*
ブログページ

「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

今回はイエスが徴税人レビを招かれた記事を通して、イエスが私たちに問われる人生の「立ち位置」について考え学びました。

当時のイスラエルでは、「徴税人」と呼ばれるイスラエル人がローマの請負人として自国の民から税金を取り立てていました。彼らは民の嫌われ者だったにもかかわらず、レビたちは仕事を続けていました。それだけ、今で言うところの「おいしい職業」だったのでしょうか。

一方、ファリサイ派の律法学者らは、自分たちの作った律法が守れない庶民を罪人呼ばわりしていました。彼らの律法は、こと細かな規則で出来上がっており、庶民にとって生活上どうしても守ることが出来ない無理難題ばかりでした。

そんな庶民をバカにしていたファリサイ派の人々は、愚かにも自分たちは「正しい」と思い込んでいる人間たちだったのです。

イエスはいつどんな時にも、弱い立場の人間の味方です。レビは嫌われ罪人扱いを受けていた、いわば光が当たらない側の人間です。そんな孤独なレビにも手を差し伸べられるイエスは、彼ら罪人にも光をお与えになられたのです。イエスが私たちに示された「人生の立ち位置」とはこういうことです。

私は、このイエスの「光」に憧れを持ちます。嫌われ者に「わたしに従いなさい」と仰ったのです。レビはどんなにか嬉しかったことでしょう。

イエスが行った愛の実践が、果たして自分にできるのか、私には全く自信はありません。しかし、だからこそ、イエスのなされた愛を常に理解し少しでも近づきたいと、福音書を読んで学び続けたいと願います。その努力の過程にクリスチャンとしての自覚を感じたいのです。

終わりに、今回教えていただいた、あるクリスチャンの言葉をお伝えします。

「ある人々は教会やチャペルの鐘の音が聞こえる範囲内に住みたいと願う、わたしは地獄の庭のなかで救済所を開きたい。」

主に感謝。(Y)

「医者を必要としているのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)

「正しい人」というのは、自分が一番正しいと思ってる当時の律法学者や司祭職などの権力者たちのことを言い、本当に正しい人は、イエス・キリストただお1人のみだったのです。

世間の嫌われ者を弟子に迎えたりするなど、光が当たらない側に立って光を与えるのが人生の立ち位置だったイエス。これこそが愛の実践です。

私も、周りを見渡して人を助けたりすることができる、そんな人になりたいと思いました。(YK)

今回は、お隣、名古屋聖マタイ教会の司祭であり、附属のマーガレット幼稚園のチャプレンでもある下原司祭をお招きします。

扱われる聖書は『知恵の書』。旧約聖書の続編という、どちらかというと馴染みの薄い箇所ですが、それが逆に大きなチャレンジに感じられます。柳城に対する下原司祭の熱い思いが伝わってくるようで、嬉しいですね。

「神こそ知恵の案内者、/知者たちの指導者であられるから。(7:15)」 
「わたしは知っている。神がくださるのでなければ、/知恵を得ることはできないことを。(8:21)」

「知恵は神のお恵み」と感じることで知恵が「本物の知恵」として活かされる。その知恵が聖書に刻まれているからこそ、柳城はその聖書をずっと大切にしてきました。

聖書を片手に、どうぞチャペルへ。
お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「学ぶこと」と「出逢うこと」
●聖書箇所:【知恵の書6:12-18】
◆知恵はいかなるものか
6:12 知恵は輝かしく、朽ちることがない。知恵を愛する人には進んで自分を現し、/探す人には自分を示す。
6:13 求める人には自分の方から姿を見せる。
6:14 知恵を求めて早起きする人は、苦労せずに/自宅の門前で待っている知恵に出会う。
6:15 知恵に思いをはせることは、最も賢いこと、/知恵を思って目を覚ましていれば、/心配もすぐに消える。
6:16 知恵は自分にふさわしい人を求めて巡り歩き、/道でその人たちに優しく姿を現し、/深い思いやりの心で彼らと出会う。
6:17 教訓を真心から望むことが知恵の始まりであり、
6:18 教訓に心を配ることは知恵への愛である。この愛は知恵の命じる掟を守ることである。掟を守ることは不滅を保障し、
(6:19 不滅は人を神に近づける。)

