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ルカによる福音書1:1-4
1:1‐2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。キリスト教の暦(教会暦)について

2週間にわたる実習が終って、今どんな気持ちですか。長かったですか、短かったですか。もう少し続けたかったなあと思っている人もいれば、もう十分と思っている人もいるかもしれません。いずれにしても保育者になるための貴重な体験、これからの日々の学びに生かしていってください。

さて、わたしたちが生きていく上で、暦は必要不可欠なもので、重要な役割を果たしています。暦のない生活を考えたことがありますか。とても考えられないですよね。

て、人間は早くから宇宙の法則、また1年間の自然界の規則正しい循環に思いを凝らすことよって生活のリズムを作り上げて来ました。社会的存在として生きる人間にとって、1年間の春夏秋冬という季節の移り変わり、1日の朝、昼、夜という時の流れが、共同生活を営んでいくために必要な自然暦を作り出してきました。それにそれぞれの民族固有のライフスタイルを維持し、受け継いできた習慣や歴史的出来事が付加され、今日の暦が出来上がってきました。

わたしたちが今使っている日本の暦は、いつから使い始めたか知っていますか。今から145年前の1873(明治6)年、明治政府が太陽暦(グレゴリオス暦)を採用したことに始まります。そして3年後の1876(明治9)年、日曜日を休日とするキリスト教的な7曜制が法制化されました。1週間を7日とする暦の源は言うまでもなく、ユダヤ教が聖典とする旧約聖書の創世記に書かれている神が7日間で天地を創造された物語です。日曜日の休日は、神が6日間で天地を造られ、7日目にお休みになったとされる安息日から来ています。そしてキリスト教の時代になって、イエス・キリストが復活された日が安息日となり、それが休日になりました。ですから、日曜日はイエス・キリストの復活を覚えて感謝する日が起源です。

このように明治の初期から、キリスト教文化圏の影響を受けた暦が使われました。普段、何も考えず無意識に使っている暦、実はキリスト教の暦なのです。因みに、それ以前の日本では太陰暦が使われていました。もちろん日曜日はなく、休日はお盆と正月だけでした。

キリスト教の暦はその前身であるユダヤ教から受け継いだ部分もあります。教会の暦(教会暦と言います)はキリスト教の暦と深い関わりがあります。教会暦は1年間の自然界の巡りを通して、聖書に書かれている神さまの出来事、歴史的なイエス・キリストの出来事、それに続く教会の出来事が折り込まれています。

わたしたちに与えられた1年間の日々を、一つの目標達成を目指して有意義に過ごすために役立つ暦として教会暦があります。

教会暦の新年は11月後半から12月初めのクリスマスを迎える4つ前の日曜日から始まります。アドヴェント(降臨節、待降節)と呼ばれています。今年は12月2日の日曜日から始まり、4つ目の日曜日12月23日を守り、12月25日の降誕日(クリスマス)を迎える準備期間がアドヴェントです。アドヴェントとは「来る、接近する」という意味のラテン語です。キリストが来られた降誕を祝い、キリストが再び来られる再臨の約束を、希望をもって待ち望むときです。そのために深い悔い改めと祈りと慎みをもってこの時を過ごします。紫の期節と呼ばれ、祭壇にかけられる布や司祭が着けるストールなどの祭色は紫を用います。この期間は祭壇にお花は飾りません。教会暦ではお祝い(勝利と祝福と純潔と喜び)の時を迎える前に準備の期間が定められています。心からお祝いし、喜びを分かち合うためには、悔い改めと祈りが必要です。クリスマスを祝い、感謝と賛美と喜びが大きなものになるための備えとして、悔い改め、心を清めることが大切なのです。クリスマスには勝利と祝福と喜びと命を表わす白の祭色の装飾布を祭壇にかけ、お花を飾ります。

1月6日の顕現日(公現日、エピファニーデイ~彩色は白)から占星術の学者の来訪に始まる顕現節~祭色は緑~に入り、イエス・キリストの神の子としての姿が、教会暦の礼拝で読まれる聖書を通して示されます。クリスマスから顕現日までが降誕節です。クリスマスツリーなどは1月6日に取り外されます。顕現節に続くキリストのご復活前の40日間は、大斎節(受難節、レント)と呼ばれる紫の期節で、キリストの荒野での悪魔の誘惑と断食の苦しみを覚えるとともに、最大の出来事であるイエス・キリストが十字架上で亡くなられた受苦日(受難日、聖金曜日)を祈りと断食と節制のうちに過ごします。

