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今回の福音書は、子連れの親がイエスのうわさを聞いて集まり、子どもの健やかの成長を祈って欲しいと願う場面です。2000年前の話ですから、当時の子どもの死亡率は今の日本よりも相当に高く、親も必死だったことでしょうね。でも、イエスと話をしている最中だった弟子たちが、その親たちを叱ったのです。「邪魔だ」というわけです。「結婚する意味なんてあるのか」と弟子たちが迷っていたというタイミングの悪さも災いしたのかもしれません。それ以前に、子どもの人権もへったくれもない時代ですからね。

それでも、イエスは違っていました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 つまり、「神が支配する国は、子どものような弱者のためにあるのだ」と高らかに宣言したのでした‼

柳城に集う私たちにとって、イエスのご人格に感動できる最適な個所です。
お待ちしています!(^^)!

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●日時:9月17日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「子供たちを来させなさい」
●聖書箇所:【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

次回以降の予定
・9/24(火)通常礼拝(チャペル)奨励:村田先生
・10/1(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

マルコ15:31「他人は救ったのに、自分は救えない。」

今回はキリスト教の奥義とも言える「自己犠牲に徹するイエス・キリストの愛」について学びました。

記事の箇所はイエスが十字架刑に処された場面です。イエスは、そこを通りかかった人々や祭司長、律法学者たちに代わる代わる罵倒を浴びせられました。そこには、傲慢、いじめ、悪ふざけ、無知、権力志向、裏切り、ねたみ、不信仰、事なかれ主義…など、人間の持つ罪の醜さが渦巻いていました。

でも、その中にあって「他人は救ったのに、自分は救えない」という罵りだけは、実は、イエスにとっては最大級の褒め言葉だったことに、私たちは気づかないといけません。クリスチャンとは、このような自己犠牲的な愛をイエスから学び、そして実践することが神の御心に適うことだと信じる者だからです。

こうしてイエスは、私たちの罪を帳消しにするために、十字架の上で「いけにえ」として死んでくださったのです。私はその計り知れない大きい愛を感じる時、言葉を失います。そして「イエス・キリストについていきたい」と心から思います。

ところで今回、お話の中で「もし自分がその場にいたとしたら、どうするだろうか?」そんな問いかけをいただき、続いて「きっと私たちも記事の人間たちと同じように、イエスを見放すだろう」との言葉に胸がつまりました。

聖書の記事をこのように自分の身に置いて感じ、自分に与えられている問題として考えることは重要な学びです。

私はあらためて、イエスを殺した二千年前の人間たちと、現代の私たちとの精神構造は同じであり、つながっていることを知りました。技術や制度は進歩していますが、「心」は二千年前と同じかもしれません。そう、私たちと同じ仲間の「人間」が、イエスを十字架の上で殺したのです。そういう意味でも、福音書は人類にとって永遠に必要な書物だと言えます。

今回の学びから、私は本学院の理念「愛をもって仕えよ」の本当の意味を見出したと思っています。自己犠牲と自戒。これからも、その教えを大切にしながら、日々進んでいきたいと思います。(Y)


カマキリ

今回の聖書箇所では、イエス・キリストが宗教指導者らの心の状態をものの見事に言い当てています。当時の権力者と言ってもいい「偉い」人々、それも、自分よりもずっと年上の集団に向かってハッキリものを言う姿は、福音書に記されたイエスの典型的な行動パターンの一つになっています。

宗教指導者らにとっては、まことに厄介な存在のイエスですが、その「偉い」人々がイエスによってやり込められる様子は、庶民にとってはかなり痛快だったことでしょう。

イエスは、終始、弱い立場の側につく人物でした。私たちも、そういう精神構造を若いうちに身につけたいものですね。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●日時:9月10日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「心の内側と外側」
●聖書箇所:【マタイによる福音書23:25-28】
23:25 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
23:26 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
23:27 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
23:28 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

●次回以降の予定
・9/17(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・9/24(火)通常礼拝(チャペル)奨励:村田先生

【ルカによる福音書12:54-57】
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

「時」を表わす言葉としてギリシャ語にはクロノス(Chronos)とカイロス(Kairos)があります。

クロノスは過去から現在、未来へと決まった速度・決まった方向で機械的に流れる連続した時間を表わします。1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日といった時刻としての時間。時が刻む客観的な時間のことをいいます。クロノスからクロック(時計)という語が生まれてきました。

