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「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:4~7)

チャプレンタイムの中で、高校の時、どこへ修学旅行に行った?と質問したら、そのうちの何と3分の1くらいが「沖縄へ行った」と答えました。それに「広島」「長崎」を加えると、何と修学旅行の行先の6~7割になります。

南の島、トロピカルムード漂う沖縄、異国情緒豊かでハウステンボスなどがある長崎、安芸の宮島など景観に恵まれ、牡蠣やもみじ饅頭で有名な広島ですが、実は「沖縄」」「広島」「長崎」は言うまでもなく、平和学習のための重要な三つの場所(戦跡)なのです。「沖縄」は太平洋戦争末期1945年4月から8月、本土決戦に向けての時間稼ぎの捨て石作戦(持久戦)のため、20万人をこえる人々が亡くなりました。そのうち94,000人が沖縄の一般住民でした。これは県民の4人に一人に相当します。広島の原爆では35万の人口の内14万人、長崎の原爆では24万人の人口のうち74,000人が亡くなりました。名古屋でもB29爆撃機の68回にわたる空襲で約8,000人が亡くなりました。

戦争は人間の理性も良心も麻痺させてしまいます。そして神によって造られた何ものにも代えがたい尊い命を奪ってしまいます。戦争は人間の犯す最も重い罪です。神から与えられたたった一つのかけがえのない命を奪ってしまうからです。人間には人の命を奪う権利はありません。ですから、死刑制度も人が人の命を法律によって奪うことですから、この制度を廃止すべきであると世界各国で叫ばれているのです。(アムネスティーの運動)

創世記では、神の息吹きを受けて生かされている人間の尊厳が語られます。しかし、人間は土の塵で造られた小さく弱い存在なので、神の大きな命の息吹きの中で生きていくことが求められているのです。

「命(ぬち)どぅ宝」とは、恒久平和を求める沖縄の心、沖縄戦の悲惨な体験と今尚続く米軍支配の重圧にあらがいながら、常に願い培ってきた沖縄の心です。人間の尊厳を何よりも重視し、相手を尊び、お互いに支え合い活かし合い、戦争につながる一切の行為を否定し、平和を求める人間性の発露である文化をこよなく愛する沖縄の心を「命(ぬち)どぅ宝」と言います。

ある学生は言いました。楽しいはずの修学旅行が、とっても重く暗い気持ちの旅行になってしまったと。「沖縄から名古屋は見えるけれども、名古屋からは沖縄が見えない。」   沖縄、長崎、広島に行って初めて、わたしたちは沖縄の視点、長崎、広島の視点に立ってものごとを見ることの大切さを学ぶことが出来るのです。

平和は待っていてもやってきません。どんな小さなことでも、平和を実現するための努力を惜しまないこと、また戦争に繋がるようなことは、どんな小さな芽でも早く摘み取る必要があります。多くの犠牲の上に成り立った平和憲法を、しっかり守り抜き、二度と戦争をしない、平和を愛する国であることを声を大にして訴えていきたいものです。

6月23日、沖縄慰霊の日、沖縄戦全戦没者追悼式で糸満市の小学校6年生の少女が読んだ詩「本当の幸せ」をここで紹介します。(朝日新聞6/24 朝刊)

