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【マルコによる福音書9:30−37】
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

✝ ✝ ✝

今、お読みしました聖書の記事は、この柳城はもちろんのこと、様々な教会付属の幼稚園や保育園などで大切にされていきた箇所の一つであると思います。

イエスが子どもを抱きかかえるシーン。とても微笑ましい光景でありましょう。

イエスの時代、子どもは、半人前として扱われ、その評価は低いものでした。そんな時代においてイエスは、大人たちが自分たちの中で誰が一番偉いのか、などと議論している、その真ん中に子どもを連れてきて、抱き上げます。そして言います。

「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」子どもを受け入れることは、神を受け入れることなのだ、とイエスは語ります。

大人たち、社会の中で自分がいかに高いポジションにつけるか話す中、社会の隅に追いやられていた子どもを真ん中に招き、抱き上げて高める、そのような光景に、神の働きのダイナミズムを見ることができます。

さて、ここでイエスに抱き上げられている子どもについて、どのようなイメージを持たれますでしょうか。青い空の下、笑顔で、目を輝かせて、イエスを見つめる無邪気で元気な少年・少女、そんなイメージを持たれるかもしれません。

しかし、当時の社会について考えてみますと、ここで登場する子どもたちは、そのようなイメージとはかなり異なっているかもしれません。

イエスの時代、出生時の死亡率は30パーセントに及び、16歳になるまでには、子どもたちの実に60パーセントが亡くなっていたそうです。加えて、飢饉、戦争、社会の混乱の中で、真っ先にその被害を被っていたのは、子どもたちでした。両親が早く亡くなるケースも多く、親を失った戦争孤児も多くいたようです。したがって、実際の様子は次のようなことだったとも考えられます。

国境沿いの、人の多く行き交う町、ローマ軍の駐屯地でもあるカファルナウム。イエスの弟子たちは、そんなカファルナウムに向かう途中、自分たちの中で誰が一番偉いのかなどと論じあっていました。町に入ると、どこからともなく子どもたちが現れます。戦争で家を失い、ボロボロの服を着て、やせ細った体で、旅行中の弟子たちを食い入るように見つめます。毎日の食べ物に事欠く子どもたちは、旅人から何か貰えないかと、弟子たちに必死についていきます。しかし、弟子たちは議論に夢中で、子どもたちの存在に気づくこともありません。あるいは気づかないふりをしていたのかもしれません。

一行はカファルナウムの滞在先に到着します。子どもたちもついてきました。イエスは弟子たちに尋ねます。「途中で何を話していたのか。」弟子たちは黙っていました。するとイエスは、子どもを弟子たちの真ん中に呼び寄せて、抱き上げ、そして言います。「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」弟子たちは、そこで初めて、子どもたちが一緒だったことに気づくのでした。

イエスが抱き上げた子どもとは、そんな厳しい状況の中にいる子どもたちの一人であったと考えるほうが自然なのかもしれません。

このように考えてみますと、私たちがこのシーンで連想する微笑ましい光景とは、ずいぶんと様相が異なります。イエスは、弟子たちも気づくことのない、最も小さな人たちの存在、そしてその痛みに気づき、手を差し伸べ、抱き上げ、そして、彼ら彼女たちこそが、堂々と、この世界の真ん中で生きていいのだ、生きるべきなのだ、と、宣言されるのでした。その時、初めて弟子たちも、自分たちの周りにいた子どもたちの存在、尊厳に気付かされるのでありました。

現代においても、私たちが気づかないところで痛みを負い、不安を抱えている人たちがいます。私たちもまた、その一人かもしれません。

今、この柳城を始めとする大学生も、かつてない事態の中で大きなストレスをかかえています。しかし大学生の苦労はなかなか周りの人に気づいてもらえません。そんな中でも、必死に学ぼうとしている彼ら彼女たちは、イエスの弟子たちに必死に食らいつこうしていた、あのカファルナウムの子どもたちと重なって見えてきます。

イエスは、そんな人たちの一人ひとりの手を取り、あなたは堂々と真ん中で生きていていいのだ、あなたを受け入れる者は、神を受け入れる者なのだ、と声をかけてくださっています。そしてその尊厳が大切にされるように、世界に働きかけておられます。(チャプレン 相原 太郎)


