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【マタイによる福音書22:37-40】

22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

「隣人を自分のように愛しなさい。」

いわゆる隣人愛です。隣人愛というと、自分を犠牲にして他の人のために働く、というように聞こえる人もいるかもしれません。自分のことは放っておいても、他の人のため、子どもたちのため、あるいは学生のために頑張る。素晴らしいことのように思えますが、少し注意が必要です。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

「自分のように愛しなさい」です。隣人を自分よりも愛しなさい、ではありません。自分を愛するのと同じように、隣人を愛しなさい、と語られています。隣人を愛する、その前提に、自分を愛する、ということがあるわけです。

愛する、という言葉は、大切にするという言葉に置き換えることもできます。自分を大切にするように隣人を大切にする、ということです。

たとえば、幼稚園の先生たちが、子どもたちのことを大切だと思って、連日連夜、自分の身を削って、健康を損ないながら、次の日の準備をしているとしたら、どうでしょう。自分の身を削る、ということは、一見美しいことのようにも思えます。私自身もそういうところがありますが、そうしたことが自分自身の喜びであると感じることもあるかもしれません。しかし一方で、実は、自分を大切にしていない、ということにもなりかねません。自分を大切にする、というのは、考えてみますと、案外簡単なことではないかもしれません。

イエスは、隣人だけでなく、もちろん自分だけでもなく、隣人も、そして自分も大切にしなさい、と言っておられます。そしてそこには、神が、すべての人を愛しておられる、という大前提があります。神は、すべての人を大切にしておられる。それはもちろん、ここにいるお一人お一人もそこに含まれます。したがって、皆さまが、自分を大切にしない、どうでもよい、と思うことを、神は決してよしとされないわけです。

ですので、隣人を大切にする、その基礎として、ぜひ自分自身を、神から与えられた、かけがえのないものとして慈しんでいただきたい、と思うのです。

「隣人を自分のように愛しなさい。」

隣人も自分も大切にする、そのことを思いながら、今日も柳城での学び、働きの時を過ごしていただければと思います。(チャプレン 相原 太郎)


イトバハルシャギク

【出エジプト記 3:11-12】
3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

この春、この異常事態の中で、大きな不安の中で過ごされてきたことと思います。いつになったら、学校が始まるのだろう、学校が始まっても実習は大丈夫だろうか、資格はちゃんと取れるのか、ちゃんと就職できるか。様々な不安を抱えながら、今日に至っていると思います。

そして、聖書の中にも、そのような、大きな不安を抱えながら前に進んだ人物が登場します。モーセ、という人です。聖書に出てくる超有名人物で、何度も映画化されていますので、ご存知の方もいるかもしれません。

モーセは、エジプトの王子でした。しかし、彼は、実は、もともとは奴隷の子でした。事情があって親に捨てられ、王家に拾われ、エジプトの王子として成長しました。その頃、エジプトでは、奴隷たちが、ピラミッドの建設現場などで働かされていました。

モーセは、ある時、自分が、あの奴隷たちと同じ民族の出身だ、ということを知ります。彼らがひどい扱いを受けていることに耐えられなくなって、王様の宮殿から逃げてしまいます。しばらく逃亡生活を送っていたのですが、そんなモーセに、神の声が聞こえてきました。

神は言います。「私は、エジプトの奴隷たちの苦しみ、痛みを知った。彼らをエジプトから救い出す。」そしてモーセに、「民をエジプトから導き出せ」と命じます。しかし、モーセは、いやいや、それは無理だろうと、自分にそんなことできるのかと、不安を神に訴えます。

すると神は、そのように、おじけづいているモーセに対して、こう語りかけます。

「わたしは、必ず、あなたとともにいる。」

これは、聖書全体のメッセージを一言で表現するような、力に満ちた言葉、いわばパワーワードです。神はいついかなる時でも、私達と共にいてくださる。不安の中にあったモーセは、この言葉を胸に、ついにエジプトの王に立ち向かい、奴隷であった民と共に、エジプトを脱出します。

さて、4月から、私はこの柳城のチャプレンを命じられたのですが、大学のチャプレンとして働くこと自体初めてですし、また、新型コロナの影響もあり、自分に、チャプレンという大切な働きが務まるだろうか、学生の皆さんときちんと関われるのだろうかと、様々な不安があります。そして、私以上に、皆さまは大きな不安の中で、この新学期をスタートさせているはずです。