十字架の死から3日目、復活日を迎えます。キリストのご復活を祝うイースター(復活日)も勝利と祝福と喜びと命を表わす白を祭色として用います。 教会暦はイエス・キリストのご復活とご降誕という2つの中心点を軸にして出来上がっています。11月後半から3月から4月にかけては、イエス・キリストのご生涯の出来事に添った形で暦が作られ、4月から11月にかけての半年は復活節、昇天日、ぺンテコステ(五旬祭)の時、聖霊が降臨し教会が誕生した出来事(赤)、イエス・キリストの事績、お話になったことなどが教会の暦の中で、順次示されていく聖霊降臨節(祭色は緑~命、平和、成長を表す)を経て暦の1年間が巡る形になっています。

暦はわたしたちの人生行路を日々豊かに、目標に向かって導いていく役目を果たしています。キリスト教の暦(教会暦)に従っていく時、生きる意味が見えてきます。

皆さんはどんな暦に従って生活していますか?( チャプレン大西 修)


折り紙クリスマスツリー(学生食堂)

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

6:自由になる私たち(ヨハネ8:32)

主よ、
すばらしい朝を
いつもありがとうございます。
私たちは学びを求めて
あなたがたてた柳城に集まりました。
学ぶ自由
表現する自由
主張する自由
将来を語る自由
未来を切り開く自由
主よ、小さいことでよいのです。
私たちに本当の自由を
好きなことに集中できる自由を下さい。
その自由を使って、
私たちはもっと成長します。
人のために役立ちます。
子どもたちを慈しみます。

イエス・キリストは言われます。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

主よ、あなたに従うことによって
私たちは愛と真理を知り、
罪から解放され、
矛盾から、
不平等から、
束縛から自由になります。
私たちがその自由を手にできるよう、
主よ、どうか導いて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

5:イエス・キリストを知る私たち(ヨハネ15:5)

主よ、
今日も、この小さな集まりを
イエス・キリストの言葉を
ありがとうございます。
イエス・キリストは私たちの光です。
愛です。
あこがれです。
希望です。
いやしです。
ちからです。
ゆるしです。
イエス・キリストを通して、
私たちに神を、
道を、
真理を、
命を教えてください。

イエス・キリストは言われます。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

私たちをイエス・キリストの枝にして下さい。
イエス・キリストにつながることで、
子どもをいつくしみ、
私たちが分け隔てなく、
交われますように。
傲慢を、
軽蔑を、
偏見を取り去って、
私たちにまことの平等を与えてください。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載しています。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

4:人を愛する私たち(マタイ22:39)

主よ、おいで下さい。
今日も一日、
私たちの先頭に立って、
私たちを導いて下さい。
1人でも多くの仲間を、
そして子どもたちを、
愛せる心を与えて下さい。
愛せるチャンスを与えて下さい。
愛せる勇気を与えて下さい。
自分の喜びよりも、
他の人の喜びに、
自分の悲しみよりも、
他の人の悲しみに、
自分の怒りよりも、
他の人の怒りに、
関心が持てるような愛を与えて下さい。

イエス・キリストは言われます。
「隣人を自分のように愛しなさい。」

この言葉を柳城に響かせて下さい。
私たちの心を
いつも高ぶらせて下さい。
前向きにさせて下さい。
主よ、どうか私たちが
イエス・キリストの愛に近づけるように。
イエス・キリストの愛が理解できるように。
イエス・キリストの愛で満たされるように。
私たちを導いて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

今回のテーマは「キリスト教の暦」。

教派によって違いがありますが、聖公会では1年を次のように6つに区分します。私なりに分かり易く説明させてもらうと・・・、
降臨節(こうりんせつ):イエスの誕生を待ち望む期間
降誕節(こうたんせつ):イエスの誕生を喜び感謝する期間
顕現節(けんげんせつ):イエスの存在が世に知れ渡る過程を振り返る期間
大斎節(たいさいせつ):イエスが十字架刑を受ける過程を追体験する期間
復活節(ふっかつせつ):イエスの復活に歓喜する期間
聖霊降臨後の節(せいれいこうりんごのせつ):教会活動の発展を願い、実践する期間

