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今日のお昼の賛美歌タイムは、保育科1年生のYさんが一人で守ってくれました (^_^)/

2年生のほとんどは施設実習中。職員担当の私も今日はお休みをとる日だったのです。

以前にも2年生のYさんが一人で守ってくれたことがありました (^J^)

最初から「毎日守るべきもの」とルール化してしまうと、途端にイエス・キリストの「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2:27)」という言葉が襲いかかります。

「賛美を楽しく♥」をモットーに続けてきた賛美歌タイムです。

楽しいから毎日でも手分けして守れる…

こんな15分間が柳城のあちこちに広がることを、主に、おねだりしたいです (^^♪ (加藤)

 

【ルカによる福音書 23:32-35、43-46】
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

人が死ぬとき最後にどんな言葉を残していくのでしょうか。6月22日、乳がんのため34歳で亡くなった小林麻央さんは最後に夫の市川海老蔵さんに「愛してる…」と言って、息を引き取ったとのこと、この言葉は多くの人々の心を打ちました。

「苦しい、早く死にたい、殺してくれ!」「お母さん!」「死にたくない!」 意識がはっきりしている人は、このような言葉を残していったかもしれません。声が出ない、出せない人は顔の表情で思いの一部を現わしていったことでしょう。

4年前、わたしが大阪で主教として働いていた時、一人の牧師(わたしの2歳上の司祭)が救急車で病院に搬送されました。数日後、一つの決断を迫られる状況になりました。手術をすれば回復する可能性はあるが、このままにしておけばあと一週間しか生命は持たないと宣告されたのです。彼は病床に付き添うお連れ合い(妻、奥さん)に、手術をする決断を伝え、彼女もそれに同意しました。そして、彼は「この40 年間、本当によく僕を支えてくれたね。ありがとう!。ひょっとしたらもう話せなくなるかもしれないし、これが最後になるかもしれないからね。」と優しい微笑みを浮かべて彼女にそっと手を触れ、感謝と別れを告げ、手術に向かいました。わたしは二人の近くに立っていましたので、胸が締め付けられ、目頭の熱くなるのを覚えました。手術後、昏睡状態のまま意識は戻らず、3ケ月後に召されました。お連れ合いへの言葉が最後の言葉になってしまいました。もし自分だったら、どうしただろうかと改めて考えさせられました。

ではもし、あなたがそのような立場に立ったとしたら、どんな言葉を残していきますか。想像できないかもしれませんね。そんなこと、わたしにあるわけがないと思っていませんか。特別、カッコいい言葉を残せないでしょうし、何を言おうかなんて考える余裕もないかもしれません。その人が常日頃、心のうちに大事にしている思い、本音が、その時、自然に口をついて出てくるのではないかと思います。相手の本心がわかるのがその時なのかもしれません。そうだとすると、ちょっと恐ろしい気もします。

三浦綾子さんは自伝「明日をうたう」(亡くなった1999年[平成11年]、77歳の年・刊行)の中で「遺書は二通書いた。…要約すれば、「ありがとう」と「ごめんなさい」という言葉だった。人間の生活はつきつめれば、誰しも感謝と謝罪の二語に尽きるのではないか。それが人間のあるべき姿と言えるかも知れない。」と言っています。

わたしは朝出かける時やどこかへ主張する時、妻に必ず心を込めて「行ってきます」と挨拶します。その時いつも「これが最後の言葉になるかもしれないな」と思うからです。ですから、時々「これが最後の言葉になるかもしれないね」と言います。そして本当にそうだったとしたら、それはそれでとても素晴らしいのではないかと思っています。

また、わたしは毎晩寝る前にお祈りをします。こう祈ることによって、もし仮に、そのまま目が覚めなかったとしても、何も思い残すことはないからです。「神様、きょうも一日あなたのみ守りのうちに、過ごすことができ感謝いたします。今日もし人々との関わりの中で、気づかずに犯した誤りがありましたら、どうぞお赦しください。わたしの中にいつも人々を思いやる心と、赦すことのできる本当の愛をお与えください。すべての人々に今夜も安らかな眠りをお与えください。主イエス・キリストのみ名によって アーメン。」