そこで、今日、ぜひ覚えていただきたいのは、そうした不安の中にいる皆さまに、神は、あのパワーワード、3000年前、不安の中にあったモーセに、伝えた言葉と、同じ言葉、「わたしは必ずあなたとともにいる」と今日も呼びかけておられる、ということです。「わたしは必ずあなたとともにいる。」私が一緒だ、だから大丈夫と、神は、言ってくださっています。

これからの新学期、ときには落ち込んだり、挫折しかけたりすることがあるかもしれません。しかしながら、神は、そうした不安や悩みを、自分の事のよう思い、「わたしは必ずあなたとともにいる」と、言っておられることを、ぜひ覚えていただきたいと思います。

皆さまのこの1年の学生生活の中に、神がいつも、ともにおられることを、お祈りいたします。(チャプレン 相原太郎)

柳城と同じ日本聖公会に連なる、立教大学と聖路加国際大学のチャペルに行ってきました!!

名付けて「立教・聖路加CV(チャペル・ビジット)」東京にある2つの大学を訪問する交流企画です。

日本聖公会関係学校のチャペル間交流の第二弾として、聖路加国際大学チャペルを初めて訪問し、立教大学ではクリスマスの恒例イベントのキャロリングに参加させていただきました 

聖路加国際大学チャペル入口ホールにて

(聖路加国際大学チャペル入口ホールにて)

前回3月の訪問が実現したきっかけは、東日本大震災が起こった3.11でした。柳城から4名の学生と2名の教職員がこの日の礼拝に参加して、被害にあわれた方の幸福や復興を立教大学のみなさまや地域の方々とともに祈りました。このチャペル訪問の目的は、同じ聖公会関係学校である立教大学とのチャペル間交流の道を開き、両大学の交流を深めるためでした。

その訪問を継承したのが、今回の「立教・聖路加CV」です。前回訪問した学生のうち、授業のない3人の保育専攻の学生が参加しました。

(立教学院諸聖徒礼拝堂(立教大学池袋キャンパス)にて)

初めて訪問した3月の時よりもクリスマス仕様に綺麗に彩られていて、感動しました 一年も経っていないのに、懐かしい気持ちになって、また訪問したいなと思う大学です!!

 

キャロリングでは、素敵な入れ物に入ったロウソクを持ち、立教大学の学生の皆さんと一緒に、聖歌を歌いながら池袋の町を歩きました★ ★

ハンドベルや聖歌隊の方の演奏会では本当に感動しました( ´∀`)✨

(池袋西口の街をキャロリング)

素敵な演奏会を道行く人が足を止め音楽に聴き入っていました!

初めてのキャロリングも、地域の方との繋がりや実行委員会の方や先生方がいるから、続けていけるんだなーって思います゚+.゚(´▽`)゚+.゚

普段の生活のなかでは味わうことのできない体験をさせていただきました😉

 

聖路加国際大学を訪問した際には、チャペルの聖堂が緊急工事中で、オルガンも拝見することができず、残念でしたが、私たちを迎えてチャペルや聖路加国際病院をすみずみまで案内してくださった聖路加国際病院チャプレンの上田憲明先生の熱意がすごく伝わってきました💛

上田先生が語ってくださったこの病院の歴史も聖公会の歴史も、チャペル・ビジットに参加していなかったらうかがうことのできないお話でした。聖路加国際病院は、ナイチンゲールが看護の仕事の重要さを社会的に確立したイギリスから日本に来た宣教師たちの働きによって開かれ、現在まで看護の重要性が中心におかれたケアを行っているというお話は、子どもをケアする保育の仕事にも通じるところがたくさんありました。このチャペル・ビジットの機会を逃していたとしたら、このような大事なお話をうかがう機会も逃し、出会うべき人に出会うこともできなかっただろうな、とつくづく思います😌

(聖路加国際病院仮チャペル)

これは緊急工事中の聖堂に代わって礼拝堂として現在使われているチャペルです。正面から入る陽光が迎えてくれる、落ち着いた静かな空間でした。この素敵な写真は、参加学生の佐藤さんが撮りました

私は今年度で卒業しますが、名古屋柳城短期大学・名古屋柳城女子大学・立教大学・聖路加国際大学それぞれの発展を想い、そして、後輩たちがこれらの大学の間の交流活動を継いで、いろいろな可能性を探し、実現していくことをお祈りしています😉

(ありさ)