もう一つのカイロスは、人間が受けとめる主観的、心理的な時間を表わします。受けとめ方や感じ方で長かったり短かったり、止まったり逆流したりする、内面的な時間です。ギリシャ語で「チャンス」(機会)の意味も持っています。嫌いな授業を1時間受けている場合の1時間と、恋人との楽しいデートの1時間はクロノスでは同じ1時間ですが、カイロスでは、嫌いな授業は数時間にも長く感じられ、楽しいデートは「うそ~、もう1時間過ぎちゃったの」と思うくらい短く感じられるのです。1回限りで、独自で質的な時、大切な時、決定的な時がカイロスという時です。

聖書に出て来るカイロスは独自で質的な時、大切な時、決定的な時としての意味を持っています。時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)~神の新たな支配が始まる時が来たとのイエスさまのメッセージです。 その日、その時は誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたにはわからないからである。」~ここで言われているその時とは、終末の時、最後の審判がなされる時です。(同 13:32~33) 時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(同 14:41~42)~ここでの時はイエスさまが十字架にかけられる重大な時を表わしています。また恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いに日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ救いの日。(コリントの信徒への手紙Ⅱ6:2)といわれている時も、神さまの支配がこの地上に開始された、何ものにも代えがたい大切で決定的な時を表わすカイロスです。

そのほかにも、イエス誕生が天使によって羊飼いたちに知らされた今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」 (ルカ2:11) の今日今日、救いがこの家に訪れた。」(ルカ19:9)と徴税人ザアカイの悔い改めを喜ばれたイエスさまの言葉の今日は、何月何日の今日ではありません。特別な今日、かけがえのない2つとない価値ある今日、そうです、今なのです。

イエスさまは言われます。あなたがたは時間的経過の中で時を見分けることはできます。気象上では雲や風の様子、日照時間、潮の満ち引き、月の満ち欠けなどによって、また自然界では、季節の変化を虫の音、動物の移動や植物の色彩の移り変わりなどによって時を見分けているけれども、今の時を見分けることができないと指摘されます。

今の時を見分けるとは、今の時を吟味すること、解釈すること、与えられているしるし(兆候)を通して見分け、見極め、洞察することです。今はどんな時なのか、何をどう考え、どのように行動していけばよいのかを賢く判断し、実行することが求められているのです。

今でしょ!とは、あなたがたにとって、二度とない大切なこの時のことを言っています。皆さんにとってかけがえのない大学生時代、後期が始まった今日、わたしは今、何をどのように見つめ、吟味し、新たなステップへと進んでいけばよいのかの決断を迫られているのです。決して遅くはありません。毎日、祈りをもって(自分自身をしっかり見つめることも大切な祈りです。)歩んで行きましょう。(チャプレン大西 修)


学食の掲示板

2019年度後期の大学礼拝がスタートします。

柳城短大に集うすべての人々に、黙想と祈りを通して、益々向上できるチャンスが与えられるよう、主のお導きに期待しましょう。

今回の福音書では、イエス・キリストが「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」と語りかけています。「今の時」とは「イエスがこの世に遣わされている今この時」のこと。「私を信じるか信じないか、その判断が迫られている。偽善者ではなく私に従って、滅びの道から離れるように」との強烈なメッセージです。

これは、イエスが生きた2000年前の昔話ではなく、福音書を通して今の私たちにも向けられた福音でもあるのです。変化の激しい時代ですが、イエス・キリストの言葉に頼って、正しい判断で乗り切っていきたいものです。

礼拝、お待ちしています!(^^)!

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●日時:9月3日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「時を見分ける ~今でしょ!~ 」
●聖書箇所:【ルカによる福音書12:54-57】
12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。

次回以降の予定
・9/10(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・9/17(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

今年度から幼保連携型認定こども園として再スタートした豊田幼稚園。園舎もピッカピカに改築されて、これからが本当に楽しみです。神の祝福がいただけますように。

その幼稚園から年長組さんが柳城短大に遊びに来てくれました。毎年恒例の交流会です。柳城生と一緒にゲームや体操をして、お弁当を食べ、最後に礼拝をするという柳城学院らしいプログラムです。

お昼の賛美歌タイムのためにチャペルに行ったら、ちょうどその礼拝が始まろうとしていたので、私も会衆席に着きました。

60名ほどの子どもたちは、式文や聖歌集を必要とせず、正面にある十字架の方だけを向いて礼拝に参加していましたよ。先生方の日頃のご指導の賜物でしょうか。

礼拝のお話は「紙ヒコーキ」という童話が題材でした。翼の破れた紙ヒコーキが修理工場へ飛んでいく間に、傷ついた昆虫たちを助けるというお話。この優しい紙ヒコーキはイエス様そっくりだねという大西チャプレンの導きは子どもたちの心に届いたことでしょう。

