人生(?)のバイブルは、ちばてつやの漫画『ハリスの旋風(かぜ)』でした(笑)。今の私のバイブルは、いちおう聖書、ですが、聖書を英訳するとバイブル、正確には、定冠詞のザを付けてザ・バイブルとなりますので、「人生のバイブルはザ・バイブルだ」という言い方も可能です。ややこしくなりましたが、ギネス認定「世界一売れている本」である聖書の基本的なお話が聞ける次回の礼拝に、ぜひご参加下さい。心よりお待ちしています♥

●説教のテーマ:聖書ってどんな本?
●説教者:大西 修チャプレン
●聖書箇所:テモテへの手紙二 3:15-16
3:15 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
3:16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

●日付:5月31日(水) 13:10~13:40 対象:保育科1年生・専攻科学生・教職員
(保育科2年生は実習中)
●礼拝形態:通常礼拝
●場所:チャペル

○礼拝予定
・6/7 13:10~合同礼拝(体育館)
礼拝後  奨励奨学生表彰式 奉仕活動(学生生活委員会企画)
・6/14 通常礼拝(チャペル)
13:10~1年生、専攻科 14:00~2年生

 

今日の礼拝では、本学同窓会の企画として、「劇団うりんこ」による観劇会が行われました。同窓会長さんの「柳城生には、本物に触れてほしい」という願いのもと、毎年このようなお楽しみの企画があります。

そこで今日は、まず最初に短い礼拝と讃美を捧げた後、お待ちかねの観劇会となりました。演目は『ともだちや』。主人公のキツネは、相手(動物)から頼まれると、その動物と友達になります。値段は1時間100円。

依頼主の動物も、クマ、オオカミ・・・と個性の強い者ばかり。でも、途中でオオカミから、「本当の友達からお金をとるの?」と言われ、キツネは言葉に詰まります。

この話から、学生たちも自分のことに当てはめて思い巡らすことがあったのではないでしょうか。キツネを独り占めしようとするテンの姿に、場内からは「信じられなーい」という声も上がっていました。

また、「あんなに大きな声が出るの?」「歌が上手ね。」「一人で何役もこなしているよ。」「大道具や衣装も凝っている。」という学生からのつぶやきも聞こえ、出演者の演技力や表現力にも圧倒されたひとときでした。

現在、2年生が教育実習中のため、今日は1年生と専攻科学生を対象にしました。次回は6月21日に、2年生が同じ演目を観ることができますよ。お楽しみに。(柴田)

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。【ヨハネによる福音書15:13】

 

【ヨハネによる福音書3章1-4節】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

リクリエーション、皆さんがよく「レク」と呼んでいる言葉ですが、意味としては、楽しみとか娯楽というイメージです。「クリエイト」、作るという言葉に、もう一度という意味の「リ」がくっついたもので、本来の意味は再創造となります。

神によって創造された人間は堕落して罪を犯した。そんな不幸な人間をリクリエイトして変えてくれるのがイエス様です。人はリクリエイトされると気持ちも新しくなりますから、そういう意味では、「再創造」の意味としてのリクリエーションと「楽しみ」という意味としてのリクリエーションとは深いつながりがあるわけです。

では、どうしたら人は変わることができるのでしょう。今日の聖書に登場するニコデモという人。この人は立派な議員さんですが、どうしたら幸せになれるのかとイエス様に質問をするのです。そうしたら、もう一度産まれなさいと言われて困り果てます。えっ? もう一度母親のおなかに戻るのですか? でも、そういう意味ではなかったのです。

皆さんも同じです。お母さんのおなかに入らなくても生まれ変わることができます。その方法は、これかもお話の中でお伝えしていくつもりですが、どうぞ皆さんも、この名古屋柳城短期大学で探し出してみて下さい。(チャプレン大西 修 主教)

ハナニラ

ヒマワリの命はしっかりと受け継がれようとしています。

今日、その命が中庭の花壇に植えつけられました。5/2に種蒔きされた苗です。苗の状態も良く、神のお守りさえあればスクスクと成長することでしょう。

被災地に思いを寄せながら、大きく花開くヒマワリに期待したいです。

To be continued.(加藤)

それ(神の国)は、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」【ルカによる福音書13:19】

苗が整ってきました!

