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今日はマルコ通読二十九回が行われました。

今回心に響いた御言葉は…
イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『 主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。 (マルコによるよる福音書12:35〜38)

大群衆が見ている中、イエスは詩編110章で記されているダビデの言葉を使って律法学者たちを厳しくとっちめました。

律法学者や当時の人々によってメシア化されたダビデ本人が『主は、わたしの主にお告げになった』と記しているのに、なぜ、お前たちは「メシアはダビデの子だ」と言っているのかと。

私はこのダビデの言う二つの「主」が誰にあたるのか、すぐには理解できませんでした。しかし主を崇めるダビデの目線で読むというヒントを頂くうち、最初の「主」が神であり、後の方は「メシア(救い主」であると分かりました。

ダビデ自身が「主(神)は、わたしの主(メシア)にお告げになった」と言って、自分の子以外の何者かをメシアと呼んでいるのです。従って「メシアがダビデの子である」はずはなくなります。

律法学者たちはこの理路整然としたイエスの御言葉に、ぐうの音も出ません。

当時、事細かな律法や決まりを守れない民衆は罪人呼ばわりされて蔑まれていた時代です。イエスの御言葉に何も言い返すことが出来ない律法学者たちの様子を見た民衆たちは、きっと「イエスよ!よく言ってくれた!律法学者たちよ、聞け!」と、日頃から虐げられてきた胸の内がスッとなり大喜びしたことでしょう。

イエスは常に今でも、弱い立場の人間の味方です。

次回のイエスの道のりも楽しみです。


干し柿

今回心に響いた御言葉は…

イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。(マルコによる福音書12:24~27)

イエスは出エジプト記3:6の言葉をお使いになり、かたくなに復活はないと考えていたサドカイ派の人々を論破されました。その言葉を有する「モーセ五書」のみを信条とするサドカイ派を、「聖書も神の力も知らないから」とバッサリ切り捨てられたのです。

それは「あなたたちは、この世の道理にこだわり過ぎるあまり、神の国を見失っている」と警告を与えるイエスの真の愛である、と私は感じました。

今回私は「モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」という箇所を読み解く上で、とても腑に落ちる解釈を与えていただきました。それはイエスの思考と同じく斬新で単純明快でした😊✨

死んで影も形も無いものに対して「~の」という言葉は使わない。つまり「私はアブラハムの神である」という言い方は、アブラハムは神の国で復活して生き続けていること示している。だから、イエスは次に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と、同じ意味のことを繰り返された…。

私はその解釈を聞き旧約聖書を隅から隅まで熟読されたイエスの御姿が重なり、はっきり浮かび上がった思いがしました。イエスは常に理性と深い見識より、この世のことでなく、永遠の命を手にできる神の国の話をされています。

次回もイエスの御姿より、その道につながることの意味、喜びを学んでいきます。


柳城祭とヒマワリ

【マタイによる福音書18:10-14】
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

✝ ✝ ✝

いよいよ来週から、1年生は初めての教育実習、2年生は2度目の保育実習が始まります。

教育実習法、保育実習指導の授業も受けて、実習に入る準備は多分出来ていることと思います。とは言っても初めての実習の現場ですし、何が起こるかわからない要素もたくさんあります。ですから心配があって当然です。わたしも大学4年次に高校での3週間の教育実習、神学校の3年次には東京築地にある聖公会の聖ルカ国際病院で1ケ月の実習を経験しました。今でもその時のことを思い出すと冷や汗が出てきます。不安だらけで何一つ思った通りにいかなかったからです。

「礼拝への出席は、あなたの実習をきっと素晴らしいものにするでしょう!」と今回の礼拝案内の掲示に書きましたが、「あなたの実習が成功することを保証します、約束します」とは書きませんでした。そんなことをもし書いたとしたら、万一、結果があまり芳しくなかった場合、「チャプレン、嘘言った、あれは過大案内だ」と言われかねません。「礼拝に出席すれば必ずご利益があります」と言えば、皆さん出席しますか。ご利益を求めて礼拝に出席するのではありません。「休まずきちんと授業に出席すれば単位を認定します。」と言われれば、授業に出席しますか。考えてみてください。確かに出席するでしょう。しかし、単位を取る目的で授業に出席しているのでしょうか。そうではなく、卒業し社会に出て、現場に立って働くとき、きっと授業を通して身につき学んだことが、役立つと信じているからだと思います。もしそう考えていない人がいたら、今からでも遅くはありませんので、その考えを直してください。