一番目にある降臨節は、今年は12/2(日)に始まります。この日から教会では新年がスタートし、12/25のクリスマスを迎える準備に入ります。柳城短大では、すでに様々なクリスマス用品が展示されていて、後は、現在実習中の学生さんが12/3から学校に戻って来るのを待つばかりです。

クリスマスを迎える最初の礼拝です。どんなお話になるか楽しみですね。

お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「キリスト教の暦」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書1:1-4
1:1‐2 わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

1:3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。
1:4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

●日時:12月5日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
12月誕生日の祈りを行います。
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
12/6(木)クリスマスツリー点灯式 (事務室前) 16:30~
12/12(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12/19(水)クリスマス礼拝(体育館)14:50~

今日はマルコ通読二十九回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『 主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 (マルコによるよる福音書12:35〜38)

大群衆が見ている中、イエスは詩編110章で記されているダビデの言葉を使って律法学者たちを厳しくとっちめました。

律法学者や当時の人々によってメシア化されたダビデ本人が『主は、わたしの主にお告げになった』と記しているのに、なぜ、お前たちは「メシアはダビデの子だ」と言っているのかと。

私はこのダビデの言う二つの「主」が誰にあたるのか、すぐには理解できませんでした。しかし主を崇めるダビデの目線で読むというヒントを頂くうち、最初の「主」が神であり、後の方は「メシア(救い主」であると分かりました。

ダビデ自身が「主(神)は、わたしの主(メシア)にお告げになった」と言って、自分の子以外の何者かをメシアと呼んでいるのです。従って「メシアがダビデの子である」はずはなくなります。

律法学者たちはこの理路整然としたイエスの御言葉に、ぐうの音も出ません。

当時、事細かな律法や決まりを守れない民衆は罪人呼ばわりされて蔑まれていた時代です。イエスの御言葉に何も言い返すことが出来ない律法学者たちの様子を見た民衆たちは、きっと「イエスよ!よく言ってくれた!律法学者たちよ、聞け!」と、日頃から虐げられてきた胸の内がスッとなり大喜びしたことでしょう。

イエスは常に今でも、弱い立場の人間の味方です。

次回のイエスの道のりも楽しみです。


干し柿

今回心に響いた御言葉は…

イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。(マルコによる福音書12:24~27)

イエスは出エジプト記3:6の言葉をお使いになり、かたくなに復活はないと考えていたサドカイ派の人々を論破されました。その言葉を有する「モーセ五書」のみを信条とするサドカイ派を、「聖書も神の力も知らないから」とバッサリ切り捨てられたのです。

それは「あなたたちは、この世の道理にこだわり過ぎるあまり、神の国を見失っている」と警告を与えるイエスの真の愛である、と私は感じました。

今回私は「モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」という箇所を読み解く上で、とても腑に落ちる解釈を与えていただきました。それはイエスの思考と同じく斬新で単純明快でした😊✨

死んで影も形も無いものに対して「~の」という言葉は使わない。つまり「私はアブラハムの神である」という言い方は、アブラハムは神の国で復活して生き続けていること示している。だから、イエスは次に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と、同じ意味のことを繰り返された…。

私はその解釈を聞き旧約聖書を隅から隅まで熟読されたイエスの御姿が重なり、はっきり浮かび上がった思いがしました。イエスは常に理性と深い見識より、この世のことでなく、永遠の命を手にできる神の国の話をされています。

次回もイエスの御姿より、その道につながることの意味、喜びを学んでいきます。


柳城祭とヒマワリ

【マタイによる福音書18:10-14】
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

✝ ✝ ✝

いよいよ来週から、1年生は初めての教育実習、2年生は2度目の保育実習が始まります。

教育実習法、保育実習指導の授業も受けて、実習に入る準備は多分出来ていることと思います。とは言っても初めての実習の現場ですし、何が起こるかわからない要素もたくさんあります。ですから心配があって当然です。わたしも大学4年次に高校での3週間の教育実習、神学校の3年次には東京築地にある聖公会の聖ルカ国際病院で1ケ月の実習を経験しました。今でもその時のことを思い出すと冷や汗が出てきます。不安だらけで何一つ思った通りにいかなかったからです。