【マタイによる福音書2:16】
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

あけましておめでとうございます。皆さんはどんな思いで新年を迎えましたか。「1年の計は元旦にあり」ということわざもありますが、「きっと今年こそは」と実行計画を心に決めた人もいることでしょう。不言実行でスタートするのもいいかもしれません。

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。(マタイ2:13)           

今日は「わたしの中のヘロデ」という題でお話したいと思います。

ヘロデは極悪非道のヘロデ大王として知られています。彼はローマ帝国がパレスティナを占領した当初はガリラヤ地方の知事でしたがBC37年ごろユダ、ガリラヤ、サマリヤ、ヨルダン川東側地域の王になりました。イエスさまがお生まれになった時は王でしたが、イエスさまがエジプトに逃避しておられた時に死んでいます。(BC4年)

星に導かれて東方の占星術の学者たちがエルサレムに到着し、まず最初に訪ねたのがヘロデ大王の宮殿でした。ユダヤ人の王としてお生まれた方は当然王宮にいると考えたからです。しかし、現実はそうではありませんでした。

ヘロデはメシアとしてイエスさまがユダヤ人の王が生まれたことを知りませんでしたので、早速、祭司長たちや律法学者たちを呼び寄せて詳しく調べさせ、それがベツレヘムの地であることを知り、学者たちを先に行かせ、生まれた場所がわかったら、自分も拝みに行くから、帰りに寄って状況を詳しく知らせるようにと学者たちに伝言します。しかし、学者たちはメシアである幼子を拝んだのち、夢でヘロデのところに寄るなとのお告げを受けたので、ヘロデのところには寄らず帰国してしまいました。

学者たちに騙されたことを知ったヘロデは、大いに怒って、その地方に生まれた2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したのです。

そのとき、主の天使が夢でヨセフに現れ、マリアとイエスさまを連れて、エジプトへ逃れるよう伝えました。イエスさまはヘロデの毒牙を逃れ、ヨセフとマリアに守られながらエジプトへと逃避行されたのです。

さて、2歳以下の男の子を虐殺するという恐ろしいことを断行したヘロデとは一体どんな人物だったのでしょうか。神経過敏で偏執狂的な人物でした。一人の幼子の誕生が、彼をここまで恐怖に落とし入れたのは、衰えつつあった権力支配の座を、ひょっとしたらこの幼子に奪われるのではないだろうかと危うんだからにほかなりません。自分の地位を何が何でも守ろうとする、みじめな自己保身の姿をさらけ出した行動でした。どうすることもできない自分の運命に対する、暴力による最後の悪あがきでした。彼の怒りは自分の思い通りにいかなかったことに対してでもありました。占星術の学者たちに裏切られたという苦々しい思い、自分は絶対であり、誰もが自分の言うことには当然聞き従うに決まっていると思い込んでいた奢り、思い上がりが、彼の怒りを爆発させ、奇行へと走らせたのです。

皮肉なことですが、ヘロデの絶望による言動は、イエスさまによる希望と自由をもたらす新しい時代を到来させました。イエスさまの到来は闇の力、罪の支配のもとにある悪の力が衰退していくことを指し示すものでした。

今日の社会の中におけるヘロデ、わたしの中のヘロデとは何でしょうか。

日本でも法の下に公然となされる死刑執行、妊娠中絶、安楽死、性的不品行、蔓延している汚職のなどの闇の業は、まさにヘロデの業です。これらの闇の業、ヘロデの業が勝利している、勝っているようにさえ見えることが多い現実の社会です。仕方がない、諦めるしかないとわたしの中のヘロデを肯定して、希望を捨てかけてはいないでしょうか。自分の我を通すために、大切な人を無視したり、軽蔑したりしていないでしょうか。ひょっとしたら、知らず知らずのうちに、人を窮地に陥れてはいないでしょうか。

あの残虐極まりないヘロデが、今、わたしの中で生きて働いていることに気づくことが重要です。そんなヘロデもまだほんの幼子に過ぎなかったイエスさまの光によって、その心が恐怖でいっぱいになったのです。イエスさまはわたしの中のヘロデに気づかせ、新しく立ち上がり、再出発する力をくださいます。

幼子イエスさまはわたしたちの周囲にいます。皆さんが実習に行ったり、職場として働く保育の場、幼稚園、子ども園、保育園などの幼児の中に幼子イエスさまはいらっしゃいます。わたしの中のヘロデに気づきを与えてくれる存在、それが幼児たちです。幼子から学ぶ姿勢を常に忘れずに進んで行ってください。(チャプレン大西 修)