ドクダミ


【マタイによる福音書 18:21】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【マタイによる福音書  23:8-12】
23:8 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
23:9 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。
23:10 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
23:11 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
23:12 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

✝ ✝ ✝

今お読みしました聖書には、私にとりましても、また、ここにいる先生方にとりましても、ちょっと困ったことが書かれています。

「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない」。「『教師』と呼ばれてもいけない。」

教会におきましても、聖職者を先生と呼ぶのが習慣になっています。イエス自身が「『先生』と呼ばれてはならない」と言うのにもかかわらずです。では、私たちは、これにしたがって、先生と呼ぶのをやめるべきなのでありましょうか。本当に、先生と呼ぶのをやめる、というのも一つの選択肢なのかもしれません。しかし、ここで言われていることは、単純に、そのように呼ぶのをやめればよい、という問題ではなさそうです。

今日の箇所は、イエスが十字架で処刑されるほんの数日前の会話です。イスラエルの中心地であるエルサレムに乗り込んだイエスは、当時の社会の価値規範を形作っていた宗教的政治的指導者たちと大激論となっていました。イエスは彼ら指導者たちを強く批判し、その結果、逮捕され処刑されることになります。したがいまして、今日の箇所は大変に緊迫した中でのイエスによる厳しい発言です。

イエスは言います。
あなたがた指導者たちは「広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。

イエスは、ここで何を問題にしているのでしょう。それは端的に言って自己満足でありましょう。当時の指導者たち、そして現代の私たちもそうですが、人間は人からの評価に敏感にならざるをえません。人がどう見ているかが気になるのは仕方ないとして、問題は、自分を、なにかの権力や権威、名声を利用して、少しでも高いところ、高い位置に置こうとすることです。職場や学校、地域、仲間内での損得勘定を計算し、その中で高いポジションにつくことで、自尊心を保たせ、自分を安心させようとしてしまいます。そこでは、もはや他者への関心、たとえば困難の中にある人などへの関わりは二の次になってしまいます。

イエスは、そのような、仲間内での勝ち負けに終始して、自己中心的になり、自己満足のために生きてしまうこと、他者に関心を持たないことを、強く批判しているわけです。

「先生と呼ばれてはならない」とは、単に、へりくだった振る舞いをしましょう、ということではありません。もし、自分の地位を確保した上で、その地位を守るために、損得勘定を計算して、多少、謙遜に振る舞ってみせる、ということだとしたら、それ自体が問題なわけです。

イエスが、エルサレムで十字架にかかるまでの短い人生の中で、出会い、共に生き、癒やされた人たちは、そもそも、へりくだる余裕などない、社会のどん底に置かれた人たちでありました。だからこそ、イエスは、エルサレムにおいて「先生」と呼ばれることを好む指導者たちを批判せざるを得ませんでした。彼ら指導者たちは、自分たちの立場を守るために、社会の階層、上下関係を生み出す人たちであり、社会の底辺にいる人たちを見て見ぬ振りをしていた人たちであったからです。

「仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とイエスは言います。

私たちに求められていることは、なにか自分の力で、あるいは何かの力を利用して、自分の立場を高めようとすることではありません。それとはまったく逆で、自分の立場が揺らいだり低くなっていったりすることを恐れずに、どん底にある人々に仕えること、高くなるのではなく、下降していく生き方こそが求められています。イエスは、輝かしい神殿ではなく、むしろ、そうした苦しみや痛みの多い底辺において、今も生きて働いておられることを覚えたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


キンカン

【マタイによる福音書 18:21】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

〈アイコンをクリックすると下原太介チャプレンのお話が聞けます〉

【マタイによる福音書6:7-8】
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。

✝ ✝ ✝

皆様の中には、大学入試の時などに、どこかの神社に行って「試験に合格しますように」とお祈りをしたり、合格祈願のお守りなどを買ったりした経験がある方も多いのでないかと思います。

苦しいときの神頼み、と言いいますが、お祈りというと、自分が願うこと、求めることが実現するようにと、祈るのが一般的だと思います。困難な状況に陥った時、「神様、助けて」と祈るのはごく自然な感情で、それ自体は大切なものだと思います。ただ、その祈りが、自分のためだけの祈り、自分勝手な祈りとなり、他の人を貶めることがないか注意が必要だと思います。とは言うものの、私たちはどうしても、自分のことを中心に考えてしまいます。自分勝手、自己中心から、私たちはなかなか逃れることができません。そう考えていきますと、どう祈っていいか分からなくなってしまいます。

