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今回取り上げられる福音書には「愚かな金持ちのたとえ」という表題が付いています。裕福に成れたことを神に感謝しようとせずに、自分のためだけに財産を使おうとする愚かな金持ちが、神の裁きによって命を取り上げられてしまうという話。イエス・キリストのこのたとえ話を聞いていた庶民は「そら見たことか」と大喜びしたかもしれませんね。イエスの巧みな話術がここでも炸裂しています。

人や社会の為に生きる人生。柳城がずっと目指してきた道です。礼拝を通して深く心に刻みたいものです。

お待ちしています‼

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●テーマ:「自分の為(な)すことは、誰の為(ため)?」
●聖書箇所:【ルカによる福音書12:21】
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

●勧話:下原太介司祭(名古屋聖マタイ教会牧師、三好丘聖マーガレット幼稚園チャプレン)
●日時:6月4日(火)
3限 13:10~通常礼拝:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~通常礼拝:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:体育館
礼拝直後に「リトリート報告&案内」が、その後には柳城タイム(バスケットボール)が予定されています。

●次回以降の予定
・6/11(火)通常礼拝(第1学生ラウンジ)説教:後藤香織司祭(名古屋聖マルコ教会)
・6/18(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/25(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)」
イエス・キリストが語る「平和」について黙想する際に、同じマタイ福音書にある次のイエスの言葉が、いつも私を深い祈りに導いてくれます。 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。(マタイ10:34)」 これは決して「戦いのススメ」ではありません。別の箇所にある有名なイエスの言葉、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。(マタイ26:52)」がその理由です。

聖書が語る「平和」とは、悪いことが起きていないという静的な状態だけではなく、最高の幸福にいたる動的な状態をも意味しています。例えるなら、人との争いを避けてじっと我慢している状態ではなく、自分や周囲を良い方向へと高めていく積極的な態度と言えましょう。

本当の平和について、ご一緒に黙想しましょう。
お待ちしています!(^^)!

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●テーマ:「平和を実現する人々は、幸いである。」
●聖書箇所:【マタイによる福音書5:9】
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

●説教:大西チャプレン
●日時:5月28日(火)
3限 13:10~通常礼拝: 保育科1年ABクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~通常礼拝: 保育科1年CDクラス、保育専攻科、教職員
●場所:第1学生ラウンジ

●次回以降の予定
・6/4(火)通常礼拝(体育館)説教:下原太介司祭(名古屋聖マタイ教会)
リトリート報告会が行なわれます。
・6/11(火)通常礼拝(第1学生ラウンジ)説教:後藤香織司祭(名古屋聖マルコ教会)
・6/18(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29−31)

今回は申命記とレビ記を引用しながら諭されたイエスの御言葉から、私達が聖書を読み学ぶ際の最も大切な要点について学ぶことが出来ました。

エルサレム入城を果たされたイエスのもとに一人の律法学者が進み出ました。そして「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたのです。

すると、イエスはその問いかけに対し、「神を愛する唯一の証明は律法を守ることだと、あなた達はかたくなに信じている。しかし、聖書には神、そして隣人への愛を一番大事にせよと、ただこれだけが書いてあるではないか。」と仰ったのでした。

イエスの応答は常に理性的でシンプルです。そうすることで律法学者たちに強烈なメッセージを示されたのです。

この記事から私は、現代の私たちも聖書の御言葉を深読みしすぎて「頭でっかち」になっているのではないかなと感じました。私は改めて今回の学びから、聖書は神学のための教科書ではなくて、愛を実践するためのガイドブックであり、その中に記された「愛」はイエス・キリストそのもののお姿であると知りました。

イエスの愛は言葉や掟に頼ることのない、理性に満ちた愛です。「愛」と「甘やかし」の区別が苦手な日本人にとっては、そのシンプルさは冷たく、厳しく感じることもあるかもしれません。しかし私はその根っこに、相手の成長を見据えるような真実の愛を感じるのです。その真実とは、時には耳に痛く刺さるものですが、振り返ってみた時、その愛によって強くなった自分を感じられます。