さて、イエスさまはいつも子どもたちや、その当時小さな者とされていた社会的に弱い立場に追いやられていた人々(やもめ~未亡人~や寄留の外国人)、無視され、蔑まれていた人々に対して殊の外、思いを寄せられ、積極的に関わりを持たれました。

「このような小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」(18:10)と言われ、「迷い出た羊」のたとえを話されました。ある人が100匹の羊を所有しており、その中の1匹が迷子になったとしたら、99匹を残しておいて、その1匹を探しに行くのが当然だというのです。そしてその1匹の羊が見つかったなら、99匹の迷わずに残しておいた羊のことよりもはるかに喜びは大きい。このようなたとえです。

イエスさまの価値観はわたしたちの価値観と明らかに違います。天国、神さまのお考えがイエスさまの価値観にそのまま反映しているのです。わたしたちは数、数量に関心があります。99匹と1匹を比較し、1匹のために99匹が犠牲になることなど考えられない。それより1匹だけが犠牲になるほうがいいのではないか、と数、数量の多い方を優先し、それを大切だと考えます。しかしイエスさまは数量ではなく、目につきにくい質量(弱さ、小ささ)を大切にされます。見落としてしまいがちな、忘れられてしまいそうな人(たった1匹の羊)を、とことん大切にされ、最後まで面倒を見られるのです。

実習の現場に立った時、あなたに寄り添い、駆け寄って来て、まとわりつく元気な子どもがいれば嬉しくなり、一緒に遊ぶことが楽しくなります。その子どもと、ずっと関わっていたい気持ちになるでしょう。でもそんな時、注意深く周囲を見回してください。部屋の片隅でひとりだけでうつむいている子ども、園庭に独りぼっちで寂しそうにしている子どもがいるかもしれません。そのような子どもに積極的に近づいて行って、優しく声をかけることができれば最高です。とても素晴らしいと思います。どのような声掛けをするのがふさわしいかは、十分考えてみる必要があります。あなたの声掛けによって、その子どもは一層固い自分の殻の中に入ってしまうかもしれませんから。声をかけないで、そっと傍らにいることがひょっとしたら正解かもしれません。

イエスさまはわたしたちに注意深く物事を見で、小さなことも見逃さないようにと願っておられます。わたしたちの注意力は人に対してだけでなく、周りの環境に対しても注がれるようにしたいものです。庭の草花一つ、石ころ一つ、ゴミ一つに対してどのように関わり、それに対処するかは、あなたがたひとりひとりの感性によるところが大きいかもしれません。感性は磨かれる必要があります。磨かれることによってますます豊かになります。嫌なこと、やりたくないことは誰にもあります。でも、それをすることによってあなたは成長し、人々の喜ぶ顔を見ることができるようになり、その喜びを分かち合うことができるようになるのです。

イエスさまは一人一人をこよなく愛され、大切になさいました。このわたしもその中の一人です。このわたしが覚えてもらっている、覚えられていること、こんな嬉しいことはありません。「どうせ、わたしなんか、もうだめだ」とヤケクソの気持ちになったことはありませんか。そんな時、このわたしに一番近くいてくださる方、みんなから無視され、仲間はずれにされ、もうダメかもしれないと諦めかけているわたしに、優しく声をかけ、大丈夫だよ、いつも一緒にいてあげるからと言ってくださる方がおられるのです。それを信じることができる時、子どもたちの前に勇気をもって立つ力が与えられるのです。

自分を静かに見つめる時こそ、祈りの時と言えるでしょう。夜寝る前のひと時、朝起きて顔を洗うとき、学校へ向かう電車の中、また実習に出かける途中でその時が持つことが出来ます。その時を持つことによって、あなたの1日を、あなたの実習を素晴らしいものに違いありません。これがご利益であると言えば、言えるのかもしれません。