クリスマスのお祝いムードも冷めやらぬ12/28は、カトリック教会にとっては幼子(おさなご)殉教者を記念する日とされています。幼子イエス・キリストの身代わりとして、当時の王によって殺された子どもたちをしのぶ日です。

その根拠とされる聖書箇所が、今回扱われます。ヘロデ王が支配するユダヤの地へ、3人の学者らが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方、つまりイエス・キリストは、どこにおられますか。」と恐れもなしに乗り込んでくるのです。ヘロデ王にとっては寝耳に水。「俺を無視して、次の王を勝手に決めるな!」という状況ですね。しかし彼は、幼子イエスの居場所を突き止めて殺そうという悪知恵を思いつき、その学者らを泳がせます。でも、学者らは神のお告げによってヘロデ王に場所を知らせぬまま帰国してしまいました。

怒ったヘロデ王は、イエスの誕生を告げる星が現れたとされる時期を特定して、イエスは現在2歳以下であろうと確信し、それなら、この一帯のその歳以下の男の子を全部殺してしまえば探す必要などなくなると、またもや悪知恵を働かせて実行させるのでした。

さて、このヘロデの悪行を他人事とは思わずに、じっくりと考えてみたいというのが今回のテーマです。人間は、可能性としては、どんな罪をも犯すことができるからです。

お待ちしています(^_^)/

✝ ✝ ✝

●日時:1月7日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「わたしの中のヘロデ」
聖書箇所:【マタイによる福音書2:16】
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

★1,2月の誕生日の祈りをします。
★通常の大学礼拝は、今回で最終となります。

12月18日(火)に行なわれた礼拝の模様をお届けします。

●前奏:扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏「牧人ひつじを」

 

●点火の祈り
「義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますように。」

 
 

●聖歌  第69番「もろびとこぞりて」

●ページェント:柴田ゼミ学生、「キリスト教保育」受講生

1 受胎告知
2 ベツレヘムへの旅
3 野の羊飼いと天使
4 み子の誕生と羊飼いの礼拝
5 占星術の博士たちの礼拝

 
 
 
 
 
 

●福音書【ヨハネによる福音書 1:1-5、14】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

●クリスマスメッセージ:チャプレン 主教 大西 修
こちらでご覧ください】

●ハンドベルによる演奏:扶瀬ゼミ学生
「いのちの奇跡」
フルート:中西 美月 マリンバ:広瀬 美月 編曲:扶瀬 絵梨奈

 

●聖歌 第76番「かいばおけの干し草に」

●奉献の祈り

●聖歌 第91番「荒野のはてに」

●聖歌「おほしがひかる」

 

●主の祈り(起立のまま)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

●諸祈祷(起立のまま)

・名古屋柳城短期大学のための祈り
・東日本大震災と熊本地震を受けて―祈りをともに
・アッシジの聖フランシスの祈り
あなたの平和を人々にもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎(にく)しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、
疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇(くらやみ)には光を、
悲しみのあるところには喜びを、
もっていくことができますように。
慰(なぐさ)められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを、
求める心をお与えください。
私たちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
自分自身に死ぬことによって
永遠のいのちをいただくのですから。

●祝祷

●特別活動奨励奨学生・課外活動団体の表彰式(一同着席)

●聖歌 第81番「神には栄え」

●後奏

 

✝ ✝ ✝

福音書を読めば分かる通り、イエス・キリストは約3年間の宣教活動を通して、人類にまことの愛を教えてくださいました。だから、クリスマスはその愛を一年で一番熱心にチャレンジする日ではないでしょうか。たとえイエスを知らなくても、この日に何らかの愛が実践できれば、クリスマスの意味は理解できていることになります。

その意味で、礼拝案内でも紹介した次の言葉は、たいへん参考になるでしょう。

『クリスマスがやってくるといつも思うんですが、神の名と起源に畏敬の念をいただくことは置いといても、クリスマスはクリスマスなりにいいものだと思うんですよ。親切になり、許しあえ、慈悲ぶかく、楽しいときでしょう。』

今年も11月の初旬から町のあちこちにイルミネーションが輝き始め、年の瀬の1大イベントとしてのクリスマスを迎えようとしています。

神のみ子である救い主イエスさまが全人類の救いのために、人間の姿をとってこの世にお生まれになった御降誕(クリスマス)の出来事を、心からの感謝と喜びをもってお祝いし、また再び来られる救い主イエスさまを、祈りのうちに待ち望む備えの時として、降臨節(アドベント12月1日から24日まで)を過ごしています。