さて、聖書にはイエス様が十字架の上で最後に言われた言葉がいくつか記されています。「父よ、彼らをお赦しゆるしください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)

無実のイエス様を十字架につけ、殺そうとしている人々に対して、神様にどうか彼らを罪に定めず、罰せず、赦してください。彼らは自分が何をしているかが見えていないのです、気づいていないのです、わかっていないのです。こう言って父なる神に赦しを願っておられます。また、自らの非を認めた死刑囚には「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)神があなたを赦してくださり、わたしと共に天国への道を行けることを約束されました。そして「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)、あなたがわたしに託された任務は終わりました。「 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)安心して私のすべてをあなたにおゆだねいたします。こう言って息を引き取られました。

イエス様は最後の最後まであらゆる人々に心を寄せられ、彼らの幸せを願い、祈り、行動されました。

わたしたち一人一人は、神様からたった一つの掛け替えのない、尊い命を与えられ、多くの人々に愛され、励まされ、支えられ、こうして共に生きてこられたことを感謝する思いを常に持って歩んで行きたいものです。  (チャプレン 主教 大西 修)

ロベリア

今回は、本学教員の山脇眞弓先生にお話ししていただきます。
先生のプロフィールについてはこちらをご覧ください。
イエス・キリストは、律法でがんじがらめに縛られていた当時の民衆を憐れんで、人の心を解放してくださいました。その福音の営みは現在まで続いています。今回のお話が、ひょっとすると、その解放に役立つかもしれません。ご期待ください。

●奨励のテーマ:「人の心と心理学」
●内容:人の心って不思議で面白いですね。心に関係するお話を皆さんと共に考えてみたいと思います。
●奨励者:山脇 眞弓 先生

●日付:7月19日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○予告
・7/26(水) 合同礼拝(体育館) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
説教:田中 誠 司祭(名古屋聖マタイ教会) 礼拝後に奉仕活動(学生生活委員会企画)
・8/2(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員


このミニヒマワリの商品名は「ビッグスマイル」です。

販売会社のウェブを見ると…
「基本的に1本立ちで、側花のつかない頂花のみの1輪咲きです。」
「鑑賞期間は10~15日程度です。ただし、移植時の断根により側枝が3~5本出て開花することがあり、この場合は鑑賞期間が長くなります。」

ということで、柳城のビッグスマイルは、苗を植え付けた際の断根が原因で、写真の通り、花が1株に5個以上もついたようです。

おかげで花を長く楽しめたことは確かですが、葉の老化が意外に早いので、株全体を美しく鑑賞できる期間はせいぜい2週間といったところでしょうか。

To be continued.(加藤)

 

【マタイによる福音書 19:16-22】
 19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

「若い」とはどんなことをいうのでしょうか。これを青春と言い換えてもいいかもしれません。皆さんは自分自身で、あるいは友人同士で「若いということ」「青春とは何だろう」ということについて考えたり、話し合ったりしたことがありますか。

もちろん、一言で若いとは、青春とはこんなことだ、というには、あまりにも複雑で難しいことです。けれども若い時、青春の特徴を2つ3つ挙げることができます。そのことについて考えてみたいと思います。

第一は「焦燥感」です。いらいらした気分、自分自身に対するいらだたしさ、そしてこの社会、自分の住んでいる世界、生きている世界に対する不満、怒りなどがそれです。すべてのことに対して何か物足りなさを感じ、何とかならないのか、あるいはまた、何とかしなければ・・・という気分を抱いています。

「わが青春に悔いなし」という言葉がありますが、悔いのない青春は多分ないと思います。過ぎ去った青春を振り返ってそのように言えたとしても、現に今、青春真っ只中にいる人には、その言葉は当てはまらないでしょう。あらゆる点において青年から大人へと移り行く時期、この時期は言い換えれば、汗と怒りと不眠と不安の時期、苦しい戦いの時期ともいえるかもしれません。青春時代は腹の立つことも多い時です。親の言うことが癪に障り、友人の態度が気にいらず、またこの世界に向かって、言いようのない怒りをぶちまけてみたくなるそんな時ではないでしょうか。何か漠然とした、言いようのない憤りを覚える時でもあります。このようなエネルギーは考え方によれば、消極的で、非建設的、非生産的なもののように思われますが、必ずしもそうとは言えません。確かに、ある明確な対象に向かって発散されるエネルギーは、積極的、建設的で生産的なものに違いありません。