●説教:下原 太介 司祭(名古屋聖マタイ教会司祭、三好丘聖マーガレット幼稚園チャプレン)
●日時:4月23日(火)
3限:保育科1年ABクラス、保育科2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限:保育科1年CDクラス、保育科2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・5/7(火)3限(体育館):礼拝&観劇会(同窓会企画)  4限(チャペル):通常礼拝
・5/14(火)
3限(チャペル):通常礼拝 4限(体育館):礼拝&観劇会(同窓会企画)
・5/21(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

今年のイースター(復活祭)は4/21(日)です。その二日前の金曜日を受苦日と称して、イエス・キリストが十字架上でこの世の生涯を終えられた歴史的事実を心に刻む記念日としています。

今回のテーマは「十字架の意味」。要するに、礼拝堂に掲げられている大きな十字架や十字架ペンダントなんかを見て、あなたは一体何を思うか、という問いかけだと思います。答えは人によって微妙に異なるかもしれません。「イエスは正しい人だったのに、惨いたらしい十字架刑にかけられた」、「私の代わりに罪を背負ってくださった」、「愛の究極の形」、「あなたの流した血によって私は今も救われています」、「イエス・キリストは復活して今も生きておられる」、「わたしも十字架を背負ってあなたに従います」、「次は私の番です」などなど…。

さて、どのようなお話になるでしょうか。
礼拝、お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●テーマ:「聖金曜日(受苦日)〜十字架の意味」
●聖書箇所:「ルカによる福音書23:26-47」
23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。
23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

●説教:大西チャプレン
●日時:4月16日(火)
3限:保育科1年ABクラス、保育科2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限:保育科1年CDクラス、保育科2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル

●次回以降の予定
・4/23(火)説教者:下原司祭(名古屋聖マタイ教会)
・5/7(火)礼拝&観劇会(同窓会企画)
・5/14(火)礼拝&観劇会(同窓会企画)

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

「人間をとる漁師」とは罪人を招く人のことをあらわしています。この当時、律法学者らが決めたこと細かな規則(律法)を守ることが信仰の上で大切とされ、この律法を守れない人は罪人と呼ばれ蔑まれていたのです。

イエスは、それら弱い立場に置かれている民衆を束縛の痛みから解放するため、世に遣わされました。

ペテロ、アンデレ兄弟はすぐに網を捨てて従い、ヤコブ、ヨハネ兄弟も父やその雇い人を残しイエスに従って行きました。

彼らのこの純朴な姿は、現代の私たちに大切なヒントを与えてくれていると思います。彼らはイエスと初めて出会い、イエスを感じ、イエスのみを信じ頼る人生を選んだのです。

クリスチャンはイエス・キリストの愛の実践を目指して生きる人間です。それは常に進歩し続ける人間であることを意味します。人間の人格形成には、その芯となる基礎が重要です。クリスチャンはその基礎をイエスの生き様に置きます。イエスを知れば、自然に人生が死ぬまで前向きになります。

イエスは常に弱者の味方でした。だから今回私は、イエスに魅かれる人は日頃から自分の弱点を知っている「弱い人間」であることを知りました。「宗教などに頼る人は弱い人間だ」と思っている人がいますが、それは確かにその通りです。でも、弱いからこそ、イエスに頼って向上し続けるのです。それに、「宗教に頼らない人」よりは世間に流されずに自分自身を強く感じて生きて行けるような気もします。

宗教を持たない人であっても、イエスの人生を福音書から学ぶことによって、イエスそのものの息づかいを感じ取り、生きていく糧を得ることが出来るのではないでしょうか。

それはその人だけに見える、光り輝く喜ばしい強さ、つまり「真理」であると感じました。(Y)


花壇でランチ

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ1:17)

イエスは彼らに、わたしと一緒に弱い立場の人を救おうと言われたのです。
イエスは人々を助け、弱い立場の人の味方になり、たった1人で真実に立ち向かわれた方でした。

・人生の目的=イエス・キリストの愛の実践
・わたしについて来なさい=わたし(イエス・キリスト)とともに歩みなさい
・人間をとる漁師にしよう=罪人/弱者を救う人にしよう