青くきれいな海 この海は どんな景色を見ているのだろうか
爆弾が何発も打ち込まれ ほのおで包まれた町 そんな沖縄を見たのではないだろうか
緑あふれる大地 この大地は どんな声を聞いたのだろうか
けたたましい爆音 泣き叫ぶ幼子 兵士の声や銃声が入り乱れた戦場
そんな沖縄を聞いたのだろうか
青く澄みわたる空 この空は どんなことを思ったのだろうか
緑が消え、町が消え、希望の光を失った島 体が震え心も震えた
いくつもの尊い命が失われたことを知り そんな沖縄に涙したのだろうか
平成時代 私はこの世に生まれた 青くきれいな海 緑あふれる大地 青く澄み渡る空しか知らない私 海や大地や空が七十四年前 何を見て 何を聞き 何を思ったのか
知らない世代が増えている 体験したことはなくとも 戦争の非さんさを 決して繰り返してはいけないことを 伝え継いでいくことは 今に生きる私たちの使命だ
二度と悲しい涙を流さないために この島がこの国がこの世界が 幸せであるように
お金持ちになることや 有名になることが幸せではない 家族と友達と笑い合える
毎日こそが 本当の幸せだ 未来の夢を持つことこそが 最高の幸せだ
「命(ぬち)どぅ宝」 生きているから笑い合える 生きているから未来がある
令和時代 明日への希望を願う新しい時代が始まった この幸せをいつまでも

最後にヒロシマの詩人 峠 三吉の詩ユネスコ憲章を読んで終わります。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよにあるかぎり
くずれぬへいわをへいわをかえせ

「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない。」(1945年 ユネスコ憲章)

(チャプレン大西 修)

今回の聖書は、あのマザー・テレサが好んで良く利用した箇所です。

「わたしが飢えていた時に食べさせてくれ、わたしが見知らない者であったのに、喜んで迎え入れてくれ、裸の時に着せてくれ、病気の時に介抱してくれた。私たちの仕事の土台は、このイエスの言葉なのです。」

40節にあるイエスの言葉「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」を、彼女はこのように実践で活用しました。

私たちにも、このような「座右の銘」が与えられるといいなあと思いますが、どうでしょう。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「何のために生きるのか?」
●聖書箇所:【マタイによる福音書25:31-46】
25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を右に、山羊を左に置く。
25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
25:41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25:45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

●説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)
●日時:7月2日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・7/9(火)通常礼拝(チャペル)お話(3限):成瀬英雄先生 説教(4限):大西チャプレン
・7/16(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/23(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン【前期最終】

「これらの大きな建物を見ているのか。1つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マルコによる福音書13:2)

神殿の境内を出て行く時、一人の弟子がイエスに向かってこう言いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう(13:1)。」するとイエスは表題にある御言葉をお返しなさったのです。

今回学んだ内容は以下の通りです。

・物よりも愛や心を大切にする、イエスの基本姿勢。
・「石が、絶対に崩れ去らない石の(=基礎の石)の上に残されることは決してない。」と訳した方が分かり易い。つまり基礎以外の石は全部破壊されるということ。
・この箇所は、紀元70年、ローマ軍によって攻撃され廃墟と化したエルサレム神殿の姿をイエスが予言されていると論じられることが多い。でも、イエスの純粋な本性に倣い、これは一般論としてお話になっていると考えた方が自然。
・栄華を極めた荘厳な建物は、しょせんは人間が作ったものでしかない。それよりも大切なのは愛や心である。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイ6:33)」とイエスが語る通りである。
・祈りは立派な建物がなくても出来る。そんな建物を神が要求なさるとは思われない。場所にこだわらないイエスは次のように語る。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:21)」(Y)


学食の花瓶

【ローマの信徒への手紙12:9-17】
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

✝ ✝ ✝

止揚学園の福井達雨 1932(昭和7)年滋賀県近江八幡市に生まれる。1956(昭和31)年.同志社大学神学部に学ぶ。学生時代から障害児の教育(教育心理学を専攻)と差別問題に取り組む。

1962(昭和37)年、20歳の時初めて精神年齢1歳ぐらいの知能に重い障害をもつ子どもたちに出会い、大きなショックを受け、自分の無知と傲慢に気づかされ、27歳の時から知能に重い障害をもつ子どもの施設を作り始め、1972(昭和47)年、30歳の時「止揚学園」を設立。今年でこの働きを始めて60年、設立57年になる。今年87歳。