「礼拝への出席は、あなたの実習をきっと素晴らしいものにするでしょう!」と今回の礼拝案内の掲示に書きましたが、「あなたの実習が成功することを保証します、約束します」とは書きませんでした。そんなことをもし書いたとしたら、万一、結果があまり芳しくなかった場合、「チャプレン、嘘言った、あれは過大案内だ」と言われかねません。「礼拝に出席すれば必ずご利益があります」と言えば、皆さん出席しますか。ご利益を求めて礼拝に出席するのではありません。「休まずきちんと授業に出席すれば単位を認定します。」と言われれば、授業に出席しますか。考えてみてください。確かに出席するでしょう。しかし、単位を取る目的で授業に出席しているのでしょうか。そうではなく、卒業し社会に出て、現場に立って働くとき、きっと授業を通して身につき学んだことが、役立つと信じているからだと思います。もしそう考えていない人がいたら、今からでも遅くはありませんので、その考えを直してください。

さて、イエスさまはいつも子どもたちや、その当時小さな者とされていた社会的に弱い立場に追いやられていた人々(やもめ~未亡人~や寄留の外国人)、無視され、蔑まれていた人々に対して殊の外、思いを寄せられ、積極的に関わりを持たれました。

「このような小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(18:10)と言われ、「迷い出た羊」のたとえを話されました。ある人が100匹の羊を所有しており、その中の1匹が迷子になったとしたら、99匹を残しておいて、その1匹を探しに行くのが当然だというのです。そしてその1匹の羊が見つかったなら、99匹の迷わずに残しておいた羊のことよりもはるかに喜びは大きい。このようなたとえです。

イエスさまの価値観はわたしたちの価値観と明らかに違います。天国、神さまのお考えがイエスさまの価値観にそのまま反映しているのです。わたしたちは数、数量に関心があります。99匹と1匹を比較し、1匹のために99匹が犠牲になることなど考えられない。それより1匹だけが犠牲になるほうがいいのではないか、と数、数量の多い方を優先し、それを大切だと考えます。しかしイエスさまは数量ではなく、目につきにくい質量(弱さ、小ささ)を大切にされます。見落としてしまいがちな、忘れられてしまいそうな人(たった1匹の羊)を、とことん大切にされ、最後まで面倒を見られるのです。

実習の現場に立った時、あなたに寄り添い、駆け寄って来て、まとわりつく元気な子どもがいれば嬉しくなり、一緒に遊ぶことが楽しくなります。その子どもと、ずっと関わっていたい気持ちになるでしょう。でもそんな時、注意深く周囲を見回してください。部屋の片隅でひとりだけでうつむいている子ども、園庭に独りぼっちで寂しそうにしている子どもがいるかもしれません。そのような子どもに積極的に近づいて行って、優しく声をかけることができれば最高です。とても素晴らしいと思います。どのような声掛けをするのがふさわしいかは、十分考えてみる必要があります。あなたの声掛けによって、その子どもは一層固い自分の殻の中に入ってしまうかもしれませんから。声をかけないで、そっと傍らにいることがひょっとしたら正解かもしれません。

イエスさまはわたしたちに注意深く物事を見で、小さなことも見逃さないようにと願っておられます。わたしたちの注意力は人に対してだけでなく、周りの環境に対しても注がれるようにしたいものです。庭の草花一つ、石ころ一つ、ゴミ一つに対してどのように関わり、それに対処するかは、あなたがたひとりひとりの感性によるところが大きいかもしれません。感性は磨かれる必要があります。磨かれることによってますます豊かになります。嫌なこと、やりたくないことは誰にもあります。でも、それをすることによってあなたは成長し、人々の喜ぶ顔を見ることができるようになり、その喜びを分かち合うことができるようになるのです。

イエスさまは一人一人をこよなく愛され、大切になさいました。このわたしもその中の一人です。このわたしが覚えてもらっている、覚えられていること、こんな嬉しいことはありません。「どうせ、わたしなんか、もうだめだ」とヤケクソの気持ちになったことはありませんか。そんな時、このわたしに一番近くいてくださる方、みんなから無視され、仲間はずれにされ、もうダメかもしれないと諦めかけているわたしに、優しく声をかけ、大丈夫だよ、いつも一緒にいてあげるからと言ってくださる方がおられるのです。それを信じることができる時、子どもたちの前に勇気をもって立つ力が与えられるのです。