そんな中でふと考えることがあります。クリスマスって一体何なの、一体どこにあるのだろうかと。心の目をしっかり見開いて、静まって見つめないとクリスマスが見えてこないのではないかと思います。ひょっとしたらキリスト教の精神を掲げているわたしたちの学院においても、クリスマスを祝う意味が薄らぎつつあるのではないか、そんな不信仰ともいえる思いが脳裏をかすめるのです。自己満足に陥り、自分だけのしあわせを追い求め、今年もクリスマスを当たり前のことのように迎えようとしている、そんな生き方でいいのかと、今わたしたちに問われているのではないでしょうか。

東日本大震災からやがて9年を迎えようとしている今この時にもなお、寒さの中で多くの不安を抱きつつ、厳しい生活を余儀なくされているたくさんの被災された人々に思いを馳せる時、そのような人々の中にこそ、本当のクリスマスが目に見えないけれども確かにやって来ているのではないかと思うのです。なぜなら人間には想像も出来ないような方法・手段をもって、人類の歴史に働きかけてこられる神が、インマヌエル(神は我々と共におられる)と呼ばれるイエスさまをキリスト(救い主)としてこの世にお遣わしになったからです。

なぜ、イエスさまは臭気漂う、薄暗く、むさ苦しい家畜小屋にお生まれになったのでしょうか。イエスさまは、路上に過ごす人々や、避難所や仮設住宅で生活する人々、孤独な人、痛み、苦しみ、数々の悩みや病いの中にある人々、愛に飢え渇いている人々、家庭内暴力に脅えている子供や婦人たちと共におられ、一緒に歩まれるお方だからです。

飼い葉おけに寝かされている乳飲み子の姿の中に、神がどれほど深く人類を愛しておられるかを窺い知ることができます。神が人となられてこの世に来られ、人には見えにくい影の部分に愛をもって入ってこられ、人と同じ生き方をなさるためにおいでになったのです。

ルカによる福音書では、最初に、救い主誕生の知らせが野宿して羊の番をしていた羊飼いに伝えられました。これは、大変意味深いことです。

その当時、羊飼いは貧しく、卑しい身分の者とされていました。ローマ帝国の圧政下にあって、苦悩の中にあえぐ人々を象徴するような存在でした。救い主誕生の知らせは身分の高い王侯貴族などにではなく、低い身分に追いやられ、差別され、弱い立場にある人々に伝えられ、その人々のために救い主が来られたことを教えているのです。

マタイによる福音書には、闇を照らす光として来られたイエスさまをキリスト(救い主)と信じ、東方の国から遠路はるばるベツレヘムにやって来た占星術の学者たちの話があります。

ところで、クリスマスの話は夜(闇)と深い関わりがあります。イエスさまが夜半に生まれたかどうかは定かではありませんが、イエスさまの到来が闇との関わりの中で受けとめられていることは確かです。ヨハネによる福音書はイエスさまを人間を照らす光とし、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と記しています。

闇の中に生きる人間にとって、イエスさまこそ光であり、人類の闇を照らす光そのものなのです。闇とは人々の心の闇、人生の悲哀、貧しさ、病気、孤独、罪のしがらみ、不正な社会における差別の現実などを指します。イエスさまが来られたのは、そのような闇の現実に光を当て、白日のもとにさらすことによって、闇を退け、闇から人々を解放するためでした。

その光であるイエスさまにお会いするため、羊飼いたちは家畜小屋へと急ぎ、占星術の学者たちは遠路はるばる旅をしたのです。そのためには苦しみと忍耐に立ち向かう大決断を必要としました。

今夕はキャンドル・サービス(ろうそくの火による礼拝、サービスとは礼拝の意味です)が行われています。闇を照らす光としてこの世においでになったイエスさまを、わたしたちのうちに感謝と喜びをもってお迎えする礼拝です。

本当の喜びを味わうためには、必ず、苦しみと忍耐が伴います。

皆さんが教育実習、保育実習で本当の喜びを味わいたいならば、きっと苦しみと忍耐が必要になるに違いありません。それを避けることはできません。

本当のクリスマスを迎えるわたしたちに最も必要なことは、マザー・テレサの次の言葉に要約されます。

イエスさまが、わたしを愛してくださったように、
互いに愛し合いなさい。
イエスさまは、わたしたちのために、命をささげてくださいました。
それは、ちいさなことではありません。
ですから、わたしたちも、自分にとっていちばん大切なものを
差し出さなければなりません。

みなさん、クリスマスおめでとうございます!