止揚学園の「止揚」(アウフヘーベン・Aufheben)とは?
ヘーゲルの弁証哲学用語
・あるものを、そのものとしては否定しながら、さらに高い段階で生かすこと。
・矛盾するものをさらに高い段階で統一し解決すること。
・二つのものが一つになって、今よりももって高い次元に入って大きなものに変わっていくこと。

知能に重い障害をもつ子どもたちの将来を思い描きながらこの学園名が付けられた。

彼に感化を与えた人たち

~韓国人、海南島(ナメドン)出身。20歳で来日。結婚し、のちに帰化。在日1世としての民族差別、結婚差別を受ける。*メレル・ヴォ―リスとの出会いから、近江兄弟社のドライバーとして奉職。戦後、満州奉天(現在の瀋陽)から引き揚げて来る。信仰の確立は「謙虚であること」「感謝を忘れないこと」「希望を失わないこと」「忍耐をもつこと」にあると、日常生活を通して達雨に教えた。他人のうわさ話、非難を口にしない人だった。106歳で死去。

*ウイリアム メレル ヴォーリズ(William Merrell Vories)一柳米来留(ひとつやなぎめれる)1880(明治13)年10月28日~1964(昭和39)年5月7日83歳で逝去。米国カンザス州生まれ。建築家、社会事業家、信徒伝道者。「近江兄弟社」の創立者の一人、メンソレータムを普及させた。

~日本人。高2の時、38歳で死去。3男1女の母。達雨は長男。キリスト者として戦争に反対し、天皇は神にあらずと主張し、「非国民」の汚名を着せられ、孤独で苦しく、大変な時を過ごしたが、それに負けることなく、信仰をもって明るく生き生きと過ごしていた。彼は「非国民の子ども」といじめられ、友だちとして遊んでもらえなかったため、母を憎んだこともあった。母のそんな姿が、わがまま、利己的な人間、子供への愛のない人間としかその当時、彼には映らなかった。母の素晴らしさがわかってきたのは、知能に重い障害をもつ子どもたちと共に生き始めてからだった。小中学生時代、友だちと遊んでもらえない孤独な日々を過ごしたが、その試練こそ、知能に重い障害をもつ子どもたちと共に生きる源になった。と彼は言う。

「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで、忍耐が生じます。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」(ヤコブ1:1-3,12)

一柳(ひとつやなぎ)満喜子先生 1884(明治17)年~1969(昭和44)年 85歳1919(大正8)年 35歳でウイリアム メレル ヴォーリズと明治学院で結婚。達雨の幼稚園教師(清友幼稚園1922年~現・近江兄弟社幼稚園)。厳しい先生だったが怖い先生ではなかった。怖さの中には冷たさがあるが、厳しさの中には温かさ、ぬくもりがあり、優しさがあった。人間的に言えば、「円満な人格者」ではなかったが、自分が弱さを持ちながら自らをキリストに向け、完全に向かって努力し、そこから自分の人格のすべて、弱いことも強いことも、達雨にぶつけて、聖書を、キリストを、人間の生き方を教えてくれた先生出会った。その先生との人格的な関わりの中で、知能に重い障害をもつ子どもたちの教育に入った。キリスト者、教育者に円満な人格者像はない。欠陥の多い人間が、弱い人間がキリストによって、子どもたちによって強くさせられ、完全に向かって歩もうとする努力者像を彼女から教えられた。「掃除」は心でするもので、見えないところをきれいにすることである、そんなことも日常生活の中で教えられたと彼は言っている。