自分を静かに見つめる時こそ、祈りの時と言えるでしょう。夜寝る前のひと時、朝起きて顔を洗うとき、学校へ向かう電車の中、また実習に出かける途中でその時が持つことが出来ます。その時を持つことによって、あなたの1日を、あなたの実習を素晴らしいものに違いありません。これがご利益であると言えば、言えるのかもしれません。

皆さんの来週からの実習が実り豊かなものになりますように、覚えてお祈りしています。(チャプレン 大西 修)


押し花作り

晴天の恵みの中、今年も無事に創立記念行事を終えることができました。主に感謝です。以下、式の模様を簡単にお伝えします。

■学校法人 柳城学院  創立120周年 記念礼拝 (午前9時30分~ 短大体育館)

●開始前
座席に配布された「創立120周年記念文集 思い出2」を手にする学生さんたち

前奏と司式者団入場
 

聖歌 第367番「イスきみはいとうるわし」【創設者愛唱歌】

詩編 第23編

創立120周年記念の祈り

●聖書 ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節、13~14節

聖歌 第498番「主われを愛す」

●平和の挨拶

主の祈り

●諸祈祷
・名古屋柳城短期大学のための祈り
・附属幼稚園のための祈り
・創立者及びこれまでの仕え人たちのための祈り
本学院に関わるすべての逝去者のための祈り

●式辞 理事長  ペテロ 渋澤 一郎 主教

120周年の節目あたり、私たちは先達が作り上げた歴史を振り返るとともに、これからは自分たちで歴史を作り上げていくという意識を持つ必要があります。それは、特別な人に任せればよいというものではなく、一人ひとりに課せられた役割なのです。

聖書には「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(へブル12:1)」と記されています。多くの証人、すなわち、誠実に務めを果たされた諸先輩方に囲まれて私たちの今があります。それを受け継ぎ、与えられた場所で誠実に働くことで柳城の未来が切り開かれます。「愛をもって仕えよ」という建学の精神を大切にしながら、これからも忍耐強く歩むことを決意しつつ、120周年をお祝いしましょう。

式辞 学長  長縄 年延

1898年に、たった一人の生徒が在籍する保母養成所からスタートした柳城学院が、今年で120年目を迎えました。男尊女卑の習慣が残り、子どもなどに手などかけておれない時代でした。創設者のヤング先生は相当に苦労されたと思います。戦時中は空襲で焼け出されもしました。そういう苦難の歴史が創立百周年記念文集「思い出」で知ることができますが、今回は120周年記念として「思い出2」を発行しました。学生の皆さんには、ぜひ読んで、柳城の伝統を学んでいただきたい。

柳城の多くの卒業生たちが、愛をもって仕える心で日本の幼児教育界に大きく貢献してきました。それが柳城の歴史を作ってきました。しかし、少子高齢化の時代を迎え、18歳人口がピーク時の半分以下にまで減るという事態です。その影響が本学にも押し寄せ、定員を充足することがたいへん困難になってきました。4年制大学の併設等の策を講じて、これからの保育に要求される国際化とか発達障がい対応といった専門的で質の高い教育を目指していかなければなりません。

「子どもに学ぶ」気持ちを忘れずに、初心に帰りつつ、これからも励んでまいります。今後ともご協力をよろしくお願いいたします。

●聖歌 第417番「あなたの平和の」

●永年勤続者表彰
 

●感謝の祈り

祝福

校歌

●後奏と司式者団退場

●来賓紹介

■第2部 創立120周年記念  特別講演
「人生の海に錨をおろして ~神の呼びかけが聴こえますか~」
日本聖公会首座主教(兼 北海道教区主教) ナタナエル 植松 誠 師父
 

「120周年を迎えられたこと、柳城学院の宗教母体である日本聖公会を代表してお祝い申し上げます。私の父が本学院8代目の理事長であったことに不思議な導きと畏れを感じています。」という言葉で始まった一時間余りの本講演。その膨大な情報量のゆえに、講演テーマに沿った一貫性を見いだせない自分の無能さが悲しくなりますが、以下、頑張って要点だけをかいつまんでお知らせします。