イエス・キリストの愛を感じながら、これからもキリスト教のことをもっと学んでいきたいです。(YK)


ハナアブ

【コヘレトの言葉11:9,12:1】
11:9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。
12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。

柳城では毎年、その年の聖句(聖書のことば)を決めて、建学の精神「愛をもって仕えなさい」を一層具体化していく指標にしています。

今年は「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」という旧約聖書「コへレトの言葉」(11:9,12:1).からとりました。

コへレトとは招集する(ヘブル語のカーハール)者、集会で語る者、伝道する者(伝道者)の訳です。コへレトの言葉の著者はイスラエルの初代ダビデ王の息子のソロモン王(紀元前10世紀末)と言われ、コへレトがソロモンとされています。しかし実際にこれが書かれたのは紀元前2世紀末と言われています。

「コへレトの言葉」は人生の虚無と無常を強調する点では、聖書の中でも異色な存在とされています。「コへレトの言葉」の中には「空しい」という言葉がたくさん出てきます。普通「空しい」という言葉から受ける印象は「意味がない、無意味だ、空虚だ」と言ったものですが、「コへレトの言葉」では「若さも青春も空しい」(11:10)いうとき、「若さも青春も過ぎ去りやすい、移ろいやすい、あてにならない」と言った意味合いが深いと思われます。それではどうすればいいのでしょうか。

今朝も通勤してくる途中、たくさんの新中学生、新高校生、新大学生を見ました。

みんな、とても新鮮で、明るく、生き生きとした表情で歩いていて、その姿を見て心が躍るような気持ちになりました。

わたしが中高大学生になった50 年以上前の4月、一体どんな気持ちだったのかなーと振り返ってみました。不安と期待と緊張にドキドキしながら入学したばかりの日々を送っていたように思います。

若さを謳歌し、青春時代を楽しく過ごすこと、こんな素晴らしいことはありません。それには良き友に出会うこと、良き友を見つけることが大切です。一人でいては若さを謳歌し、青春時代を楽しく過ごすことはできません。

皆さんはあまり慣れていないかもしれませんが、じっくり考え、話し合って行動することは良き友を得て、長く付き合っていくために重要なことです。

人々との関わりを通して、人間としての豊かさとは何かを考えていくことに学ぶことの大切な一面があるからです。そのために、信頼できる友だち、話し合える友だちが必要です。「友達は話を聞いてくれる、友達は優しくしてくれる、生き詰まった時、相談に乗ってくれる。友だちは対等だからよい。時には嫌なことも言ってくれる。腐っているときに励ましてくれる。友だちは信頼できるライバルだ。友だちは宝だ。わたしも誰かの友だちになろう。」(山野上素充「ヤマさんのひとこと」)

私も誰かの友だちになることは、想像以上に大きな学びを与えてもらえる機会となります。

わたしは高校大学時代から付き合っている親友がいます。彼は現在、パーキンソン病のため、言動の面で不自由な生活を余儀なくされていますが、お連れ合いの献身的な介護によって、何とか自宅でベッド生活を送っています。長野市に住んでいますが年に1~2回お見舞いに行っています。その彼が「ホジキンリンパ腫」を発症し、とても苦しんでいた大学2年の時、彼の下宿で幾晩も一緒に過ごし、彼の心の痛みを共有した経験は彼との関係を深いものにしました。1月にお見舞いした時、「俺が死んだ時は、大西に弔辞を読んでもらう」と言って、微笑んでいました。

「人間は考える葦である」(パスカル)、「我思う、ゆえに我あり」(デカルト)など、有名な哲学者の言葉がありますが、人間は他者との関わりの中で、考える存在として、他の動物とは一線を画したものとして造られているということです。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」とは、少し難しく言えば、「あなたは何者なのか」「あなたはなぜ生きているのか」「あなたが今、生きている意味は何か」このようなことを考えるのが、青春の日々にはとても大切だと言われているのです。