光子夫人 香川県の浄土真宗寺院の娘で高校時代に洗礼を受け、18歳で開園したばかりの止揚学園を訪れ、30歳の達雨と出会い、21歳の時、33歳の達雨と結婚。結婚生活50 年間、主に見守られ、祈りつつ、達雨にとってかけがえのない伴侶として、止揚学園を世の光として輝かせてきた。彼は不器用ではあるが、実直で、イエス・キリストを信じ、希望をもって生きる姿勢に惹かれて歩んでいる。
彼女は止揚学園への募金に対するお礼として、いつも真心の籠った直筆で、園の様子、子どもの様子を生き生きと伝えてくださる謙虚さには頭が下がる。信仰とは人間が神を造り、信ずるのではなく、神が人間に信仰を与えてくださるものである。教育者とは、自分が子どもたちを選ぶのではなく、子どもたちに選ばれて、はじめて教育者になることができるのである。

知能に重い障害をもつ子どもたちへの偏見と差別

*施設を建てる時の反対運動~止揚学園の子どもが怖い、恐ろしい、環境が悪くなる。自分の子どもたちが外で遊べなくなる。止揚学園の子と遊ぶとアホになる。(大人が持っている偏見が、子どもたちの行動となって現れる) 著書「こわいことなんかあれへん」
*みんなが一緒に学んだり遊んだりできないことへの反対運動(学校教育)
*障害者お断わり(諸施設への入場制限、飛行機に乗れなかったことへの反対運動で、それをクリアーでき海外旅行に行ったこと~「みなみの島にいったんや」
*止揚学園の子どもたちが洗礼を受けられるようになったこと~これまでは、信仰告白をしなければ受けられなかった。その壁が取り払われたこと。

達雨は聖書のみ言葉と、それによって歩んできた上記の人々から、忍耐と練達、それが希望を生みだすことを実生活の中から学び、自らもその道を歩み続けているのである。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからです。おおよそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」(へブル12:4-5,11

【マタイによる福音書5:9】
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

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今年も5月3日「憲法記念日」を迎えました。ゴールデン・ウイーク中だったので、知らないうちに過ぎてしまったと思っている人もいるかもしれません。

でもこの日は大切な日です。「日本国憲法」が1946(昭和21)年11月3日に公布され、1947(昭和22)年5月3日に施行されたことを記念して、1948(昭和23)年に「憲法記念日」という祝日に制定されました。

第2次世界大戦後、制定された「日本国憲法」は、戦前まであった明治時代に制定された「大日本帝国憲法」とは、大きく変わりました。「日本国憲法」が制定された目的は、民主国家をつくりあげ、2度と侵略戦争を起こさないためです。「日本国憲法」には三大原則があります。まず第1は主権が天皇から国民に移ったこと、国のあり方を決める政治の主役は天皇ではなく国民であるということです。国民主権です。第2は「基本的人権の尊重」です。これは人が人間らしく生きる権利を尊重することです。この権利の中には自由権、平等権、社会権(生存権)、参政権、請求権などがあります。第3は「平和主義」です。世界平和のために日本は戦争をしない、戦争を放棄すること。憲法第9条を守ることがとても大切なことです。現在、憲法第9条の改正が取り沙汰されていますが、わたしたちはしっかり憲法第9条を守っていく責任があります。憲法は主権者であるわたしたち国民が、国を、そして政府を縛るものであることを忘れないようにしたいものです。

先の大戦の犠牲者はアジアで2,000万人以上、国内で300万人以上と言われています。人間の為す愚かな争いは、なくさなければなりません。

紀元前8世紀後半のユダの預言者イザヤはこう言っています。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4~5)

イエスさまは「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。わたしたちは礼拝の中で「主の平和」と言って、お互いに「平和の挨拶」を交わします。すべての人の間で神さまの愛が感じられる時、人が作る平和ではなく、神さまからの平和がやってきます。わたしたちはその平和を実現するために、今何をすればいいのでしょうか。わたしたちに出来ることを、小さなことでもいいから見つけ出して実行していきましょう。 (チャプレン 主教 大西修)