しかし、言葉では到底言い表せない部分、わたしたちの心の奥深くに潜んでいる焦燥感、あるいは欲求不満といったものを、どのように自分の中で蓄え、生産的なエネルギーにしていくか、この点に青春の生き方の重要さがあります。

第二は「挫折」です。青春には挫折がつきものです。挫折することは若さの一つの表れと言ってもいいでしょう。

二十歳になる一人の男性がいました。彼の前途は洋々としており、たくさんの可能性に満ちていました。洋服屋の前を通ると、自分も将来あんな最新流行のスーツを着ることができるのだと思い、本屋の前を通ると、よーし、あらゆる本を読破してやるぞと考え、きれいな女性を見ては、今にあんな女性と結婚するぞと憧れる、そんなバラ色の日々でした。

そして、五年経ち彼は苦労してやっと就職しましたが、低賃金のため安い吊るしのスーツしか着ることができず、大学卒業後は漫画以外の本は読まず、せいぜい通勤電車の中で週刊誌を読む程度、家に帰ればテレビを見て寝てしまうという疲れた毎日でした。恋愛から結婚へという甘い夢は無残にも消え、今までの女性観(女性を見る目)があまりにも理想的過ぎたことに気付きました。

これはほんの一例ですが、現実の青春とは大なり小なりこのようなものではないかと思います。わたしたちの人生は挫折の連続です。けれどもその挫折の一つ一つにどのように対処し、戦い、耐え、それを生かしていくか、そこに青春の道が開けていくか否かの分岐点があるように思います。

なぜ、このようなことを話してきたかと言いますと、最初に読まれた聖書の箇所がそのことを教えているからです。ここに登場する青年はイエス様のところへ来て質問しました。「先生、永遠の生命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と。彼は礼儀正しい優秀な青年で、真剣にどうしたら本当に幸せになれるかを尋ねました。永遠の命を得るという、とても真面目な、宗教的、倫理的な質問でした。イエス様はモーセの十戒・隣人愛の教えを守るようにとおっしゃいました。それに対して「それらはすべて守ってきました。まだ何か欠けているのでしょうか」と、青年は聞き返しています。彼にはすべての教えを守ってきたという自負の念はありましたが、まだどこか満たされない気持ちがあったのではないかと思われます。青年の熱心さの中に、確かなものをつかみ取りたいという焦燥感を見ることができます。

イエス様の次の言葉によって、この青年の志は無残にも打ち砕かれ、挫折してしまったのです。「もし完全になりたいのなら,行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

イエス様の言葉はいつもわたしたちの予想しない思いがけない方向からやってきます。この青年は所有していた財産が、彼にとってあまりにも大きな前提になっていたので、そのことに気づかず生活していたのです。イエス様はこの青年に観念上の問題としてではなく、一番身近な物質の問題を投げかけ、彼が気づいていない点をつかれました。自分の身に何の痛みも危機も感じない愛の行為はないのです。青年は見事にここで挫折しました。多くの場合、予想していないときに挫折という事態が起こります。ですから事態が意外であればあるほど、挫折の傷跡は深いのです。この青年が悲しみながら立ち去った姿を想像することはさほど困難なことではありません。そして、この挫折が彼にとって実に貴重な体験であったということができます。今まで何の問題もなく上昇志向でいた人間が、ここで初めてつまずき倒れるという経験をしたのです。この挫折こそ、青年が真の人間になるために、どうしても必要な条件でした。おおよそ傷つくこともなく、痛みを感じたことのない人間はまだ子どもであり、青年とは言えません。この青年にとって、イエス様の言葉による挫折を契機として、一段と飛躍するエネルギーを燃え立たせることが彼の青春なのです。

彼はイエス様と出会うことによってつまずき、倒れ、突き放されてしまいました。けれども、イエス様に引きつけられた青年が、逆にイエス様によって突き放され、去って行くということは、表面的な、またその時点だけでのことです。イエス様による拒否とこの青年の挫折という出来事の中に、青年の新たな立ち直りが暗示されており、またイエス様によって受け入れられることが約束されています。そのことは「そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」という受け入れを約束する言葉が示しています。