(チャプレン主教 大西 修)

 

そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。」(ルカ3:7~8)

街はクリスマスシーズン。人々の心を浮き立たせる光と色に溢れています。

しかしイエス・キリストの御生誕を待ち望むこの時期は、クリスチャンにとって、自分の生き方や日々の過ごし方を省みる静かな祈りの時となっています。

私は今回、そのような今、洗礼者ヨハネの教えを学ぶことの意味を感じています。

当時のユダヤは旧約聖書にあるダビデ王の栄光ある時代とは異なり、「風前の灯火」の状態でした。宗教指導者らは堕落し、神に仕える大祭司でさえも、商人と手を組んで、エルサレム神殿において儲けを生み出すシステムを作っていました。

そのような時代に、神は、洗礼者ヨハネを登場させます。

今回、ヨハネの洗礼は「宣言」であったと私は知りました。

それは、あくまでも悔い改めのスタートラインにすぎなかったのです。ところが民衆はヨハネの洗礼を誤解しました。洗礼を受けたら許され、神にずっと救ってもらえると…。そのような民衆の愚かな思いをヨハネは「まむしの子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ(3:7-8)」という言葉を使って叱りつけました。

さらに主をお迎えする前に心を整えておきなさい。新しい世では人間は平等になる。不正の道や悪の道に進まないよう気をつけなさいと諭しました。

ヨハネは自分を脇役に徹します。そして「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。(ヨハネ3:29)」 と語るのです。

私はヨハネの献身、謙遜さの深さを感じると共に、その後私たちのため、新しい世を作られたイエス・キリストの道の厳しさを知ります。

ルカ通読も次回は10回を迎えます。次回も静かに思いを巡らす学びの中で、人として誕生なされたイエス・キリストの姿を辿ります。(Y)


学食の生花

今年の表紙には、折り紙で作られた壁面作品が選ばれました。カードに記載された説明書きは以下の通りです。

✝ ✝ ✝

このクリスマスツリーは折り紙で作られています。「幼児教育の祖」と言われるフレーベルが教育に取り入れた折り紙を基本にして、園芸美化サークル(当時は総務課園芸ボランティア)のメンバーが工夫を凝らしました。本学院の創設者であるマーガレット・ヤング宣教師はこのフレーベルの教育方法を取り入れて保姆養成所と柳城幼稚園を開設し、キリスト教的な人間教育を母子に施すことを通して日本のために献身しました。このツリーは、その意思を光り輝かせるための作品でもあります。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(2:49)

今回は12歳のイエスが登場します。

イエスは成人式(当時のユダヤ男子は13歳)を翌年に控え、過越祭のため両親とともにエルサレムに上られました。その帰り道、イエスとはぐれてしまった両親は慌ててエルサレムに戻ります。

そして、「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられる(2:46)」少年イエスを見つけたのです。

その時マリアは「お父さんもわたしも心配して捜していたのです(2:48)。」とイエスを叱りました。

ところが彼は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか(2:49)。」と逆に問われたのです。

両親とイエスの姿はとても対照的です。実際、両親はイエスの言葉も姿も理解出来なかったのです。

加えて記事では、共に神殿で討論していた律法学者らがイエスの知性や理解に驚いている様子も表されています。(2:47)

私は今回、12歳のイエスが既に自分の使命を理解していたことを知りました。キーワードは「自分の父の家」です。彼は父(神)との個人的なつながりを意識できる段階に達していたのです。「家」と訳されている言葉は単なる指示代名詞ですので、「家」以外にも「役割」みたいな感じで訳される場合もあるそうです。

さて、マリアはこの出来事を心に納めました(=しっかりと記憶した)。私たちも、この日、過越祭に拝した少年イエスこそ、私たち人類の贖罪のため神様から与えられた小羊(捧げもの)だったことを忘れてならないと思います。

これから約20年後、律法学者や権力者たちに「神を冒涜した」という罪で十字架に処されたイエス・キリスト。

今回の聖書箇所は、生涯にわたる「神の子」イエスの生き様をあらわす重要な記事であると私は思いました。

次回も記事の場面をイメージしつつ、自分なりのイエス・キリスト像を求めて学んでいきたいと思います。(Y)


折り紙作品

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