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【コリントの信徒への手紙一 15:41】
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。

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【マルコによる福音書 3:1-6】
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。
3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。
3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。
3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。
3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

✝ ✝ ✝

今日の聖書の箇所は、イエスが安息日に手の萎えた人を癒やした、という物語です。

安息日というのは、週の最後の日は休まなければいけない、というユダヤ教の律法です。イエスの時代、今日の物語に出てくるように、安息日に病気の人を癒やすことも許されませんでした。

しかし、この安息日の規定は、本来、労働者が確実に休息できるようにするために形成されたものでした。また、それは単なる休息ではなく、日々の営みを一旦中断して日常を振り返り、見直す機会でもありました。ところが、いつしか元の意味が忘れられ、人間をしばる法律、そして社会を支配する道具になってしまいました。

イエスは、そうした状況の中で、人々に問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。」これはつまり、本当に大事なことは、法律を守ること、常識を守ることではなく、命を守ること、人間を大切にすることではないか、ということです。そして、イエスは、安息日に手の萎えた人を癒やされました。当時この出来事は、現在の私たちの社会では考えられませんが、法律破りの危険な振る舞いでした。実際、このことは当時の支配者たちの権威を失墜させるものであり、彼らの逆鱗にふれ、イエスの殺害が計画されることになってしまいます。

しかし、イエスは、安息日だからと、法律の規定だからと、何もかも自粛する、ということはありえませんでした。むしろ、当時の常識に反して、この社会で不要と思われてしまうような人たち、触れてはならないとされた人たちに、積極的に寄り添っていかれました。

柳城の建学の精神とは、このように、たとえ一般の常識、世間の当たり前からかけ離れたとしても、目の前にいる一人ひとりの人間の尊厳を徹底して大事にする、ということです。

イエスは、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。社会の隅に追いやられてしまうような人たちが、社会の真ん中に立つことのできる世界を、私たちも追い求めたいと思います。そしてまた、ここにいるお一人お一人にも、イエスが今、あなたは、真ん中に立ってもいいのだ、と呼びかけられていることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


押し花のストック

【ガラテヤの信徒への手紙第5章13節】
5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

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【コリントの信徒への手紙二 12:9-10】
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

✝ ✝ ✝

私たちは、小学校の頃から数え切れないテストを受け、そのたびごとに点数がつけられ、それによって他の人と比べられ、評価される、ということを無数に繰り返してきました。そのようにして常によい点を取らなければならない、という構えが私たちには自然と身についているはずです。したがって、これができない、わからないと、自分の至らなさや弱さは、あまり口に出さないほうがいいと、思うようになっているところがあります。

先程お読みしましたパウロの手紙に「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と書かれています。一般的に考えれば、弱さは、誇るものではなく、隠しておきたい、出したくないことかもしれません。しかし、キリスト教を世界に広めたパウロは、彼自身、弱さを隠すことなく、大切にしました。というのも、キリスト教においては、強さよりも弱さの中にこそ神が働かれていると考えるからです。神様というと、たとえば金の冠をかぶった力強い王様のようなイメージあるかもしれません。しかし、キリスト教においては、そうではなく、荊の冠をかぶせられ、額から血を流し、手と足を釘で十字架に打ち付けられ、傷つけられたキリストこそ神の姿なのだ、と信じています。

私たちは、自分の弱さを出さず、人に頼ることもせず、自分の力で頑張らなければ、とついつい思いがちです。しかし、この柳城では、自分の弱さを隠さず、何か困ったことがあれば、周りの人たちに「助けて」と口に出してみてほしいと思います。そのようにしても、しっかりと受け止めてもらえる環境が、この柳城にはあると思います。

多くの皆さんは、いずれ保育や福祉の現場に行かれると思います。就職したら、職場では、そのように弱さを口に出すことは、軽々しくできなくなってしまうことも考えられます。しかし、弱さを出すことは、とても大事なことです。

たとえば、もし、幼稚園に通う子どもが、「苦しい」、「困った」、「助けて」と言えなかったらどうでしょう。子どもたちが、「苦しい」とその弱さや困難を正直に打ち明けてくれるからこそ、保育の環境は、子どもにとって居心地の良い、あるいは安全な場所へと変えることができます。もし、子どもたちが、そうした弱さを出すのは良くないことだと思ってしまったら、危険なことにもつながってしまいます。

