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今回は、AHIアジア保健研修所の巡回報告会を兼ねて、研修生のカミール・アンデロス・レイェス・ジュゴ(ミンミン)さんにお話を頂きました。通訳はAHIスタッフの中島隆宏さんです。

ミンミンさんはフィリピンのカピス大司教区社会活動部というNGOに所属するクリスチャン(カトリック)です。まだ20代で、AHIの研修生としては異例の若さだそうです。

そんな将来性を持った彼女ですが、大学生の頃はどちらかというと受け身の構えで、ただ漫然と卒業を目指すようなタイプの学生だったそうです。でも就職先で仕事を任されるほど上司に認められたという経験を得てから、急にスイッチが入ったといいます。

人を認め、その能力を最大限に活かす役割の大切さを感じた彼女は、現在の道に進み、大いに自分の力を発揮します。特に、コミュニティー・オーガナイザーとして、若い人たちの自己啓発を後押ししながら、彼ら/彼女らに地域で活躍できる場を提供することを目指しています。お話の中では、その具体的な事例が2件紹介されました。

こうして、貧困や不便さを抱えた地域でコミュニティつくりに励むミンミンさんですが、彼女はそうした活動の中で自分自身の成長に関心を払うことを忘れません。その謙虚さが彼女の信仰者たるゆえんでしょうか。

ヘブライ人への手紙
13:1 兄弟としていつも愛し合いなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。
ガラテヤの信徒への手紙
6:10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
イザヤ書
1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。

こうした聖句を引用しながら、ミンミンさんは力を込めて語ります。
「行動のない信仰は本当の信仰ではありません!」
「私はAHIの経験を通して、人に尽くすことを惜しみません。約束します。」

 

礼拝後に学生食堂で歓談した際にも、彼女は、「もしもAHIの研修生として採用された場合は、今の仕事を続けます」と祈ったことを告白してくれました。隣に座るAHIスタッフの中島さんが、それを聞いて嬉しそうにしていたのが印象的でした。

神のご計画の偉大さと祈りの力をあらためて感じさせてくれた今回の報告会。
名古屋柳城短期大学に集う私たちは、与えられたチャンスをチャレンジに変えられるでしょうか。

主に感謝 (加藤)

礼拝後のお楽しみ会ということで、腹話術ショーを企画しました。

いつも大学礼拝を守ってくれている学生さんへのご褒美かな?
取り計らってくださった神さまに感謝です!(^^)!

出演は、ろごす腹話術研究会の会員で枇杷島教会の信徒さんである犬飼倭子(しずこ)さん。そして相棒のジュンちゃんで~す。

そして、彼女を紹介くださったのは、本学の卒業生で附属柳城幼稚園 元園長の先田泰子さんです。先田さんは犬飼さんから腹話術を学んだというご関係です。

ショーが始まると、生き物のように生々しく(笑)動くジュンちゃんに、皆さん、アッという間に目が釘付け(@_@) 腹話術を初めて間近に見た私も大興奮でした。

犬養さんオリジナルのお話が面白くて、チャペルが笑い声であふれました。神さまも一緒に楽しんでくださったかな?

ショーの後は学生食堂でティータイムを持ちました。

人形に触れさせていただくことで、益々興味がわいてきました。そして、「昔は腹話術が流行っていて…」という話から始まって色々なお話が聞けました。

「毎日6分の練習でよいけど、それがなかなか出来ないのよ~。」
そう話す犬飼さんは、腹話術研究会に入ったのが20年前で、何と50代の時です!
ベテランの域に達している感じは十分するのに「今日は、私のような者ですみません」と、いたくご謙遜。

それでも「せっかくのチャンスを頂きましたので」とチャレンジ精神が旺盛で、気持ちが若い若い(^^♪ 見習わなくっちゃ!

今でも幼稚園や介護施設等で皆さんに喜ばれている腹話術です。
だれか若い人が後を継いでいけるといいですね(年とった方でも、もちろん大丈夫ですけど)。

今回の企画がそのきっかけになり、そして、こういう「ゆとりの文化」が柳城に根付くと嬉しいです(^o^)/ (加藤)