大きいポットが被災地からのヒマワリで、小さい方は園芸サークルが扱うミニヒマワリです。こうやって並べてみると立派に見えます。園芸サークル・マーガレットの皆さんはここでも「カワイイー」です。途中で肥料を切らしたので、双葉が黄色くなったものがありますが・・・。

植え付けの日が来るのが楽しみです。

To be continued.(加藤)

5月24日(水)の大学礼拝のご案内です。

同窓会からのプレゼント企画が礼拝後に催されます。
今年は劇団「うりんこ」観劇会です。2年前にも同じ同窓会企画でたっぷりと楽しませていただきました。
学生の皆さんに豊かな感受性と想像力を持って欲しいとの願いから企画されたものです。
さて、今年の劇では何が飛び出すか、楽しみですね。ご期待ください!

一方、説教の方ですが、よく読むと「クリエーション」とは違いますね。意味的には、いわゆる「レクレーション」と同じでしょうか? 何だかこんがらがってきましたが、re・creation と英語で考えた方がいいのかも。何が飛び出すか、こちらも楽しみですね。

●説教題:「リクリエーション」
●説教者:大西 修チャプレン
●聖書朗読箇所:ヨハネによる福音書3章1-4節
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

●礼拝形態:合同礼拝 13:10~14:40  1年生・専攻科対象
●場所:体育館
●企画:同窓会による観劇会 ( 劇団うりんこ『ともだちや』 )

○礼拝予定
・5/31(水) 通常礼拝(チャペル) 1年生、専攻科対象
・6/7(水)   合同礼拝(体育館) 礼拝後、奨励奨学生表彰式と奉仕活動

 

チャペルで賛美歌を楽しく歌おうというこの企画。2013年7月29日から始まって、もうすぐまる4年を迎えます。

お昼休み中の12:45から13:00までの15分間だけですが、5曲程度は歌えますので、結構、主への尊い賛美のひと時にはなるし、キリスト教主義の名古屋柳城短大に相応しい企画かなと思って、ほぼ毎日、楽しく続けてきました。

ポスターまで掲示して学生さんに声をかけては来ましたが、ほとんど担当の私一人だけで守ってきたのが実情です。でも、ある有名な巡回伝道者の「教会を立ち上げた最初の3年間、訪れる人は誰一人いなかった」という体験談を胸に、「いつかは…」と期待をしながら続けてきました。

それが今年度に入り、あることがきっかけで、参加してくれる学生さんが出てくるようになりました。その経緯は、いずれご報告しますが、とにかく、主のお恵みを感じずにはおれない今日この頃です。本当に主に感謝です。もちろん、この企画をお認めくださったキリスト教センターや事務組織の皆さんにも心から感謝します。ありがとうございました。(加藤)

 

 

 

 

 

 

今日は大学礼拝の日ですので、賛美歌タイムはチャペルの脇でストリートライブ風にやってみました(いつもは、チャペルの受付付近で丸くなってやっています)。保育科2年の皆さんが中心になって参加してくれたおかげで、結構盛り上がりました。「賛美で盛り上がる」という表現は不謹慎かもしれませんが、分かりやすい歌詞が意外に皆の心に届いているかもしれません。

そう期待しつつ、学生さんと仲良く続けていきたいなあと思っています。もちろん、教職員の皆さんもご参加ください。お待ちしています。(加藤)

 

【ヨハネによる福音書14章1-6節】
14:1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
14:5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

わたしたちは「道」という言葉をよく使います。「道路」という意味で使う場合は舗装道路、悪路、でこぼこ道、平らな道、坂道、上り道、曲りくねった道などと道の状態を表す言葉として使います。また、地下鉄の御器所から柳城への道、富士山の頂上への道といったように、どこどこへの道として、目的地を示す場合にも道という言葉を使います。そのほかには、道そのものが、あるものごとの本質を表す場合にも使います。武道(柔道、剣道など)、芸道(茶道、華道、書道、歌舞伎、能楽)などのように、武術、芸術の技能、技術を体系化したもの(剣の道、茶の道など)によく使われます。極道という言葉はヤグザ社会に使われる言葉になっています(極道の妻など~ゴクツマ)が、本来は道を極めることが道理を極めること、すなわち極道ですから、これはすごいことなのです。