皆さんの来週からの実習が実り豊かなものになりますように、覚えてお祈りしています。(チャプレン 大西 修)


押し花作り

晴天の恵みの中、今年も無事に創立記念行事を終えることができました。主に感謝です。以下、式の模様を簡単にお伝えします。

■学校法人 柳城学院  創立120周年 記念礼拝 (午前9時30分~ 短大体育館)

●開始前
座席に配布された「創立120周年記念文集 思い出2」を手にする学生さんたち

前奏と司式者団入場
 

聖歌 第367番「イスきみはいとうるわし」【創設者愛唱歌】

詩編 第23編

創立120周年記念の祈り

●聖書 ガラテヤの信徒への手紙 第5章1節、13~14節

聖歌 第498番「主われを愛す」

●平和の挨拶

主の祈り

●諸祈祷
・名古屋柳城短期大学のための祈り
・附属幼稚園のための祈り
・創立者及びこれまでの仕え人たちのための祈り
本学院に関わるすべての逝去者のための祈り

●式辞 理事長  ペテロ 渋澤 一郎 主教

120周年の節目あたり、私たちは先達が作り上げた歴史を振り返るとともに、これからは自分たちで歴史を作り上げていくという意識を持つ必要があります。それは、特別な人に任せればよいというものではなく、一人ひとりに課せられた役割なのです。

聖書には「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(へブル12:1)」と記されています。多くの証人、すなわち、誠実に務めを果たされた諸先輩方に囲まれて私たちの今があります。それを受け継ぎ、与えられた場所で誠実に働くことで柳城の未来が切り開かれます。「愛をもって仕えよ」という建学の精神を大切にしながら、これからも忍耐強く歩むことを決意しつつ、120周年をお祝いしましょう。

式辞 学長  長縄 年延

1898年に、たった一人の生徒が在籍する保母養成所からスタートした柳城学院が、今年で120年目を迎えました。男尊女卑の習慣が残り、子どもなどに手などかけておれない時代でした。創設者のヤング先生は相当に苦労されたと思います。戦時中は空襲で焼け出されもしました。そういう苦難の歴史が創立百周年記念文集「思い出」で知ることができますが、今回は120周年記念として「思い出2」を発行しました。学生の皆さんには、ぜひ読んで、柳城の伝統を学んでいただきたい。

柳城の多くの卒業生たちが、愛をもって仕える心で日本の幼児教育界に大きく貢献してきました。それが柳城の歴史を作ってきました。しかし、少子高齢化の時代を迎え、18歳人口がピーク時の半分以下にまで減るという事態です。その影響が本学にも押し寄せ、定員を充足することがたいへん困難になってきました。4年制大学の併設等の策を講じて、これからの保育に要求される国際化とか発達障がい対応といった専門的で質の高い教育を目指していかなければなりません。

「子どもに学ぶ」気持ちを忘れずに、初心に帰りつつ、これからも励んでまいります。今後ともご協力をよろしくお願いいたします。

●聖歌 第417番「あなたの平和の」

●永年勤続者表彰
 

●感謝の祈り

祝福

校歌

●後奏と司式者団退場

●来賓紹介

■第2部 創立120周年記念  特別講演
「人生の海に錨をおろして ~神の呼びかけが聴こえますか~」
日本聖公会首座主教(兼 北海道教区主教) ナタナエル 植松 誠 師父
 

「120周年を迎えられたこと、柳城学院の宗教母体である日本聖公会を代表してお祝い申し上げます。私の父が本学院8代目の理事長であったことに不思議な導きと畏れを感じています。」という言葉で始まった一時間余りの本講演。その膨大な情報量のゆえに、講演テーマに沿った一貫性を見いだせない自分の無能さが悲しくなりますが、以下、頑張って要点だけをかいつまんでお知らせします。