中高生時代は知的能力(知識)が第1とされ、教えられたことを記憶することが中心だったかもしれません。それも大切ですが、学問は問うことを学び、問うことによって学ぶことです。「なぜ?どうして?」と問う姿勢が大切であり、今後そのような姿勢を授業などを通して養い育てていってほしいと思います。

言葉を大切さにすること。言葉は人を生かしもするし、殺しもします。「人間の口から出る言葉というものは、心から出るものです。この心から出ることを忘れて言葉を語るのは、ナンセンスです。貧しい心からは貧しい言葉しか出てきません。豊かな言葉は豊かな心から出てきます。実に簡単明快なこの一事をわたしたちは忘れていたような気がします。」(三浦綾子「藍色の便箋」)

「おそらく、これから死ぬまでの間に、私はまだまだ多くの人の言葉に励まされ、教えられて生きていくに違いない。私を強めてくれるこれらの言葉は、私にとって何ものにも代えがたい宝なのだ。」(同上 「忘れえぬ言葉」)

真心をもって人と向き合い、話す相手があなたの言葉によってやる気を起こし、あなた自身もよかったなーと感じられる、そんな言葉を使うようにしたいものです。(チャプレン 大西 修)


学生ラウンジにて

 

【マルコ11:17】
「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」

今回のテーマは「イエスの宮清め」と言われている有名な記事です。私はお話を聞くうち、その当時の人々の心や姿がイメージできて強い臨場感を持ちました。そしてイエスの真の愛について学ぶことができました。

神聖であるはずの当時のエルサレム神殿は、商人と祭司長、律法学者のための商業システムが成り立つ偽りの神殿でした。

いけにえの動物は無傷かどうかが事前に調べられ、「不合格」ならば商人が用意した動物を購入する必要があるとか、献金専用の貨幣への両替を強制され、その手数料も取られるなどといった見事な金儲けのシステム・・・。もちろん、商人が儲かれば、その「元締め」である祭司長らの懐も潤うということです。

参拝者は不満を抱えていたでしょうが、エルサレム神殿の絶対権力には手も足も出せません。

そんな状況でイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と宣言して商人たちを蹴散らしたのです。表向きは「宮清め」ですが、実際は「宗教権力者への警告」と呼んでもいいほどの衝撃的な出来事で、イエスの十字架への道がこれによって確定したと言ってもいいでしょう。

一方、商人らが混乱する様を見ていた群衆はきっと大喜びだったでしょう。イエスの「祈りの家」宣言に心打たれた群衆はイエスをますます慕うようになります。それがかえって宗教権力者らの嫉妬心をさらに強めることになりました。

イエス・キリストは「愛の人」であるとよく言われます。私もクリスチャンになる前には、そのように大きな優しさに溢れるイエス像を感じていたものです。

しかし福音書を学ぶごとに真のイエスが見えてきました。

もちろん、最高の愛の人であることに変わりはありませんが、その愛の内容がもっと深いのです。

今回、私は「警告」が愛の一つの表現であると学びました。愛があるから、イエスは祭司長や律法学者の偽りの行いに対して無視することができなかった…。彼らに悔い改めのチャンスさえ、お与えになったのです。マザー・テレサが言うように「愛の反対は無関心」だからです。優しさばかりを強調して、それがかえって人の成長を妨げる場合があります。「甘やかし」がその典型ですが、人の成長に無関心という意味では愛とは言えないと思います。

人が普通は避けたがる「怒り」ですが、その中には真の愛が含まれることがあります。それは悪を戒め浄める力です。私はそのイエスの御心を心から尊敬し仰ぎます。

次回も福音書を通して、イメージを膨らませながらイエスの道を学んでいきます。(Y)


カラスの営巣

【感想】

イエスは人々に優しく、人々のために生きていた人物ですが、ただ優しいだけではなく優しさの中に厳しさがあったのだと思います。

神殿から商人を追い出す場面では、イエスの怒りは感じられますが、怒りの中に商人に対する「愛」があったのです。

イエスの優しさというのは、時には厳しく人々に接するということ。

それは柳城の先生や、実習園の先生にも言えることだと思います。私に厳しく言われる時もあるけど、それはきっと私に対して愛を持って言われているのだと、この聖書の学びで感じることができました。(YK)


柳城短大の桜

このページの先頭へ