私は福音書を生活の中に取り入れながら、イエス・キリストの愛を知って、少しずつでも成長していきたいと思います。(Y)


ノースポールの根っこ

私たちが日々唱える「主の祈り」。
その一節に「わたしたちの罪をおゆるしください。」とあります。

クリスチャンでない方がこれを唱えたら、たぶん内心では「私って、罪人だったっけ?」と思うかもしれません。一般的に言うと、私たち日本人には「罪」という言葉に抵抗感があります。「罪人」呼ばわりされるのが嫌で教会に行きたくない、という人も沢山いるようです。人間関係を何よりも大切にしがちな私たちには、神関係における罪の有り様が理解しにくいのでしょう。でも、自分の内面的な罪を意識しないことには、イエス・キリストの本当の愛を感じることは難しいかもしれません。

罪について考える良いチャンスです。
礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●テーマ:「主の祈り」の素晴らしさ
●聖書箇所:【マタイによる福音書6:9-13】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

●説教:大西チャプレン
●日時:5月21日(火)
3限【チャペル】保育科1年ABクラス、保育専攻科、教職員
13:10~通常礼拝
13:50~昭和警察署による学生向け交通安全講話
14:10~御器所交差点付近での交通安全街頭活動
4限【チャペル】保育科1年CDクラス、保育専攻科、教職員
14:50~通常礼拝

●次回以降の予定
・5/28(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/4(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/11(火)通常礼拝(チャペル)説教:後藤香織司祭(名古屋聖マルコ教会)

本学同窓会「のぞみの会」からの素晴らしいプレゼントが今年も届きました!(^^)! 感謝です‼

観劇会もこれで3回目となりました。(過去の記事はこちらで→2015年度2017年度
毎回とも、劇団うりんこさんの丁寧かつシンプルでメッセージ性の強い作品に感謝感激しています。

今回の作品「はなのき村」は、新美南吉の「花のき村と盗人たち」を原作にしたお話しでした。人を疑うことを知らない純朴な人たちに触れることで悪人が悔い改めていくというそのストーリーは、福音書にある「放蕩息子のたとえ」「徴税人ザアカイ」を連想させてくれるものでした。

以前の2作品に比べて、今回は、学生さんの観劇中のリアクションが乏しかったですが、それはたぶん、劇のメッセージが心に深く届いていた証拠かもしれません。チャプレンも語っていた通り、「学生全員にぜひ見て欲しい」作品でした。

「子どもの前に立つ仕事に就くからには、心を豊かにしておいて欲しい」と語った同窓会長さんのスピーチも印象的でした。確かに、子どもを教え導きたいなら、自分自身も学び続けるべきでしょうね。

そういう謙虚な気持ちだけは柳城でシッカリと身につけて欲しいものです。そのツールとして、大学礼拝や今回のような企画を、長年にわたり柳城が大切にしてきたことを誇りにしたいと思います。主に栄光(K)

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (マルコによる福音書10章43~45 節)

わたしたちは誰もが「偉くなりたい」「もっと上の地位につきたい」「みんなから尊敬される人になりたい」、そんな願望をもって生きているのではないでしょうか。

イエスさまの弟子たちもそんな思いをもってイエスさまと起居を共にしていました。

イエスさまの一番の弟子になれたら、きっと、人々からも尊敬され、充実した生活を送れるに違いないと考えていました。そんな弟子たちの様子をご覧になって、イエス様は上記のように言われたのです。あなたたちが「偉くなりたい」「もっと上の地位につきたい」「みんなから尊敬される人になりたい」と思うなら、まずいちばん社会の底辺にいる人、僕(奴隷)の立場に身を置きなさい。奴隷は忍耐をもって主人に仕えることが役目です。けれどもイエスさまはすべての人に仕える奴隷になりなさいと言われました。