さて、「若さ」の特徴を「焦燥感」と「挫折」というマイナスのイメージで語ってきましたが、積極的な面を挙げるならば、「自立」、自分で立つということにあると思います。

「自立」、「独立」こそ青年の積極的な面です。そしてそれは多くの場合、精神的な自立、独立を意味します。

現代の青年の多くはこの精神的な自立、独立という点でやや遅れているのではないかと思います。精神の植民地化ということが言われています。例えばそれは、親との関係に見られます。大学の入学試験、入学式、卒業式、そして就職などが親がかりでなされていないでしょうか。それだけでなく青年の精神が全く親の支配下にあるという事実に、皆さんは何とも感じませんか。親の言いなりなる子どもが一概に良い子どもとは言えません。勿論、親に反抗する子どもがいい子どもであると言っているのではありません。

イエス様の青年に対する応答の中に、おのずからこの青年の精神的な自立を促そうとする意図が働いていたのではないでしょうか。

わたしたちも自分自身をこの青年の立場において、イエス様の言葉をもう一度聞き直してみましょう。(チャプレン 大西 修 主教)

夏の花壇
6/14と比較

物理学者アインシュタインの最後の言葉は、付き添った看護師がドイツ語を理解できなかったために永久に失われたとのこと。イエス・キリストのそれは幸いにも「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」として二千年たった今でも福音書に残されています。その一つが今回の礼拝で取り上げられます。愛に満ちたその深い言葉に耳を傾けてみましょう。ご参加、心よりお待ちしています。

●説教のテーマ:人生最後の言葉
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書 23:32-35
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

●日付:7月12日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○予告
・7/19(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
礼拝奨励:山脇先生
・7/26(水)合同礼拝(体育館) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
説教:田中 誠 司祭(名古屋聖マタイ教会) 礼拝後に奉仕活動(学生生活委員会企画)

大学礼拝の直前に実施する「お昼の賛美歌タイム」は、通常、チャペルの受付付近で行うのですが、今日は入口エントランスで体験できました。

聖歌を練習するオルガンの音と賛美歌タイムのギターの音とが微妙に不協するので困っていたところ、大西チャプレンが「あそこでやってみたら?」と声をかけてくださったおかげで、このような初体験が実現したというわけです。

場所がちょっと変わるだけも、気持ちが一新  ☆彡

なんか路上ライブのような気持ちになって、普段よりも明るく元気に賛美ができた気がします )^o^(

この楽しさを多くの人とシェアしたい…

魂で強くそう感じました 。主に感謝です  (^_^)/ (加藤)

新しい歌を主に向かってうたい
美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。(詩編33:3)

 

今回の聖書の箇所を読むたびに、ミッキー・ローク主演の映画『フランチェスコ』で、裕福な青年らが持ち金を民衆にばら撒くシーンを思い出します。服までも失った彼らは、笑いながら水槽で戯れる・・・。私たちの永遠の課題が見事に演じられていました。

実年齢に関係なく本当に「若い」とはどういうことか。次回の説教にその答えがあるかも。
ご期待ください。チャペルでお待ちしています。

●説教のテーマ:「若い」ということ
●説教者:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書 19:16-22
 19:16 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」
19:17 イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」
19:18 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」
19:20 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
19:21 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
19:22 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

●日付:7月5日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○予告
・7/12(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
・7/19(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
礼拝奨励:山脇先生

本日の賛美歌タイムは特別な聖歌をご用意いただき始まりました。聖歌481「この世の波風さわぎ」

それは私のたいせつな友人の訃報を受け、彼女の御霊に祈りを捧げる、「旅立ち」の賛美となりました。

チャペルには目には見えないけれど、たしかに彼女がいるようでした。笑って「Yさんたら…っ」といつものように、私をまっすぐ見つめる息づかいを感じました。

お昼の賛美歌タイムは身体で心で感じる時間…。
ギターで感じる楽しい鼓動と目には見えないイエスさまへの賛美が、動と静をともに癒します。

聖歌を選んでくださった加藤さん。
そして共に心を合わせ歌い、お祈りもしてくれた仲間たち。

本当にありがとうございました。(岩付)

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18:19)