柳城学院創設者のマーガレット・ヤング先生がカナダ聖公会の宣教師として、自分の生涯をかけるという決断をしたことに、私はある種の羨望を感じる。それは驚きと羨ましさと言ってもいい。これと同じ感情を、私は12年前にタンザニアのザンジバル島にあるイギリス宣教師らの墓の前で感じた。この地上の楽園は、かつては悪名高い奴隷交易の拠点であったが、宣教師らの死をも恐れない努力によって奴隷解放が果たされたのだ。奴隷の地下牢跡の上には、現在、英国国教会の教会が建っている。

また、ロンドンでの会議に出席した際、私は、主教の出で立ちで十字架を首から下げていたにもかかわれず、「あんた、クリスチャンかね?」と、ある男に尋ねられたことがある。「もちろん! クリスチャンだ。主教だぞ。教会にも通っているし、聖書を読んで祈りもささげている!」と答えることもできたかもしれない。でも、振り返ると、あの質問の意味は「あんたは、キリスト教の福音を伝えるために命を懸けているか?」ということであったのだろう。あの男は天使だったかもしれない。

大阪釜ヶ崎にある労働者支援施設「ふるさとの家」に物資を届けに訪れた時のこと。食事の支度で忙しい中、奥から出てきた方は、あの有名な旧約聖書学者、本田哲郎神父だった。彼自身も日雇い労働に携わり、労働者からキリストの福音を学んでいるという。同じカトリックの森一弘神父は、「本当の権威とは、真実/誠実な人生の歩みからもたらされた知恵」だと語る。イエスが五千人に食べ物を与えた奇跡において、全員が草の上に座ったのは、群衆がイエスに権威を感じたからであろう。小さき者の側にいつも立つ、そのような権威が柳城の保育には備わっているに違いない。

家の引っ越し直前になって、うちの子どもがチューリップを庭に植えたいと言って聞かなかった。植えたところで無駄になることは目に見えているので、止めるよう説得したのだが、よくよく理由を聞いてみると「次に住む人がびっくりして喜ぶから!」というものだった。

また、妻が子どもの頃の話だが、幼稚園の月謝袋を親に渡さずに道路の植え込みに隠したことがあったという。子ども心に家が貧しいことを察して、その月謝袋を母親に見せると悲しむに違いないと思ったそうだ。当然、母親には怒られたが、訳を話さず無言を通した。そのうちに園の先生から「何か考えることがあって、したのね?」と言われて、やっと口を開いたという。

さらに、これもうちの娘の話だが、小さい頃から物事がスローな性格で、それが元でいじめに遭い、人間関係のもつれもあって、そのうちに物を食べなくなってしまった。ストーブの前でただ座る娘に私たちは絶望した。しかし、そのうちに妻が開き直った。「ハチミツだけをなめる娘だが、それでも神に生かされている。それを喜ぼう!」と。妻は、娘と一緒にいることが嬉しいというメッセージを送り続けた。そして娘は徐々に回復し、6年前に嫁いでいった。

私たちは子どもの心を理解し受け入れることを通して、神が背後で私たちの全てを理解し無条件に愛してくださる存在であることを子どもに知らしめる必要がある。それがキリスト教保育の本質であり、柳城学院創設者ヤング先生の願いであったであろう。

■学校法人 柳城学院  創立者記念墓地礼拝
(午後1時~ 日本聖公会中部教区 共同墓地【八事霊園内】)

●送迎バスを使って目的地へ向かいました。

●礼拝
お話しでは、マーガレット・ヤング先生のご生涯が詳しく語られました。
 

 

●献花
 

(加藤)

「弱者の側に立つ」ことはイエス・キリストが説く愛の一つの形であり、「弱者側」にとっては福音中の福音と言えましょう。そのように誰もが頭では理解していても、実践となると難しいですね。人間には、生物体として、生き抜くための本能が備わっているので、理性でコントロールされないと、すぐに弱肉強食の世界に陥ってしまうからでしょう。この「理性」の基準が、キリスト教ではイエス・キリストの言動になるわけです。その言動が4つの福音書に綴られています。

今回の聖書箇所もその一つです。丁寧に読んで、話をしっかり聞いて、心で理解したいものです。必ず役に立つからです!

礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「迷い出た羊のたとえ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書18:10-14
18:10 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。
18:12 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。
18:13 はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。
18:14 そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

●日時:11月14日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
12/5(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12月誕生日の祈りを行います。
12/6(木)クリスマスツリー点灯式 (事務室前) 16:30~
12/12(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12/19(水)クリスマス礼拝(体育館)14:50~

【マタイによる福音書18:21-35】
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

✝ ✝ ✝

赦すことは何と難しいことでしょうか。愛することは赦すことである、愛していなければ赦すことはできない、赦せないのは愛していないからである。そう言われたら、自分が思っている愛って本物なのだろうかと考えてしまいます。わたしがある人を心から愛していれば、もしその人の行動や、話したことが仮に間違っていたとしても、それをすべて赦すことができるはずです。しかし、本当にそんなことができるのでしょうか。

自分に直接関わりのない人は、赦すことができます。他人事ですから自分は痛くもかゆくもなく、見逃すことができるからです。あんなひどいことをする人は、見過ごしにできない、赦すことができない、と言葉で言うだけで、何も起きずに終わるのです。

赦すというと、赦す主体はわたしですから、わたしが誰かを赦すことをまず考えます。

ペテロの「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」との問いに対して、イエスさまは「7回どころか、7の70倍までも赦しなさい」と答えられました。ペテロにしてみれば、予想外の答えでした。なぜなら2~3回赦すことは何とかできます。「仏の顔も3度まで」のことわざもあります。7回までと言えば、そんなにまでよく頑張って赦したねと、きっとほめてもらえると思ったのです。しかし、7の70倍まで(490回まで赦すという回数の問題ではなく)完全に赦しなさい、すべてを赦しなさいというよりも更に、もっと強調されて、ずーっと赦し続けなさいと言われたのです。

そして赦す対象は、兄弟、身内、親しい人たちに限らず、すべての人たちなのです。

振り返ってみると、わたしは自分の子どもたちを何度も何度も赦してきました。「今度過ちを犯したらもう赦さないからね」と何度言ったことでしょう。その時、本当に心から赦していたのかと考えてみると、心の奥底に赦していない自分がいたことに気が付きました。

ですから、また同じ過ちを子どもが犯すと、「前にも同じことをしたでしょう。もう今度という今度は絶対赦さないからね」と怒りを露わにしてしまったこともあったのです。

さて、赦しのことを教えるために、イエスさまは「仲間を赦さない家来」のたとえを話されました。1万タラントン(現在のお金に換算すると1兆円に相当する金額)という考えも及ばないほどの高額の借金を、無条件で主君に赦してもらった家来は、そのすぐ帰り道で自分が100デナリオン(今のお金に換算するとおよそ100万円)貸している仲間に出会い、借金をすぐ返せと迫り、返せなかった仲間を赦さず、ひどい目に合わせた上、牢獄にぶち込んでしまったという話です。主君はそれを聞いて憤慨し、その家来を断罪し、借金を完済するまで牢獄に入れたという結末です。

ここでの主君は神さまのことを言っています。家来とその仲間はともに借金の多い少ないはあっても、それを負っている二人の人間を描いています。主君は、返せるはずもない膨大な借金を、必ず返しますから待ってくださいとしきりに願う家来の姿を、憐れに思い、彼を無条件で赦し、借金を帳消しにしてやったのです。何の見返りも報いも求めない赦しが一体あるでしょうか。しかし、この主君は無償の赦しを家来に与えました。これこそ神による「憐れみによる赦し」ということが言えます。たとえの中心がここにあります。神さまからの人類に対する無償の赦しが描かれています。たとえの中に出てくる借金や負債は、わたしたち人間が気付こうが気付くまいが、背負いこんでいるとてつもなく大きな罪のことです。どんなことをしても払い切れない、ぬぐい切れない罪の重荷をわたしたちは背負っています。それをなくすことは到底できない、不可能です。そのできないことをしてくださる方が神さまです。神さまはわたしたちを愛し、無条件で赦し、受け入れてくださる、死ぬことさえも厭われないお方なのです。神さまは、愛するみ子イエスさまをわたしたちの罪が赦されるために、十字架の死にまでつかせられたのです。