【マタイによる福音書6:9-13】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

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「主の祈り」はイエスさまが教えてくださった祈りで、一番基本的で大切な祈りです。マタイによる福音書6章9節―13節(新約聖書9頁)とルカによる福音書11章2節―4節(新約聖書127頁)に記されています。主の祈りはイエスさまの言われたこと、なさったこと「福音全体の要約である」とテルトゥリアヌスという古代の神学者は言いました。

「主の祈り」は1,900年前から今日まで、教会の礼拝の中で絶えず祈り続けられてきています。どこの教会へ行っても祈られています。柳城の礼拝でもいつも用いますので、ぜひ覚えてください。

「主の祈り」の内容は(1)呼びかけ~呼びかける相手がはっきりしています。イエスさまをこの世にお遣わしになった神さまへの呼びかけです。(2)前半の三つ~神(あなた)についての祈り~と(3)後半の三つ~人間(わたしたち)についての祈り~ から成り立っています。

祈りは神さまとの対話です。ですから、必ず対話の相手である神さまに、天におられる(見えなくても、どこにでもいらっしゃる、すべてものを存在させ、わたしたち一人一人に命を与えてくださっている)わたしたちの父よ、と呼びかけます。相手が分からなくては呼びかけられません。その相手(神さま)を本当に信じていなければ、祈りにはなりません。あなたは祈る時、どんな神さまに祈っていますか?

信じている神さまの偉大な力と素晴らしさをすべての人がほめたたえ、賛美し、あなたによる正義と平和と愛がこの地上にも実現しますようにと祈ります。

後半に、わたしたちについての祈りがあります。日本人の多くは、神さまへの祈願(お願い)=祈りと考えています。祈願=祈りではなく、祈願は祈りの一部です。「主の祈り」の大切なところは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」であることです。全人類のための祈りと言ってもいいと思います。当たり前のこととして、毎日3度の食事をとっているわたしたちが、「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るのはなぜでしょうか。それは現在でも世界で1日に25,000人もの餓死する人がいるからにほかなりません。その人たちのことも覚えて祈るのです。

「わたしの罪」ではなく「わたしたちの罪をおゆるしてください。わたしたちも人をゆるします」と祈ります。わたしたちは神さまの思いをしばしば裏切りますが、わたしたちを愛しておられる神さまは、そんなわたしたちをゆるしてくださいます。ゆるされた喜びを知った人は、他者をゆるすことができる人へと変えられていきます。

誘惑とは、わたしたちを常に神さまの思いから引き離し、自己中心的な生き方へと引き寄せる力、「サタン」「悪魔」の働きのことです。現代のように物質的に豊かな社会では、物質的な欲望への刺激や、性的な誘惑などが巨大化しています。このような中でわたしたちは日々、自己中心的な決断をし、隣人を無視、黙殺し、苦しみ、悲しみ、悩む人々を冷たく切り離しています。そのように悪におちいりやすく弱いわたしたちを支え励ましてくださいと願い、祈ります。

最後には「アーメン」と唱えますが、それは「そうです、そのとおりです、本当に」という意味のヘブライ語です。真心から祈る時、また誰かが祈った時、最後に一緒に「アーメン」と唱えることは、わたしもそう思います、そう祈っていますという心を表明することなのです。(チャプレン大西 修)

先日、柳城の学内で、死んだハムスターの埋葬に立ち会いました(詳しくはこちら)。「天国へ行くんだよっ!」と遺体に向かって何度も言葉をかける飼い主の胸の内が周囲に広がっていました。命の大切さが実感できる機会となりましたが、尊い命が死によって自覚できるというのも実は妙な話です。本当は元気に生きていながら感じたいものですが、命って空気のように「いつもあって当然」みたいな感覚の言葉なのかもしれません。

「命こそ宝」を意味する沖縄の言葉「命(ぬち)どぅ宝」が今回のテーマです。平和運動のスローガンとして有名ですね。聖書が語る「人の命」のルーツも振り返りながら、命について深く考える機会にしましょう。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

●テーマ:「命(ぬち)どぅ宝」
●聖書箇所:【創世記2:4-7】
2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、