【コロサイの信徒への手紙4:5-6】
4:5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

✝ ✝ ✝

「塩で味付けされた快い言葉」とは、どんな言葉でしょうか。

「塩で味付けされた言葉」とは、ちょうどよい塩加減であり、その料理のおいしさがじわっと口の中に、もっと言えば体の中に広がっていく、そんな言葉です。

「快い言葉」とは、さわやかで、心地よく、生きる勇気が与えられ、将来への希望が湧き上ってくる言葉です。

わたしはそんな言葉を語っているだろうかと振り返ってみますと、悲しいかな、語っていません。塩は塩でも、しょっぱ過ぎて、なめることさえできず、体中が受け付けず、拒絶反応を起こさせてしまうような言葉を、日ごろ平気で語っている自分に驚いています。また快い言葉ならいざ知らず、相手を不愉快にさせ、気分を悪くさせ、やる気をなくさせ、落ち込ませてしまうような言葉を平気で使っていることも多いのです。

イエスさまが語られた塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を探してみますと、マタイによる福音書5章から7章の「山上の説教」をはじめとして、数えきれないほどたくさんの素晴らしい言葉が福音書には散りばめられています。

直接、弟子や病人、その他行きずりで出会った人々に語られた言葉にも、素晴らしいものがたくさんあります。

「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネに語りかけられた言葉、これは彼らの人生を方向づけさせ、生きる希望を与えました。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(4:18-21  9:9-13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11:28-30)

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(12:50)

「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」(18:3-4)

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか、7の70倍までも赦しなさい。」(18:21-22)

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(20:26-28)

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この2つの掟に基づいている。」(22:37-40)

塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉は、聞く人の魂を揺さぶります。心を穏やかにします。そしてその言葉を素直に受け入れることを可能にします。その言葉は語る人の全人格と深く関わっています。ですから、その人の身のこなし方、身振りや手振り、表情、目つき、話し方などと切り離すことができません。素晴らしい言葉は時として、口から出る言葉ではなく、表情や目の動きが言葉になっていることもあるのです。それを聞く側は声のない言葉として受け取っているのです。また、言葉数が多いことが良いとも限りません。ひとことふたことの短い言葉の中に、宝石のような輝く言葉が隠されていることもあります。

イエスさまは人との出会いの中で、あまり多くを語られなかったように思います。二人の間に流れるしばらくの沈黙は、イエスさまの言葉を聞く者に自分自身を見つめさせ、省みさせる時間を提供します。それを通して聞く者に一つの決断を促す機会を与えます。優しい言葉は聞く者の心を自然に開かせるのです。あの放蕩息子を迎え入れた父親の言葉は書かれてはいませんが、「おお、良く帰ってきたなー」との一言だけで、あとは言葉にならない言葉がすべて態度に表わされています。(ルカ15:11-32)

徴税人ザアカイの物語も、桑の木に登っているザアカイに下から声をかけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という言葉こそ、イエスさまの塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉の集大成です。この言葉がザアカイを生まれ変わらせました。(ルカ19:1-10) さらに、十字架上で隣の十字架にかけられていた犯罪者に対する、イエスさまの神への赦しの願い「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」は、十字架上の犯罪人の心を開かせ、自分の罪深さを自覚させ、イエスさまへの信頼へと変えていったのです。(ルカ23:34)

わたしが中学生のころの忘れられない思い出があります。夜遅くまで遊び過ぎて、門限をはるかに超えて家に帰りました。父にきつく叱られることを覚悟の上、おっかなびっくりで玄関の戸を開けました。そこに父が立っていました。まともに顔を見ることもできず、緊張して立っていたわたしに父は優しく「お腹空いたろう。早くお風呂に入ってご飯にしなさい」とひと言だけ言って部屋に戻って行きました。全く拍子抜けしてしましたが、わたしにとって今も忘れられない出来事です。自分が子供を育てる時、似たような出来事が何度もありましたが、その都度、この出来事が思い出され、その場にふさわしい対応をすることができました。父もザアカイの物語がいつも心にあったのだろうかと思います。

皆さんが保育者として、あるいは子供の親として子供の前に立つ時、どのような言葉がけをしますか。本当に子どもを愛し、子供のことを考えているならば、朝のひとときを大切にすることであると言われています。あるお母さんは朝の食卓に、いつも花を飾るようにしているそうです。一輪の花が飾られた朝の食卓の情景を思い描いてください。そこに豊かで暖かなゆとりある思いに溢れた家庭の様子がうかがえます。服装を身ぎれいにし、髪の手入れをし、笑顔で朝の挨拶を交わし、ちょっとした励ましの言葉をかけることは、子供の精神の健全な成長に欠かせないものです。園や学校での子供の情緒不安定は、朝、出かける前の家庭の空気に大きく影響されます。これは大人であるわたしたちにも言えることです。わたしたちは朝、これだけの気持ちの余裕を持っているでしょうか。