礼拝中にある「主の祈り」を暗記している子どもたちを見ながら、あらためて思いました。この子どもたちはこれからの長い人生において、この「主の祈り」が活かせるのかどうか。

ほとんどの子どもたちは、きっと「主の祈り」そのものは忘れていくことでしょう。でも、世の摂理を支配している何者かが存在するという畏れの感覚や、イエスという至高の人物が今も多くの人を向上へと導いているという現実を、何となくぼんやりとでも意識できる人に育ってくれれば、キリスト教保育は成功したと言えるかもしれません。

一生、向上しようと謙虚に努力できる人へ・・・。
主の豊かな導きが子どもたちにありますように。(K)

【マタイによる福音書】
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』

【マルコ14:36】「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

今回は、イエスが祈る御姿をとおして、キリスト教の根幹である「祈りの基本」について学びました。

イエスは十字架刑に処される直前、弟子たちを伴われゲツセマネで神に祈られました。その呼びかけは「アッバ(お父さん)」。 イエス独特の呼び方です。弟子たちが見ている先で、苦悩を吐き出して祈られたのでした。福音書には「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と記されているます。

ですが、イエスは「苦しみを取りのけてください」とだけ願われただけではありません。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と、最後には神に身を委ねられたのです。

ご自分の感情を解放した上で神に従うイエスは、彼が「心の解放者」である証拠です。武家の血筋で育てられ、感情を吐き出すことはカッコ悪いことと教えられてきた私の目が開かれ、今もイエスに強く憧れる理由がここにあります。

また、このイエスのしかしという言葉がキリスト教の「はじまり」であることも知りました。「しかし」が無ければ、イエスはひょっとすると十字架を避けたかもしれないという、小説風の解釈です。

さらに、祈りとは、希望を自由に唱え、最後は神の意志にゆだねて心の平安を得ることと理解できました。

ゲツセマネで神に身を委ね祈られたイエス。
「感情を超えて、神の真理へ」。イエスはいつも私たちをこう導かれています。(Y)


白クローバー

【サムエル記下12:1-10】
12:1 主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。
12:2 豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。
12:3 貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。
12:4 ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」
12:5 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。
12:6 小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」
12:7 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、
12:8 あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。
12:9 なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。
12:10 それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』

聖書に登場する人物で素晴らしいと思われる人であっても、聖書はその人の人間としての有りのままの姿が包み隠さず描いています。ですから私たちの理想像としている人物も多くの短所をもっていることがわかります。

今日お話しするダビデもその一人です。彼はベツレヘム(イエスの誕生の地)出身のエッサイの8人目の息子(末っ子)で、父の羊飼いの仕事を手伝っていました。イスラエルの初代のサウル王が隣国ペリシテと戦っていた時、利発な少年ダビデはゴリアトというペリシテのつわものを石投げ紐で石を飛ばして撃ち倒し、勝利に貢献し、サウルの側近として仕える者になりました。また、竪琴の名手でもあり、サウルに安らぎを与えました。詩編70編までの多くはダビデの詩編と言われています。

ダビデはサウルに次ぐイスラエルの第2代の王として、紀元前1000年から960年までの40 年間、君臨し、王国を統一しました。その名声は後世にまで語り伝えられています。

イスラエル全軍がヨアブの指揮下でアンモン人と戦っていた時に起こされた出来事が有名な「バト・シェバ事件」です。ここに描かれているダビデは、若き頃の英雄としての雄姿ではなく、一人の人間としての弱さや、罪深さを余すところなく暴露しています。

主に遣わされて預言者ナタンがダビデのもとに来て、次のたとえ話を語ります。

「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の子羊のほかに、何一つ持っていなかった。彼はその子羊を養い、子羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて 彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ 貧しい男の子羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」(12:1-4)

このたとえ話を聞いたダビデは、豊かな男に激怒し、「そんな男は死罪だ。子羊の償いに4倍の値を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」と叫びます。それに対して、預言者ナタンはダビデに向かって、「その男はあなただ」と叱責したのです。