柳城学院創設者のマーガレット・ヤング先生がカナダ聖公会の宣教師として、自分の生涯をかけるという決断をしたことに、私はある種の羨望を感じる。それは驚きと羨ましさと言ってもいい。これと同じ感情を、私は12年前にタンザニアのザンジバル島にあるイギリス宣教師らの墓の前で感じた。この地上の楽園は、かつては悪名高い奴隷交易の拠点であったが、宣教師らの死をも恐れない努力によって奴隷解放が果たされたのだ。奴隷の地下牢跡の上には、現在、英国国教会の教会が建っている。

また、ロンドンでの会議に出席した際、私は、主教の出で立ちで十字架を首から下げていたにもかかわれず、「あんた、クリスチャンかね?」と、ある男に尋ねられたことがある。「もちろん! クリスチャンだ。主教だぞ。教会にも通っているし、聖書を読んで祈りもささげている!」と答えることもできたかもしれない。でも、振り返ると、あの質問の意味は「あんたは、キリスト教の福音を伝えるために命を懸けているか?」ということであったのだろう。あの男は天使だったかもしれない。

大阪釜ヶ崎にある労働者支援施設「ふるさとの家」に物資を届けに訪れた時のこと。食事の支度で忙しい中、奥から出てきた方は、あの有名な旧約聖書学者、本田哲郎神父だった。彼自身も日雇い労働に携わり、労働者からキリストの福音を学んでいるという。同じカトリックの森一弘神父は、「本当の権威とは、真実/誠実な人生の歩みからもたらされた知恵」だと語る。イエスが五千人に食べ物を与えた奇跡において、全員が草の上に座ったのは、群衆がイエスに権威を感じたからであろう。小さき者の側にいつも立つ、そのような権威が柳城の保育には備わっているに違いない。

家の引っ越し直前になって、うちの子どもがチューリップを庭に植えたいと言って聞かなかった。植えたところで無駄になることは目に見えているので、止めるよう説得したのだが、よくよく理由を聞いてみると「次に住む人がびっくりして喜ぶから!」というものだった。

また、妻が子どもの頃の話だが、幼稚園の月謝袋を親に渡さずに道路の植え込みに隠したことがあったという。子ども心に家が貧しいことを察して、その月謝袋を母親に見せると悲しむに違いないと思ったそうだ。当然、母親には怒られたが、訳を話さず無言を通した。そのうちに園の先生から「何か考えることがあって、したのね?」と言われて、やっと口を開いたという。

さらに、これもうちの娘の話だが、小さい頃から物事がスローな性格で、それが元でいじめに遭い、人間関係のもつれもあって、そのうちに物を食べなくなってしまった。ストーブの前でただ座る娘に私たちは絶望した。しかし、そのうちに妻が開き直った。「ハチミツだけをなめる娘だが、それでも神に生かされている。それを喜ぼう!」と。妻は、娘と一緒にいることが嬉しいというメッセージを送り続けた。そして娘は徐々に回復し、6年前に嫁いでいった。

私たちは子どもの心を理解し受け入れることを通して、神が背後で私たちの全てを理解し無条件に愛してくださる存在であることを子どもに知らしめる必要がある。それがキリスト教保育の本質であり、柳城学院創設者ヤング先生の願いであったであろう。

■学校法人 柳城学院  創立者記念墓地礼拝
(午後1時~ 日本聖公会中部教区 共同墓地【八事霊園内】)

●送迎バスを使って目的地へ向かいました。

●礼拝
お話しでは、マーガレット・ヤング先生のご生涯が詳しく語られました。
 

 

●献花
 

(加藤)

「弱者の側に立つ」ことはイエス・キリストが説く愛の一つの形であり、「弱者側」にとっては福音中の福音と言えましょう。そのように誰もが頭では理解していても、実践となると難しいですね。人間には、生物体として、生き抜くための本能が備わっているので、理性でコントロールされないと、すぐに弱肉強食の世界に陥ってしまうからでしょう。この「理性」の基準が、キリスト教ではイエス・キリストの言動になるわけです。その言動が4つの福音書に綴られています。

今回の聖書箇所もその一つです。丁寧に読んで、話をしっかり聞いて、心で理解したいものです。必ず役に立つからです!

礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「迷い出た羊のたとえ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書18:10-14
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

●日時:11月14日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
12/5(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12月誕生日の祈りを行います。
12/6(木)クリスマスツリー点灯式 (事務室前) 16:30~
12/12(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12/19(水)クリスマス礼拝(体育館)14:50~

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