「愛をもってわたしはすべての人に仕えるために来たのだ、上げ膳、据え膳で殿様のように特別待遇、優遇されるために来たのではない、全くその反対で、社会の中で人間としての扱いも受けず、苦しみ、悩み、傷つき、病に倒れ、生きる希望もなく、さまよっている人々と共に生き、それらの人々に生きる勇気と希望を与えるために、さらにそれらの人々に代わって苦しみ、悩み、傷つき、病に倒れ、死をも厭わない、それらの人々のために自分の命を献げる」とイエスさまは言われ、そのとおり十字架の上で死なれたのです。

保育者としてこれから生きていこうとして学んでいる皆さんにとって、忘れてはならないことは、皆さんが保育の現場で関わりを持つ子どもたち、教職員、保育士、子どもたちの保護者に仕えることが重要であるということです。

保育に関わる日々は必ず苦難が伴いますが、苦難は忍耐を生み出します。忍耐のない人生はありません。生きている限り、忍耐が必要とされる場面に幾度となく遭遇します。忍耐を避けてはなりません。忍耐はあなたを人間として大きく成長させるからです。それを乗り越えたときに品格(練達)が生まれます。その品格が希望を生みだしていきます。そして希望は失望に終わることはないのです。(ローマの信徒への手紙5:3~5)

キリスト教保育の原点はイエスさまに示された「神の愛」にあります。その「神の愛」はイエスさまのご生涯の中で具体的に示されました。「愛をもって仕えること」が、わたしたちの保育の目指すところ、目標です。子どもたちひとりひとりをしっかり見つめ、子どもたちに歩調を合わせて歩んで行くこと、共に生きていくこと、イエスさまの歩まれた道を忘れずに、絶えず自らを振り返りつつ、前進していくことがわたしたちに求められている生き方ではないでしょうか。(チャプレン 大西 修)


ヒマワリの種蒔き

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)

今回は人間たちの愚かな企てを見抜かれたイエスのお姿から、人間の思いを遥かに超えたイエスの知性・人格について触れることが出来ました。

宮清めの後、群衆の人気をさらに集めたイエスの言葉尻をとらえて陥れようと、ファリサイ派、ヘロデ派の人間がイエスのもとに再びやって来ました。統治国であるローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適っているのかと問答をふっかけるためです。

その直前、彼らはイエスを褒めちぎっています。それ程に、この質問はイエスにとって、「Yes」「No」のどちらに答えても不利なものだったのです。取り巻いていた民衆たちは固唾(かたず)を飲んでその様子を見ていたことでしょう。

狡猾な彼らの下心を見抜いたイエスは「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」(12:15)とおっしゃった後、銀貨を見て誰の肖像で銘か?と、今度はイエスの方から問われました。

そこで「皇帝のものです」と答えたファリサイ派、ヘロデ派の人間に対し、イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、驚くべき返答をなさったのでした。

記事にも、その場にいた人間はそのイエスの答えに驚き入ったと記されています。イエスの言葉を聞いた人々はイエスの答えの真意を考えますが、どうやっても分からずじまい…。きっと頭の中で「?」がさまよっていたことでしょう。

イエスは初めから質問に答えるつもりはなかったのです。「イエスを巧みにやりこめる」と思った人たちの浅はかな企てを、すべて見抜かれていたからです。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という御言葉の真意は、たとえば「政治と信仰とを別々に考えなさい」とかいうものではなくて、ただイエスは「Yes」でも「No」でもない真意の分からない返答をなさったのでした。私たちは、そこにイエスの遥かに超えた知性を確信出来ます。

また、単なる返答ですまさない所にイエスのもう一つの知性である「メッセージ」があると思いました。それは彼らのやり方、下心を「分かっている」というメッセージです。自分たちが思っていた以上に、イエスが遥かに優れた知性をもつ存在だと、この問答の結果ファリサイ派らは理解せざるを得なくなりました。