このたとえ話が語られた背景にはこんな出来事がありました。

イスラエル全軍がヨアブの指揮下でアンモン人と戦っていた時、ダビデはエルサレムにとどまっていました。ある日の夕暮れ時、昼寝から覚めたダビデが宮殿の屋上を散歩していると、屋上から一人の美しい女が行水しているのが見えたので、その女はだれかを尋ねさせたところ、家臣であるヘト人ウリヤの妻バト・シェバであることがわかり、使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女と関係を持ちました。彼女は家に帰ってから、子供ができたことがわかり、ダビデにそのことを知らせました。すぐさまダビデはウリヤを戦場から送り返すように命じ、宮廷に呼び出し、戦場の様子などを聞いたのち、家に帰ってゆっくり疲れを癒すようにと言いました。そうすることによってバト・シェバの腹の子を、ウリヤの子とすることを画策したのです。しかし他の兵士たちが戦っているのに、自分だけそんなことはできないとその勧めを断わり、野外で過ごしました。さらなる勧めにもウリヤは固く自らの意思を貫きました。そのためダビデは最後の手段として、ウリヤを戦いの最前線立たせ戦死させてしまったのです。そしてその後、彼の喪が明けるとバト・シェバを宮廷に引き取り、正式に妻としました。

権力を乱用し、誰もが驚き呆れる様な罪を犯したダビデの姿を、預言者ナタンはたとえ話を通して指摘したのですが、ダビデはそのたとえ話の中の、富んだ者が自分であり、貧しい者がウリヤを指しているとは気づきませんでした。

わたしたちは自分の犯した罪には案外気付かない鈍感な人間です。ダビデは厚顔無恥な男で、ひょっとしたら自分の罪に気づいていたのかもしれませんが、開き直っていたようなところがあったのかもしれません。預言者ナタンはダビデの罪がいかに大きく重いものであるかを、神からの厳しい罰を示すことによって語りました。ダビデは預言者ナタンに「わたしは主に罪を犯しました。」と懺悔します。ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死を免れる。しかし生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」と告げました。

このような大罪を犯したダビデを神は赦し、再び用いられました。心の底から罪を悔い改める者を神は赦してくださることに感謝したいと思います。

わたしもひょっとしたら、そんなダメな「ダビデ」かもしれないと自問自答してみることが大切ではないでしょうか。(チャプレン大西 修)


ポピーとアリッサム

「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)

マルコによる福音書5章35節〜43節に記されている「ヤイロの娘の復活」を皆さんは信じることができるでしょうか。

私は最初読んだ時、とてもじゃないけど信じられない、そんなことが起こるわけがないと思っていました。ですが、クリスチャンは、聖書に書かれていることだから、きっとそんなことがあったんだと考えているみたいです。そしてクリスチャンの凄いところは、クリスチャンではない人が聖書に書かれていることに対して「信じない」と言ったとしても、その人を責めたり非難したりしないそうです。クリスチャンの人はイエス・キリストと共に生きている人たちだから、私はたいへん尊敬しています。

あるクリスチャンの話ですが、もうすぐ死のうとする人にこう言ったそうです。「あなたは、もう15分で神さまに会えるのだ、喜べ」。このように言える人は本当に神を信じ、神に近い人なのだそうです。

私はクリスチャンでもないし、イエスや神を信仰している人間でもないですが、いつも弱い者の味方で、助けを求めてくる者を無視しない、そんなイエス・キリストは本当に凄い人物だったということを知ったし、もっとイエス・キリストを知りたいなと思います。(YM)


飛べないセミ

「これはわたしの体である。」「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マルコによる福音書14:22,24)

イエスは十字架刑にかかる直前、「別れの宴」とも言える晩餐の時を弟子と共に持ちました。

そこでイエスは、パンとブドウ酒を使って弟子への深い愛を示されたのです。「パンを食べるたびに私を思い出しなさい。ブドウ酒を飲むたびに私があなた方にした約束を思い出しなさい。そうすれば、永遠の命が得られる」と。

その深い愛は私たちへも向けられています。生きていくに必要な食べ物を使って、誰もがいつでも簡単にイエスに「帰る」ことが出来る仕組み。今回私は改めてイエスが私たちにあらわされた愛と恵みの大きさに感謝しました。実にシンプルで合理的です。

クリスチャンである私は、週に一度の聖餐に預かるたびにイエスの愛に感謝を捧げてきましたが、これからは、イエスのシンプルな教えにのっとり、ありふれた日々三度の食事においても、形式にとらわれずに心のままにイエスを感じたいと思います。(Y)


ミニヒマワリ

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