ですので、そこで働く人たちは、弱さを出すお手本になってよいと思います。もちろん、単純に子どもたちにそれを言えばよい、ということではありませんが、自分自身が安心して周りの人に助けを求めることができる、という姿勢、態度でいられることはとても大切で、その雰囲気はきっと子どもたちにも伝わっていくと思います。

そこで、柳城においては、「困った」、「助けて」と言う練習をされることをおすすめしたいと思います。何か困ったことが起きたら、周りの人に、ちょっとだけ勇気を持って、「助けてほしい」と話していただきたいと思うのです。すると、もしかしたら、これまで皆さんが経験したことのないような優しさが、実は皆さんの周りに大きく広がっていることに、気がつくこともあるかもしれません。

パウロは、次のように書いています。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」自らの弱さを、ないかのように、隠すようにして過ごすのではなく、大切にしながら、この柳城での学び、働きを、続けてまいりたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


学食花壇

【マタイによる福音書 6:25-26】
6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

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テレビCMを見ると、その性質上、概ね一つの似たようなことを思うようになっています。それは、この商品を買うことによって、あるいは、このサービスを選ぶことによって、あなたの生活は、このようにもっとよくなりますよ、ということです。裏を返せば、それがない今のあなたの暮らしは不便ですよ、あなたの人生は不十分ですよ、ということです。したがって、私たちは大量のコマーシャルを通じて、今の自分の暮らしは不十分だ、まだまだダメだと思い、至らない自分を埋めるために、その商品を買うことで、あるいはそのサービスを手にすることで、もっといい生活、もっといい人生が待っていると思うようになりがちです。そのようにして、私たちは多かれ少なかれ、今の自分の生活が、そして今の自分自身が、不十分だと考えてしまっていることがあると思います。

今日の聖書で、イエスは次のように言っています。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切」だと。

食べ物や着るものは、確かに生きるために必要ではあります。しかしながら私たちは、生きる上で必要なもの以上に、もっとよいもの、もっと快適なもの、もっと便利なものと、思うようになっているような気がします。そして、それを手にしている未来の自分が頭から離れず、今日ではなく明日のことばかりを考えて生きようとしてしいる傾向があります。

私たちは、何かを手に入れた将来の自分よりも、まずは今の自分をもっと大切にしたいと思うのです。これではだめだ、不十分だ、こんな自分ではだめだと否定してしまいたくなることがあるかもしれません。確かに、そう思うことが必要な場合もあるかもしれません。しかし、ここに生かされている自分自身を肯定することは、今の私たちに、とても重要なことのように思います。

イエスは言います。「空の鳥をよく見なさい」と。鳥は種も蒔かず、刈り入れもしません。しかし、神は必要なものを与え、鳥を養っておられると。本当に必要なものは備えられており、そして、他でもない自分という存在そのものが、神によってすでに与えられています。

「命は食べ物よりも大切」だとイエスは言います。何かで着飾っているあなた、何かを所有しているあなた、ではなく、あなた自身が大切なのだと、イエスは語りかけておられます。(チャプレン 相原 太郎)


ランタナ

【ローマの信徒への手紙 8:26】

8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

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【マタイによる福音書7:9-12】

7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

これまでの生活の中で、「自分がされたくないことは、他の人にもしてはだめ」、「自分が嫌だ、迷惑だ、と思うことは、他の人にもしないように」と、何度も言われてきたと思います。そのように言われてきた私たちは、普段の生活の中で、できるだけ人に迷惑がられないよう距離をとったり、余計なことを言わないようにしたりしがちです。ですので、私たちは、お互いの距離がとられていたり、余計な会話をしないで済ませられる場所に行ったりすると、便利だ、快適だ、と思うことがあると思います。

たとえば、コンビニです。コンビニで会話をすることはほとんどありません。コンビニの店員さんから名前で呼びかけられ、「最近どうしていますか?」「今日は何を買いに来たのですか?」などとパーソナルなことを聞かれたら、面倒だと思うようになっています。

コンビニ、ショッピングモール、ネット通販。現代の生活では、人間的な関係性を断ち切り、商品と直接つながることが、便利で快適だと感じるようになっているところがあります。そこでは、確かに、お互いに迷惑をかけることは回避できるかもしれません。

今日の聖書の中に、「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、人にしなさい」というイエスの言葉がありました。「人にしてもらいたくないこと、嫌だと思うことは、他の人にもしないように」ではなく、「人にしてもらいたいことを、人にしなさい」です。