イエスは、言います。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。」

「くどくどと祈る」とは、あれがほしい、これをしてほしいと、自分勝手に、自己中心的に、神に自分の希望を要求することを意味します。神は、自分の願いを何でも叶えてくれる安価な四次元ポケットではありません。神が、人間である自分の思った通りのことをしてくれるのであれば、それはもはや神ではなく、自分自身となってしまいます。

そこで私たちは、発想をひっくり返す必要があります。それは、神に自分の願望をお願いする、自分から神に願うことを考えるのではなく、神が求めていることを自分が行うことができるように願う、ということです。

考えてみれば、そもそも神は私たちを理解しています。何が必要かもわかっておられます。そしてそれは、自分が願っていることとは違うことかもしれません。したがって、私たちが祈ることとは、自分が神に依頼して神に動いてもらうことではなく、その逆で、私たちの狭い思いを超えて、自分が神によって動かされること、神の必要性に自分自身の身を委ね、投げ出せることを願う、ということです。つまり、祈るとは委ねることです。

では、具体的にどのように祈ったらよいのでしょうか。その一つの明確な答えこそ、私たちがいつも唱えている「主の祈り」です。

すなわち「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」です。私たちの思いが、自分の願いが、ではなく、神のみこころが私たちの間でおこなわれますようにと祈ることです。

みこころが地にも行われますように、みこころがこの柳城学院にも行われますように、みこころがここにいる私たち一人ひとりにも行われますように。今日もそのように願ってまいりましょう。(チャプレン 相原 太郎)


芝生の水やり

【コリントの信徒への手紙一3:18】
3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。

✝ ✝ ✝

後期が始まりました。残念ながら対面での授業ができない状態で後期を迎えることになってしまいました。まだまだ大変困難な時期が続きますが、この秋、全ての学生が実りある学びのときを送ることができますことをお祈りいたします。

私たちは、毎週、大学礼拝でこのように祈っています。

「共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができますように。」

私たちの学びとは、知識を深めて、真理を悟ることによって、愛をもって互いに仕える者となっていくことにあります。遠隔授業におきましても、そのような学びのときが、切れ目なく続けばと思います。

さて、先ほどお読みしました聖書には、ちょっと妙なことが書かれています。

「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

これは書いたのはキリスト教初期の大宣教者パウロです。

大学の先生方にとっては、あまり気持ちの良いフレーズではないかもしれません。この世の知恵は愚かだ、と断言するパウロは、私たちが日夜努力しているような大学での学び、知恵など、いらないと、否定しているのでしょうか。それは、真理にとって邪魔だ、ということでしょうか。もちろんそんなことはありません。

この言葉は、パウロによって書かれたコリントの信徒への手紙という文書にあるものです。

コリントとは、ギリシャの首都アテネから80キロほどの場所にある地方都市です。パウロも一時期そのコリントに滞在し、仕事をしながらイエスの教えを広めていました。ところが、パウロがコリントを去った後、彼らは、いくつものグループに分かれてしまいました。自分たちはパウロにつく、いやいや私たちはペトロだ、私はキリストだと、互いに自分の正当性、優位性を主張するようになりました。そして、自分の持つ知恵や経験を誇り、他者を見下すようになっていました。「自分こそ、知恵ある者だ」と。パウロは、そうしたこと自体が間違いなのだと、コリントの信徒への手紙で指摘しているわけです。

パウロが批判したのは、知識を得るということそれ自体ではありません。そうではなく、自分たちの知識や考え方、何らかの主義主張を絶対視する、ということです。それは、ひいては、神以外の何かを絶対視してしまうこと、神以外のものを神としてしまうことになりかねません。パウロが問題にしたのは、そういうことでありました。

このことは、キリスト教大学である私たちにとっても、大切な軸となるものを教えてくれています。すなわち、私たちは、神以外の何かを絶対視することを徹底して避けること、あらゆる定説や常識を相対化してみること、つまり神以外のものを神としないこと。これらが私たちにとって決してぶれてはいけない軸であると思うのです。

神以外のものを神としないのですから、それは一方で、この世界のあらゆる価値観、規範、常識、トレンド、ニーズなどから、私たちは自由になることができます。むしろ、私たちはそれらから自由になって真理を求め続けることが求められているわけです。