まさに脅威。「自分たちでは手に負えない男だ。しかしこれ以上生かしておいては、自分たちの立場には有害だ…」こんな風に感じたのではないでしょうか。それこそが彼らの傲(おご)る姿をあらわしています。

今回与えられた解説から私はイエスの神性の尊さを知り、よりいっそうの深い畏敬の念を抱きました。

そしてイエスをもっともっと知りたい!と願います。
次回も主に感謝し、仲間とともに御言葉を学んでいきたいと思います。(Y)


シロツメクサの冠

「サーバント・リーダー」という言葉をご存知でしょうか。召使いを意味する「サーバント」に、指導者の「リーダー」がくっついています。つまりは「召使型リーダー」。一般には「支援型リーダー」と呼ばれるそうでして、その逆が「支配的リーダー」ということになります。今回の聖書箇所は、このサーバント・リーダーについて考えるにはピッタリな場面ですね。

召使型リーダーは地位とか名誉などにはまるで無頓着で、むしろ結果を出すことに集中する人だといえます。支配的リーダーはその逆で「先ず地位が大切」という本能で行動するので人間関係に関心が高くなります。マルコ10:35に登場するゼベダイの子ヤコブとヨハネが後者の典型として描かれているので、なかなか興味深いですね。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

なお、先週に引き続き、観劇会も行われます。4限の礼拝に出席するクラスの皆さんはご期待ください‼

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●テーマ:「忘れてはならないもの」
●聖書箇所:【マルコによる福音書10:43-45】
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

●説教:大西チャプレン
●日時:5月14日(火)
・3限【チャペル】保育科1年ABクラス、保育科2年CDクラス、保育専攻科、教職員
13:10~通常礼拝
・4限【体育館】保育科1年CDクラス、保育科2年ABクラス、保育専攻科、教職員
14:50-15:10 礼拝
15:10-16:20 観劇会(劇団うりんこはなのき村』)

●次回以降の予定
・5/21(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・5/28(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/4(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

有名なイエスさまの山上の説教(垂訓)の中に

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7~8)という言葉が出てきます。皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

柳城では毎朝8時40分~50分の10分間、カフェ棟のキッチン「はらぺこ」で朝の礼拝をしています。聖歌を歌い、主の祈りを唱え、祈りを共にし、聖書のみ言葉を聞き、ショート・メッセージに耳を傾け、代祷と黙祷をし、最後にもう一曲聖歌を歌って終わります。

その中で、共に唱える祈りの一つに次のものがあります。

「主よ、今日もここに集うことができたこと、わたしたちは感謝します。
イエス・キリストが大切にされた、子どもたちのために、
わたしたちは今日も、しっかり学びます。しっかり働きます。
人を教える前に、自分自身を高めます。
どうか、わたしたちに、力と勇気を与えてください。
わたしたちを怠け者にしないでください。
わたしたちは人の役に立ちたいです。
人を愛せる心を与えてください。
主よ、どうかお願いいたします。
イエス・キリストの愛と勇気を、わたしたちにも与えてください。
イエス・キリストは言われます。
『求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。』と。
わたしたちは求め続けます。
主よ、どうか今日も一日、少しでも向上できるよう、わたしたちを導いてください。
この祈り、イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

わたしたちが熱心に真剣に求め、探し、門をたたくことによって、わたしたちの願いが叶えられます。与えられることを信じて求め、見つかることを信じて探し、開けてもらえることを信じて門をたたくことが必要です。信じてひたすら、求め、探し、たたく時、その願いは聞かれます。何を求め、何を探し、どこの門をたたくのか、何のために、誰のために、なぜ、そうするのかが重要なポイントです。自分の願望を満足させるためではなく、人と人との関わりの中で、この願いが実現されるように祈る時、それが叶えられるのです。(チャプレン大西 修)


シオヤトンボ

 

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