塩で味付けされた快い、素晴らしい言葉を使うことはなかなか難しいですが、いつもイエスさまを見つめること、聖書を開き、読んでみることで、少しでもそれが実現できるようにしたいものです。

終わりに渡辺和子シスターの言葉を引用します。

「女性を美しく、好もしくするものは、昔も今も変わることなく、あたたかいほほえみ、美しいことば、さりげない心くばり、礼儀正しさ、そして恥じらいを知る慎み、と覚えておきたいものである。」(「愛をこめて生きる」より)(チャプレン 大西  修)


ゴーヤの花

今年で4回目を迎えるAHIによる巡回報告会(過去の記事はこちら)。
いつもAHIスタッフさんの熱意に助けられています。感謝です!

AHIから届いた奨励概要は以下の通りです。
「ミンミンさんは 20 代と若いですが所属するNGOの中核となって働いています。 2013 年のヨランダ台風による被災者支援をきっかけに活動を展開しています。その後、住民組織づくりを通して貧困や保健など地域の課題に取り組んでいます。就学前から小学3年生くらいまでの栄養プログラムもそのひとつです。」

視野を広げる努力は、保育者や介護者にとって必要な資質です。

このチャンスをどうかお見逃しなく!!
お待ちしています(^o^)/

●テーマ:「行動における信仰(Faith in Action) ~フィリピンの子供たち、台風被災地の今」
●奨励:カミール・アンデロス・レイェス・ジュゴ(ミンミン)さん
AHIアジア保健研修所 研修生)
●通訳:AHIスタッフ中島隆宏さん
●聖書箇所:ローマの信徒への手紙12:9—13
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

●日時:10月10日(水) 14:50~16:20 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後、学食にてゲストと交流会を持ちます。

●次回以降の予定
10/17(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 奨励:扶瀬先生(本学教員)
10/24(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 奨励:長縄学長
礼拝後に、奨励奨学生表彰式と新生病院リトリート報告会があります。

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載します。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

3:癒される私たち(マタイ5:4)

主よ、
今朝も共に集い
それぞれの務めが果たせること、
感謝します。
うまく出来ずに、
悩むこともあります。
自信を失うこともあります。
他人に迷惑もかけています。
自分が悲しくなります。
そんな時にでも、
愛に満ちた主よ、
あなたは微笑んで下さいます。

イエス・キリストは言われます。
「悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。」

主よ、どうか私たちを、
癒して下さい。
立ち直らせて下さい。
あなたと一緒なら、
いつでもやり直せます。
また一から始められます。
決してあきらめません。
やるだけやってみます。
柳城のために、
愛する子どもたちのために。
自己満足に終わらないよう、
主よ、今日も一日、
見守っていて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

「朝の祈り」の際に、皆で一緒に唱えている祈りを掲載します。

この祈りはチャプレンの監修のもと、試行的に作られたものです。
「柳城短大の公式の祈り」などという仰々しいものではありません。
その時々の心の状態に応じて、祈りつつ修正を重ねていくつもりです。

2:赦される私たち(マタイ9:13)

主よ、
今朝も柳城に集う
この私たちの真ん中においで下さい。
今日は救いの日です。
私たちは、あなたによって、
愛され、
赦され、
励まされ、
救われます。
だから私たちは
希望をもって、
人々のために、
子どもたちのために、
与えられた務めを果たそうと思います。

イエス・キリストは言われます。

「わたしが来たのは、
正しい人を招くためではなく、
罪人を招くためである。」

私たちは、過ちの多い、
不完全な人間ですが、
あなたの慰めによって、
今日も前に進むことができます。
主よ、感謝します。
賛美します。
主よ、今日も、
初めから終わりまで、
私たちと共にいて下さい。

この祈り、
イエス・キリストによってお願いします。
アーメン

【ルカによる福音書 16:19-31】
◆金持ちとラザロ
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

✝ ✝ ✝

「金持ちとラザロのたとえ」はイエスさまが、当時のユダヤ教の宗教的指導者であるファリサイ派の人々、律法学者たち、そして弟子たちにお話しになったものです。彼らは貧富の差があるのは神のご意思なのだから、その状態を変える必要はない、富は神の愛のしるしであり、貧しさは神の裁きのしるしである。その理由は神だけが知っておられることであり、人間はそのことに関わる必要はない、そう信じていました。