学校教育においては、どうしても、現在の経済社会が求める人材像に合うように、学生のスペックをカスタマイズしなければならない、という考えに押されてしまいがちなところがあります。しかし、学校はロボット工場ではないわけですから、そうした要請はいったんカッコに入れる必要があると思います。

私たちが目指している人材ということであれば、それは、真理を求め続け、愛をもって互いに仕える人、ということになります。愛をもって仕えること、それは必ずしもこの世の価値観と噛み合うとはかぎりません。イエスは、その過激なまでの深い愛のわざゆえに、当時の社会によって十字架で抹殺されてしまいました。そのように、真理を求め、愛をもって仕えようとすることによって、社会から愚か者という烙印を押されてしまうかもしれません。しかし、それでもなお、真理を探求すること、そして互いに愛することをあきらめないこと、それこそが私たちに求められていることでありましょう。

パウロは言いいます。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」

私たちは愚か者と言われることを恐れずに、真理を探求するものでありたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


6号館の花壇

【創世記2:4b-7】
2:4b主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

✝ ✝ ✝

聖書の創世記の冒頭には、神が人間を創造したことについて、2つの異なるストーリーが連続して掲載されています。一つは、創世記の第1章で展開されているものです。1日目に光を創造し、2日目に大空を作り、そして6日目に、「神は御自分にかたどって人間を創造された。神にかたどって創造された」という物語です。

もう一つの人間の創造物語が創世記の第2章にあります。それが先程お読みした箇所です。その記事によれば、神は、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」というものです。先程の、神にかたどって想像されたという箇所とは趣が異なります。

この創世記は、いくつかの資料を組み合わせて編纂された、と言われています。そして、最初に出てくる人間の創造物語、すなわち6日目に、神にかたどって人を創造された、というストーリーは、紀元前6世紀に語られたものと言われています。その頃、イスラエルの人々は自分の国ではなく、遠くバビロニア帝国の領土に連行されて生活していました。というのも、イスラエル王国は、バビロニアによって滅ぼされてしまったからです。そんな、とても厳しい状況の中で語られたのが、この第1章です。それが、人は本来、神によって創造された素晴らしいものだ、というものです。「神はお造りなったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」という物語は、絶望的な状況に置かれていた人々に慰めと勇気を与えるメッセージとなりました。

一方、今日お読みしました第二の物語、すなわち、人間は土から作られた、というストーリーが語られたのは、先程の捕虜時代よりも、何百年も前のことだと言われています。その頃、イスラエル王国は、最も繁栄を極めていた時代でした。そうした時代にあって、この物語は、人間が自分たちで何でもできる、という、人間の力への過信を抑制する意味がありました。人間は土の塵から作られたものに過ぎない。神が息を吹きかけられたからこそ、私たちは生かされている。人間が自分の力で何でもできると思うのは間違いだ、というメッセージは、驕り高ぶる人々に反省と抑制を促すものでした。

人間の創造について、タイプの異なる2つの物語が、同じ創世記に記されていることの意味を私たちは大事にしたいと思うのです。すなわち、人間は、本来良いものとして、神に似せて作られたということ、しかしながら、一方でそれは、土のチリで作られた弱いものであり、神の息、神の恵み抜きには存在し得ない、ということです。

現在、新型コロナウィルスが世界を席巻しています。これまで常識が覆されるような大きな不安の中で、また毎日のように起こる新しい事態への対応に追われれる中で、私たちは翻弄されています。そんな中、人間の弱さを思い知らされることも多いかと思います。これまで当たり前に自分の力でやってこれたと思っていたことが、崩れ去る思いをされていることもあるかと思います。

そんな中で、私たちは弱く、はかないものである、ということを、思い知らされます。しかしながらそれは同時に、私たちが、神に息を吹きかけられて日々生かされている、ということを、思い起こす時でもあるように思います。

そもそも、私たちは自分で息をしているように思いがちですが、自分の力で息をし続けている人はいないわけです。私たちは息をさせられるようにして、生かされています。そう考えますと、私たちの一つ一つの息とは、実は、神から与えられたもの、神が吹き入れられた息によるもの、と考えても良いかもしれません。