さて、イエス様は「わたしは道である」と言われました。道そのものがイエス様なのです。わたしたちはたとえ御器所から柳城への道を尋ねて教えてもらったとしても、初めて来る時には多分すんなりとは来られなかったのではないでしょうか。行く場所を聞いていても、その場所の近くにいたとしても分からなかったこと、迷ってしまったという経験はありませんか。そんなわたしたちにとってイエス様はわたしたちといつも一緒にいてくださるナビゲーターなのです。それが「わたしは道である」と言われた意味なのです。このイエス様という道、ナビゲーターは生きている道、わたしたちと一緒にいて、一緒に歩いていってくださる道、動く道です。現代ではエスカレーターがあり、動く道もありますが、途中までしか連れて行ってくれません。しかし、わたしたちがイエス様という生きた道を信じ、一緒に進んでいけば、その道は安心して進んでいくことができます。

皆さんは山登りやハイキングをしたことがありますか。わたしは大学時代と、牧師になってからの合わせて14年間、長野県の松本に住んでいましたので、よく山登りをしました。一人で登った時など、登山道の道標(道路標識)がとても頼りになりました。道標がはっきりしていない分岐点、壊れているところではどちらへ行けばいいか、とても不安でした。もし間違って、道に迷ったりしたなら遭難事故にならないとも限らないからです。

わたしたちはこれからの人生において生きた道を探していきたいものです。その道は真理でもあり、命でもあるとイエス様は言われました。イエス様ご自身が真理であり、命であるということは、イエス様の人格そのものが真理であること、どこかに真理があると言われたのではなく、イエス様の生きざまそのものが、真理であると言われたのです。そして「わたしは命である」とも言われたイエス様は「イエス様こそ私の命」「君こそわが命」として受け入れるとき、わたしたちのうちに生き、見守り、励まし、支えてくださるのです。(チャプレン大西 修 主教)

●今日は久しぶりにチャペルでの礼拝でした。
サーバー初挑戦の学生さんが緊張しながらも頑張ってくれました。また聖歌隊が聖歌練習の音頭を取ったり、2階席で礼拝中の聖歌を支えたりしてくれました。感謝です。また、礼拝直前、「お昼の賛美歌タイム」の面々が楽しそうに賛美歌を歌っていました(記事はこちら)。

 

 

【ヨハネによる福音書10章11-16節】
10:11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――
10:13 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。
10:14 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

10:16 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

聖書には「羊」や「羊飼い」という言葉がたくさん登場します。日本では見られませんが、イエスが生きたパレスチナでは羊は遊牧されていました。今でもそうですし、私も実際に見たことがあります。主に羊毛を取るための遊牧ですが、やせている土地での大切な生活手段なのです。

羊飼いの役目は羊を草地や水源に導くことでした。羊はもともとが不器用な動物でして、集団でないと行動できないため羊飼いの強力なリードを必要とします。面白いことに、羊飼いは羊に名前をつけていて、夜になると「点呼」を取ります。そのくらいに羊飼いは一匹一匹を大切に扱ったということです。ですので、今日の聖書にあるイエスの「わたしは良い羊飼いである」という言葉を聞いた当時の人々はすぐにピンと来たことでしょう。イエスは私たち一人ひとりに心を配ってくださる方だと。私たちは集団でうまく行動できている時でも、実は一人ひとりが不安だったり孤独だったりすることもありますね。そんな羊のように不器用な人間の性格をイエスは良くご存知でした。

皆さんは柳城に入学した時には多少なりとも不安を感じたことでしょうね。今はどうですか。私は皆さん全員に「柳城に入って良かった」と心底思って欲しいです。そうなるためにも自分の中心に心棒を持ってください。大勢の中にあっても自分を見失わずに周りから認められるよう、自分自身を鍛えて欲しいのです。この礼拝でもそうです。将来、人の前でお話をするような仕事に就こうとする皆さんにとっては良い勉強になるでしょう。たとえば「自分の話を聞いて欲しい」という思いを相手にどう伝えたらいいのでしょうか。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい(マルコ4:9)」とたびたび語ります。イエスは無理やり人にものを押し付けようとはなさいません。それが彼流の、人を一人ひとり大切にする方法なのです。

イエスの事をもっともっと知って、自分のために役立ていって下さい。(チャプレン大西 修 主教)

ノースポールと折り紙チューリップ

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