「憐れみによる赦し」を受けた家来は、当然及びもつかない赦し、どう表現してよいのか解らない赦された喜びを、生きていく中で表すことが求められていたのですが、目先の小さな赦しをさえ実現できなかったのです。

わたしたちはこの家来と同じ生き方をしていないでしょうか。自らの罪に目覚め、赦されている喜びをもって、日々出会う人々を赦していけるように祈り求めてまいりましょう。

11月後半から、実習が始まります。それぞれ遣わされた場で良き学びの日々が過ごせますように祈ります。(チャプレン 大西 修)


折り紙を折る幼児

今回心に響いた御言葉は…
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコによる福音書12:17)

本来なら敵対しあう者同士であったファリサイ派とヘロデ派が、イエスを殺すという合致のもとに集まりました。彼らはイエスを褒めあげ気持ちよくさせておき、その後に油断ならない質問をふっかけるという人の心理をうまく突く手段を使っています。しかしイエスには、そのような人間の狡猾さは全く通じません。すべてを見抜き会話を長引かせることを断つイエスの戦略に、人間は立ちうちできるはずがないのです。

「税金を納めるべきか?」 その問いかけは、Yes/Noのどちらを答えてもイエスを窮地に陥れるように計られていました。しかしイエスはそのような謀略に対して、さらりと「皇帝のものは皇帝に返せばよいではないか」と答えるのです。

私は今回の通読中、このイエスの感覚が、初めはすんなり理解出来ず考えに考えてしまい…😊✨ 迷路に陥ってしまいました。すると「落とし物があったらどのようにしますか?」とのヒントをもらいました。「その持ち主に返しますが…」と答えた瞬間、物事を子どもの様に単純明快に考えるイエスの現実的な理性と、彼の爽やかな本質に触れることが出来た(‼)と私は感じました。イエスはYes/Noで答えることを避けて、ファリサイ派とヘロデ派の企みをものの見事に一蹴されたのです。

そして加えて、富は天に積めという意味で、イエスは「神のものは神に返しなさい」と彼らを諭されました。物質的なものと魂のものとを区別し、私たちが向かい求めるべき道を指し示してくださったのです。

今回の『皇帝への税金』と題されたイエスの御言葉はとても有名な記事です。「知っている」と思っていることと「御言葉を深く心に刻む」ということは意識レベルでは全く異なるのだと、私は通読をとおし体感しました。

次回もイエスの御言葉からイエスを感じ、その御姿を学び、自身の喜びとしていきます(^o^)/


押し花を使った栞作り

【フィリピの信徒への手紙4:6-7】
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

今年2018年は柳城の創立120周年(1898、明治31年)、ヤング先生の生誕163 年(1855、安政2年)、来日123年(1895、明治28年)、そして逝去78周年(1940、昭和15年、名古屋において85歳で逝去、八事の教区墓地に埋葬)の記念の年に当たります。

ヤング先生はどんなお方だったのでしょうか。残されている記録や証言、写真などで概略を知ることができます。カナダのオンタリオ州ヴィエンナで幼少時を過ごし、そこのハイスクールを卒業、母校で5年間教師をし、その後1年間カナダ・ロンドン市の美術学校に学び、さらにハミルトン市師範学校保母科に2年間学び、卒業後1890~95年エールマ町幼稚園主任保母として勤務されました。

先生が日本に来られた第一の目的は、宣教師として伝道することでした。1891(明治24)年の濃尾大地震後、名古屋を本拠地としてすでに活動しておられたカナダ聖公会のロビンソン司祭の働きを援助し、家や親を失った子どもたちへイエスさまの愛を自らの身をもって伝えること、子供たちに援助の手を差し伸べることでした。