このような考え方に対する一つの挑戦としてこのたとえをお話しになりました。

イエスさまは富と貧しさの現実を無視して、愛と平等と平和を説くことはなさいませんでした。ルカによる福音書では富と貧しさの問題を大切な事柄としてよく取り上げています。有名な「マリアの賛歌」ではマリアが、生まれてくるイエスさまをこの世界に送られる神の働きを「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた者を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1:51~53)と歌いました。

神の望まれる世界は貧乏や不幸が否定され、無くなる世界です。神は貧しい者の味方であり、貧しさを追放されるお方です。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが彼の貧しさによって富む者になるためです。」(Ⅱコリント8:9) 神はイエスさまを通してご自身を貧しい者として表されました。すべて貧しい者を富ませるために、貧しい者の味方になられたわけです。ですから貧しい者に目を向けず、ただ自分だけが富んでいることに満足している者は神の目にはふさわしくないのです。「金持ちとラザロのたとえ」はこのことを語っています。

このたとえの中では対照的な二人の人物が登場します。金持ちは立派の家に住み、高価な着物を身につけ、贅沢に遊び暮らす生活によって、神から与えられたものを自己満足のためにだけ用いました。働くこともできず食べていけない人間と、食べて有り余るほどゆとりのある人間とが対照的に描かれています。金持ちが豊かであることが罪であるとは言われていません。金持ちが持っているもので隣人とどのような関わりを持って生きていたかが問題とされています。多くのお金を持つことは罪ではありません。しかし、多くのお金を持ちながら玄関先にいる貧しい人と関わりを持たないことが罪なのです。金持ちは信仰深かったから富が与えられ、ラザロは不信仰だったから、神の罰として貧しくなったとは言われていません。隣人とどのように関わるかが信仰の問題です。その意味で金持ちは信仰深くありませんでした。信仰を誤って理解していたのです。

わたしたちのすべての生活と豊かさが、ただ単に自分を富ませ、満足させるためにだけあるのではありません。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい。」(ルカ18:24~25)とイエスさまは言われました。富は魔物です。時としてわたしたちの良心を麻痺させることもあり、隣人とその魂を見失わせ、さらには神さえ見失わせてしまいます。

ところでこのたとえの共通点は二人が死ぬこと、死を迎えることです。単なる犬死であろうが、有名な大病院で最大限の医療処置を施されて死に、盛大な葬儀がなされ、故人の遺徳が称えられようが、いずれにせよ例外なく平等に二人は死ぬのです。死はどこまでも平等です。金持ちが金銀財宝を携えて死後の世界に行くこともできなければ、ラザロができ物を背負ってそこへ行くこともありません。この世の価値観で、この世で通用する財産によって死後の世界を決めることもできません。死後の世界で残るものは、生前持っていた富をどのように用いて、隣人といかなる関わりを持っていたかということです。神の前で問われるのはこのこと、この世での生き方です。天国や地獄の状況は一つのたとえとしてここに描かれています。

このたとえの核心は、今、わたしたちの前にある現実にしっかり目を留め、それをどう受けとめ、それとどう関わりながら生きていくかということにあります。

このたとえは、イエスさまが今、わたしに、そしてあなたに向かって語りかけておられるのです。わたしたちはまさか自分をラザロの側に置くことはしないでしょう。だからと言って金持ちの側に置いて考えることもしないのではないでしょうか。どちらでもない第3者の立場に自分を置いていないでしょうか。しかしそのような立場に立つことは許されません。

イエスさまはあなたを金持ちの立場に置いて語りかけておられます。また、地上で残された生活を楽しんでいる5人の兄弟にたとえてもおられます。あなたはその中の一人ではないですかと…。わたしたちは答えるでしょう。「いや、わたしはそんなに金持ちじゃないし、贅沢に遊び暮らしてもいない。ごく平凡な生活をしている一市民だ」と。

しかし、ラザロはわたしたちの門前にいます。飢え渇いて、死を目前にしているラザロが世界中、特に東南アジアの国々、中東、アフリカの国々に何億人といます。日本の中にもたくさんいることを知っていますか。数え上げればきりがありません。神はそのような人々を愛され、大切にされるお方です。「ラザロ」という名前は「神はわたしの助け」という意味です。神は「ラザロ」を助けられると共に、「ラザロ」の神なのです。そしてこの「ラザロ」の姿こそ、地上を歩まれたイエスさまのお姿なのです。