【創世記11:1~8】
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

現代のように複雑で多岐にわたる対人関係の中で生きていくことは、だれにとっても大変なことです。多くの人々が対人関係で悩み、心を痛め、時には傷つきながら日々を過ごしていると言っても過言ではありません。

ある人は親しい友人がほしくても、なかなかできないと言い、またある人は、人を愛することができず、人から愛されないと言って悲しみ、さらに、人は自分の考えをなかなか理解してくれないと言って嘆きます。

これらの悩みを一つ一つ数え上げたら限りがありません。「対人関係で悩むことは、生きている証拠だから・・・」と言ってみても、問題の解決にはなりません。

ところでわたしたちが悩むのは、一体どんな時でしょうか。それは自分の考えが、なかなか思い通りに他者に伝わらない場合が多いようです。人間は元来とても自己中心的です。自分中心に物事を考えることに慣れていますから、思った通りに事が進まないと面白くありません。自分の考えを通すことに急なため、他者の意見を十分に聞くことをせず、他者の気持ちを損なっていることにも気付かず、対人関係をダメにしてしまっている場合がよくあります。

旧約聖書の一番初めの創世記(2~3章)には、有名な「アダムとエバ」の物語が記されています。神が「とって食べてはいけない」と二人に命じられたエデンの園に植えられた「善悪の知識の木」の実を、蛇にそそのかされたエバが取って食べ、アダムもエバから渡されたその実を食べてしまいました。「取って食べるなと命じた木から食べたのか?」と神から問われたアダムは「あなたがわたしとともにいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」と答え、エバは「蛇がだましたので、食べてしまいました。」と答えました。

アダムとエバの信頼関係は、神からの叱責を逃れ、自分の立場を守るために自己弁護し、他者に責任転嫁することによって、失われてしまいました。「だれだれさんがやれと言ったのでやったら、こんな結果になってしまったんだ」と言って悔やんだことはありませんか。責任転嫁とは自己弁護し、自分では責任を負わず、その責任を他者になすりつけることです。これまではうまくいっていた対人関係が、何となく気まずく、おかしくなったと思われるとき、その原因を探ってみると、案外、自分の中に隠れている責任転嫁という代物が原因であることが多いようです。

わたしたちが自分の立場を頑なに守ろうとしたり、弁護したりせず、他者の前で自分のありのままの姿を見せることは、とても勇気のいることです。なぜなら、それは自分を曝け出し、相手に自分を開放してしまうことになるからです。けれどもそれができたとき、これまでとは全く違った新しい生き方が生まれてきます。自分の殻を打ち破ることによって、自分の中に新しいものを取り入れることができるのです。

今、東京上野の東京都美術館で開催されている16世紀オランダ(ネーデルランド)の画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が人気を博しています。言うまでもなく、この絵の基になっているのは、創世記11章の「バベルの塔」の物語です。

一つの言語によって生きていた人間は、高慢にもその知恵によって、神のおられる天にまで達する塔を建てようと企てました。これは神によって創造された人間が、自ら神の地位に就こうとする計画に他なりませんでした。神はこの計画を止めさせるため、その塔を破壊し、人間の意志伝達手段である言葉を通じなくされました。「バベル」とは混乱という意味です。わたしたちが対人関係で悩むのは、相手との意志の疎通を欠くことによります。

素晴らしく立派で高い塔を建てる時、上の方で働く人は下の方で働く人の思いを忘れがちです。同様に下で働く人も上で働く人の思いはよくわかりません。そんな時、相手の立場や気持ちを考えると見方が変わってきます。相手の立場に立つ、身を置くことによって、思いやりや優しさが生まれてきます。下で働く人は、上で働く人の大変さに思いを寄せ、上で働く人は、同じように下で働く人の大変さに思いを寄せる時、お互いが理解し合えるようになるのです。

あなたが対人関係で思い悩んでいる時、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟(おきて)である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12~13)と言われ、その言葉通り、十字架への道を歩んで行かれ、十字架の上でわたしたちのために死んでくださったイエス様に目を向けてください。イエス様を見つめることによって、きっとあなたの悩みを取り去ってくださる希望の光が差し込んでくることでしょう。(チャプレン 大西 修 主教)

カシワバアジサイ

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