「他の人にもしないように」は、今、説明しましたように、人と人とが離れる方向へと向かいがちです。一方、「人にしてもらいたいことを、人にしなさい」というイエスのメッセージは、人と人が積極的にかかわる方向を示しています。

これは、簡単なようで簡単ではありません。というのも、自分がしてほしいと思うことが、必ずしもその相手にとっては、してほしいと思うとは限らないからです。たとえば、電車の中でせっかく席を譲ろうとしたのに断られた、ということはよくあることです。

人にしてほしいことをしようとすると、かえって迷惑になってしまう、ということ。お互い人間ですので、そうしたことを完全に避けることはできません。人にしてほしいことをして、かえって、傷つくこともあるかもしれません。

しかし、心の底から自分自身が本当に求めていることが何なのかを徹底して追求し、そのようにして、隣人を大事にし、愛しぬかれたのが、他ならぬイエスでした。

そしてイエスは、今ここにいる私達に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と呼びかけておられます。

そこでです。まずは、柳城にいる間、本当に自分自身がしてほしいことは何かを見極めながら、同時に、これはひょっとしたら迷惑なのではないかと思うレベルを少し緩め、人にしてほしいことを他の人にも、ぜひ、してみていいただきたいと思います。逆に、何か人にしてもらった時には、そんな余計なことをしないで、と思ってしまう場合でもまず、自分がしてほしいことをしてくれた、大切に考えてくれた、と考えてみていただきたいと思います。そのようにして、お互いの違いを認め合いながら、思う存分、安心して、人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にする、という練習を、この柳城でしてみていただけたらと思います。

今日の聖書にこう書かれています。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるちがいない。」本当にその人が必要なものは、最終的には、神が間違いなく与えてくださいます。安心して、人にしてほしいことをしてみていただきたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


シロタエギク

【創世記12:1-2】

12:1 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

今日は1年生が多く参加されていますが、短大生、大学生となって、どのように過ごされていますでしょうか。小学生、中学生、高校生までとは、随分と勝手が違うこともあるかと思います。最も大きく違うことの一つは、この先の将来が大きく開かれている、という点にあるのではないかと思います。

小学生であれば中学に行くこと、中学生だったら次は高校生になる、ということがあったと思います。大学では、もちろん就職ということがあるわけですが、しかし、それまでの学校選びとは比較にならないほど、広い選択肢があります。学校生活やバイトなどでも、高校のときはかなり違う広がりがあるのではないかと思います。

先ほど、読みました聖書で、神はアブラハムという人物に対して、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言います。そしてアブラハムは、神の言葉に従って、故郷を離れ、まだ見ぬ世界を目指して旅立ちます。

これだけ聞くと、アブラハムは神の命令に縛られて窮屈そうと思うかもしれません。しかしこの物語は、何かに束縛されることとは逆の方向を示しています。先ほどの箇所は次のように言い換えるができます。「あなたの地、あなたの親族、あなたの父の家から離れ、旅立て」。

神は、それまでの血縁や地縁から離れて旅立て、と語るわけです。アブラハムはこれに従って、住み慣れた土地から旅立ち、その後、信仰の父と言われるようになります。

私たちは、家族や親戚からの視線、地域の目、世間の当たり前、社会の常識に縛られながら生きています。今日の聖書の箇所は、そのような私たちを縛っている当たり前、秩序、常識から離れ、旅立つことを促しています。

そして大学での学びは、実は、この神の呼びかけに応えることに他ならないと思います。これまで当たり前だと思っていたことから離れてみる、社会の常識を疑ってみる、ということが大学では求められていますし、そういうことができる環境が用意されています。

高校までの生活の中で、皆さまは、多かれ少なかれ、この世界・社会に生きづらさ、矛盾を感じてこられたのではないかと思います。そんな私たちに、神は、今、よびかけています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。皆さまの前は、あのアブラハムの旅立ちの時のように、目的地が何も見えない砂漠があるだけに見えるかもしれません。しかし、その先には、私たちが、今まで、思いもしなかった場所が広がっています。

神が示す地に向けて、これまでの当たり前、常識から離れて、ご一緒に旅をすることができればと願っています。(チャプレン 相原 太郎)


フレーベル流の模様折り紙

【コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:14】

12:14 わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。

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