貧しい家畜小屋に生まれ、見捨てられた人々の友として生涯を過ごされ、自らも人々に見捨てられ、ゴルゴタの丘で盗賊と共に犯罪者として十字架につけられ死んだイエスさま。神はこのイエスさまを貧しい人、病気の人、悩む人の友としてお遣わしになり、その復活・よみがえりによって本当の慰めと開放と自由を与えてくださったのです。

わたしたちはまた、イエスさまによって自分自身を「ラザロ」に置き換えることが許されています。わたしたちは正義のゆえに、貧しく虐げられた人間として損をし、倒れ、傷つき、失敗したことがあるかもしれません。そんな時にこそ、神はあなたを「ラザロ」として支え、励まし、助け、あなたの味方になってくださることを信じましょう。(チャプレン大西 修)


学生食堂に飾られた折り紙作品

言葉で人を勇気づけられたら…。
教育現場に係る方なら誰もが願うことではないでしょうか。
「あなたならやれる! がんばれ!」だけでは陳腐だし、だからと言って、いきなり偉人達の名言なんかをネタにしてもシックリ来ません。その人の言葉にはその人の人生が重なっているからでしょう。子どもたちには難しい言葉は通用しませんし。

こんな場合に有効なのは、説教ではなくて、たぶん共感でしょうね。気持ちを受け止める言葉を投げてあげれば、相手は本来の心を取り戻して前向きになる。

さて、聖書には素晴らしい言葉がいっぱい詰まっていますが、そんな共感を誘う言葉に出会えるといいですね。

礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「素晴らしい言葉」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:コロサイの信徒への手紙4:5-6
4:5 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。
4:6 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

●日時:10月3日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
10月誕生日の祈りを行います。
礼直後にチャペルで腹話術ショーがあります。同窓生のご紹介で実現しました。ぜひ、ご参加下さい!

次回以降の予定
10/10(水)合同礼拝(チャペル)14:50~16:10頃 奨励:AHIアジア保健研修所
★礼拝の中でAHI研修生の方のお話が伺えます。フィリピンの地域活動の現状をこの機会に是非! テーマは「行動における信仰(Faith in Action) ~フィリピンの子供たち、台風被災地の今」です。
10/17(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 奨励:扶瀬先生(本学教員)

2000年前のイエスの時代、今とは比べものにならない生活水準の中にあっても貧富の差は歴然とありました。人類の営みの中で、その差が出ること自体は仕方がないにしても、富む側の者が威張り散らすような状況をイエスは決して良しとはされず、まさに「強きをくじき弱きを助ける」姿勢を彼は徹底的に実践されたのです。このイエスの姿は現代においても十分に光り輝くものです。

イエスの言動を通して人生を振り返るチャンスが柳城には与えられています。人間関係や雑多な情報から一時フリーになって静かに自分と向き合うことで、私たちは今後も良い方向に進めるのではないでしょうか。

「今をどう生きるか?」

礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「今をどう生きるか?」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:ルカによる福音書 16:19-31
◆金持ちとラザロ
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

●日時:9月26日(水) 14:50~全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
10/3(水)合同礼拝(チャペル)14:50~15:30頃 説教:大西チャプレン
10月誕生日の祈りを行います。
礼直後にチャペルで腹話術の実演があります。同窓生のご紹介で実現しました。是非、ご参加下さい!
10/10(水)合同礼拝(チャペル)14:50~16:10頃 奨励:AHIアジア保健研修所
礼拝の中でAHI研修生の方のお話が伺えます。フィリピンの地域活動の現状をこの機会に是非! テーマは「行動における信仰(Faith in Action) ~フィリピンの子供たち、台風被災地の今」です。

今日はマルコ通読二十四回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(11:1~7)

イエスはエルサレム入城にあたり「子ろば」を準備なさっていました。

『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。(11:3)

この記事の「主」は所有者の意味で、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節に従い事前に子ろばを用意されたイエスを指しているとも考えられるそうです。

また、そのようにしてエルサレムに入城なさったイエスに民衆は歓喜し、律法学者をはじめ国の権力者はその姿を見て、イエスを捕まえるのをためらったことも知りました。

用意周到とも思えるイエスの行動ですが、私はこれこそが神のご計画であり、私たち人間にはいかに計り知れないものであるのか、今回胸がふさがれるほど強く心に響きました。

そのご計画とは、苦しみを超越したもので、あまりにも大きく澄みわたった御心であると感じ、私自身の喜びにつながったからだと思います。

エルサレム入城を果たしたイエスは淡々と十字架へと向かわれます。

次回も御言葉をとおしてイエスの道のりをたどり、学びを進めていきます。

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