様々な困難に翻弄されてしまったとき、ちょっと一息ついてみて、その息こそが、神が吹きかけられた息であり、神の創造の痕跡であり、そして、その働きは今も自分の中で続いているのだということに思いを馳せたいと思います。そのようにして、今、自分が生かされているのだということを感じながら、この夏を過ごして参りたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


祈り

【マルコによる福音書 3:31-35】
3:31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
3:32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
3:33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
3:34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
3:35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

✝ ✝ ✝

残念ながら再び対面授業が休止になりました。学生の皆さんは、それぞれの家で学ぶことを余儀なくされています。

知り合いの娘さんが、今年4月に東京の美術系の大学に進学しました。その彼女が、最近、漫画を書いてツイッターに投稿し、ちょっとした話題になっています。内容は、大学生になった彼女の日常の様子を描いたものです。主人公である彼女の言葉などを抜粋して少しお読みします。

「私は大学1年生
春から大学に進学したけれど
同級生の顔も知らない。
ひとり部屋にこもり、画面と向き合い
オンライン授業を受ける毎日。

4月。出会いと新生活の始まりのはずが。何も始まらず。
5月。急に始まるオンライン授業。
6月。オンライン授業。課題。
7月。オンライン授業。課題。 
初めて使うパソコン、ソフトに一日中格闘する日々。
相談できる友達や先輩もいない。

「ただいま~。」夜、父が普通に会社から帰宅。
「GO TO トラベル今月スタート。」ニュースキャスターは言っている。

消えていくのは授業日数と変わらない学費。
大学生は、いつまで我慢すればいいのでしょう。」

柳城生も、状況としては、かなり似ていると思います。家庭によって勉強の環境はそれなりに異なるとは思いますが、いずれにせよ、かなりのストレスを抱えながら、それぞれの家で勉強を続けておられると思います。

先ほどお読みした箇所は、イエスが、しばらく外で活動していた後、自分の家に帰った時の様子が描かれている場面です。すでにイエスは噂の人物となっており、大勢の人たちがイエスの家に集まってきました。しかし身内の人達は、外で活躍するイエスを褒めるどころか、イエスはおかしくなってしまったと、彼の行動をやめさせようとします。さらに、イエスの母と兄弟は、イエスの新しい仲間に挨拶するどころか、家の中に入ろうともせず、人に頼んで、イエスを外へと連れ出そうとします。

頼まれた人は、イエスに「母上と兄弟姉妹が捜しておられます」と言います。ところが、イエスはここで衝撃的な発言をします。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。そしてイエスの周りに座っている人を見て、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と答えます。もちろん、これは、比喩の表現ですが、イエスにとっての家、共同体とはどのようなものを意味しているかが、ここによく現れています。

この時、イエスの周りに座っていた人たちとは、たとえば、貧しい人、孤独のうちにある人、病気の人、差別されていた人たちなどでした。したがって、家族だけだった平穏無事な環境は一挙に緊張状態となります。そして、イエスの家族は、彼ら彼女たちを家に迎え入れることはできず、むしろ、イエスから遠ざけようとしました。

イエスにとっての家族とは、いわゆる血縁関係ではありません。また、具体性を欠いた、人類みな家族、でもありません。イエスにとって家族とは、今、ここで、顔と顔を合わせて座っている貧しい民衆たちでした。彼ら彼女たちこそが、「わたしの母、わたしの兄弟」でありました。家族とは、つまり神と隣人への愛によってつながる人たちを意味したのでした。

柳城は、神と隣人に愛をもって仕えることを学び合う場です。そのような場で学んでいる学生が、今、家に帰っています。そして家族がいる中で、愛をもって仕えること、すなわち家族を超え、場合によっては、その家族の平穏無事な場を揺るがすような、隣人への愛の働きを学んでいるわけです。

このように、今、学生たちが経験している緊張とは、イエスが故郷に戻った時に経験したこととつながっているわけです。教職員の方々も、それぞれの家庭や地域などの人間関係の中で、きっと同じような経験をされていることもあると思います。そうした私たち一人ひとりに向けて、イエスは、今、「あなたこそ、わたしの兄弟だ、あなたこそ、わたしの姉妹なのだ」と呼びかけられています。

遠隔授業となってしまいましたが、柳城に連なる私たちは、新たなつながりの中に生きるものとして、神の御心を行う人、すなわち隣人を愛する者として、共に歩んでまいりたいと思います。(チャプレン 相原 太郎)


クローバー

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