2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

●説教:大西チャプレン
●日時:6月25日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・7/2(火)通常礼拝(チャペル)説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)
・7/9(火)通常礼拝(チャペル)お話(3限):成瀬英雄先生 説教(4限):大西チャプレン
・7/16(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

今回の聖書は、パウロという宣教者が書いた手紙が取り上げられます。彼は精力的にイエス・キリストの福音を伝道して、キリスト教の布教に多大な影響を及ぼした人物です。

元々は厳格なユダヤ教徒で、キリスト教徒を迫害する中心人物の1人であったという点が、彼の存在感を大いに高めています。彼がキリスト教に回心した様子が聖書にも記されていますが、そのように生まれ変わったとはいえ、普通に考えれば、彼自身、過去の自分との葛藤に相当悩まされたことでしょう。

キリスト教の普及に伴う迫害に加え、自分自身とも戦わなければならなかったパウロ。試練に立ち向かう彼の態度は、今日の私たちに生きる勇気を与えてくれます。

その勇気を皆で感じ合いましょう。
礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●テーマ:「試練に立ち向かった人たち」
●聖書箇所:【ローマの信徒への手紙12:9-17】
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

●説教:大西チャプレン
●日時:6月18日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・6/25(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/2(火)通常礼拝(チャペル)説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)
・7/9(火)通常礼拝(チャペル)お話(3限):成瀬英雄先生 説教(4限):大西チャプレン

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ2:22)

「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちに聞かれ、イエスはこう答えました。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」(2:19-20)

ここで出てくる花婿はイエスのことであり、婚礼の客というのはイエスの弟子たちのことを指しています。つまり、イエスと一緒に喜びに浸っている時に断食などできはしないが、イエスが十字架にかけられた時には、弟子たちはしっかりと断食することになる、という解釈になります。

断食を規則的に行なうという古いルールに縛られずに、その時々の状況に応じ、気持ちを込めて断食をしなさいとイエスは教えられたのです。

私はイエスが言った言葉を聞き、イエスはとても頭がよくて、いつか自分が十字架にかけられて死ぬことを予見していた感のいい人物だと思いました。そして、古いものから離れる勇気、つまり、今までと同じやり方から離れる勇気は、保育者を志す私たち柳城生にとって、とても必要だと思いました。

そのような意味でイエスは新しい存在だといえます。福音書を手に取り、イエスの生涯を学んでいくうちに、私はこれからどんな人生を歩むべきなのか、勉強になったことが沢山ありました。福音書はすごく奥が深いと思います!


学食から見えた虹

 

今回取り上げられる創世記ですが、ここから性別差について読み解くのか、それとも、24節まで読み進めて神関係について学ぶのか、読み手によって随分と差の出る場所です。「聖書全文はイエス・キリストについて語っている」とも言われていますので、「もしイエスなら、この箇所をどう説教されるだろうか」と想像するのも楽しいかもしれません。

教話をしていただく後藤香織司祭は、以前、大学礼拝で性的少数者について語られた方です(記事はこちら)。弱者の立場を守る視点でのお話が聞けるかなと思うとワクワクしてきますね。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●テーマ:「エバが最初に蛇にそそのかされたからなの?」
聖書箇所:【創世記3:1-19】
3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、
3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
3:11 神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
3:13 主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
3:16 神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」
3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。
3:18 お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。
3:19 お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

●教話:後藤 香織 司祭(名古屋聖マルコ教会牧師、柳城幼稚園チャプレン)
●日時:6月11日(火)
3限 13:10~:保育科1年ABクラス、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1年CDクラス、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:第1学生ラウンジ
礼拝直後に柳城タイム「茶話会」が開催されます。

●次回以降の予定
・6/18(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・6/25(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・7/2(火)通常礼拝(チャペル)説教:中尾 志朗 司祭(一宮聖光教会)

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