カナダにそのまま在住し、幼稚園主任保母として働き続ければ、安定した生活が保障され、地位や名声も約束されたに違いありません。しかし、あえてそれを投げ打って40歳という年齢で、しかも病弱というハンデキャップを押してまで彼女に来日の決意を促したものは、物静かな中にも芯の強い彼女が持っていたイエス・キリストへの愛、神を信じる信仰に他ならなかったと思います。

今から120年以上も昔、女性が単身、未知の国、日本にやって来ることは想像も出来ないことでした。彼女が40 年間カナダで学んだこと、教師として体験したことは、日本に来て大きな実りをもたらしました。その当時の日本の状況は、封建的な考え方が色濃く残っており、女性の地位は著しく低く見られ、就学前の幼児教育など殆んどなされていませんでした。そのような中で、ヤング先生は自ら学んで習得したフレーベルの考え方をもとに、保育を通して神の愛を伝えることを中心に、礼拝をし、聖歌を歌い、聖書の話を聞き、祈ることを大切にしたのです。青年たちに英語を教えたり、母親たちには料理やしつけなどを教えたりしました。子どもと大人が一緒に育ちあう場として幼稚園をとらえ、その働きの中から保母養成所が生まれました。鈴木いねという女性を自分の家に住まわせ、幼児教育者として訓練するかたわら、名古屋で初めての幼稚園として、柳城幼稚園を創立しました。そしてこの幼稚園の働きから柳城保母養成所が生まれ、鈴木いね姉が第1回の卒業生となったのです。

フレーベルは幼子と花と音楽をこよなく愛しました。遊戯は運動的な遊戯として、ダンス、行進、唱歌、作業的な遊戯として植物栽培、恩物を大切にしました。その流れをヤング先生も柳城の保育の中に位置付けました。今もそれが柳城の教育、保育の中に底流としてあることを忘れないようにしたいものです。

ヤング先生は1922(大正11)年、健康が悪化し、断腸の思いで帰国されましたが、柳城への熱い思いを断ち切ることができず、1936(昭和11)年、再来日、そして1939(昭和14)年、3度目の来日、翌1940(昭和15)年3月29日、愛する名古屋で逝去されました。

わたしたちが一番大切にしたいことは、ヤング先生の保育への情熱は、神に愛され、生かされていることへの感謝に培われた信仰がその根底にあったことです。名古屋での日々、わたしたちの知らない多くの困難や迫害がきっとあったことでしょう。しかし「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」というみ言葉に立ち、感謝と願いと祈りをもって生涯を全うされたことを忘れないようにしたいものです。(チャプレン大西修)


マーガレット・ヤング先生

イエス・キリストが説く愛には厳しいものがあります。嫌いという感情を超えて相手を慈しむことが要求されるからです。「感情ではなくて理性で相手を好きになる」という言い方が適当かもしれません。「そんなん無理」って感じになりますが、イエスは、そうするための具体的な方法もちゃんと教えてくれています。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)」

説教でも別な方法が語られるかも。

お待ちしています(^o^)/

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●テーマ:「赦すことの難しさ」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:マタイによる福音書18:21-35
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
18:23 そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。
18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

●日時:11月7日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
11月誕生日の祈りを行います。
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
11/14(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12/5(木)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
12月誕生日の祈りを行います。

今回は、翌日11/1(木)開催の創立記念礼拝に向けての「プレ礼拝」になります。本学院の創設者を偲び、未来に向けて、希望の光を灯し続けることを祈り、誓い合う。そんな清らかな時間が持てるといいなあと思います。

ハートだけは決して渇かさないように・・・。

ご出席、お待ちしています!

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●テーマ:「マーガレット・ヤング先生を偲んで」
●説教:大西チャプレン
●聖書箇所:フィリピの信徒への手紙4:6-7
4:6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
4:7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
●日時:10月31日(水) 14:50~ 全学年、教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル
礼拝後15:30頃から聖書を学ぶ時間を設けていますので、興味がある方はご参加下さい。

●次回以降の予定
11/1(木)創立記念礼拝(体育館)9:30~
11/7(水)合同礼拝(チャペル)14:50~ 説教:大西チャプレン
11月誕生日の祈りを行います。

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