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【コリントの信徒への手紙一 13:13】
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

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【マルコによる福音書4:30-32】
4:30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
4:31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
4:32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

✝ ✝ ✝

私ごとですが、それまで「柳城」のことは何も知らず、せいぜい、伝統ある保育者養成校という認識しか持たないで、昨年の4月に本学に赴任いたしました。新入学生と同じように、それ以来、「愛をもって仕えよ」「人々とともに生き、人々のために仕える」という学院の建学の精神の言葉が、重く私の心に入り込んできました。初めて聞く言葉です。

「愛をもって仕える」とは、どういう行動をすること?、どのような愛をもって? 「仕える」って、どういうこと? という問いが自分の中で何度も行き来しています。私は聖書のことも何にもわかりませんので、礼拝にもなるべく出るようにしてみました。また、4月早々から私の流儀で「にわか勉強」を始め、図書館で「柳城短期大学紀要」を片っ端から読んでみたり、本学院の歴史資料室にある「記念誌」なども手あたり次第、読んでみました。その中で、最も心を動かされたものがあります。それは、「種蒔き」というマーガレット・ヤング先生の詩であります。皆さんは、もう、十分にご存じです。

      種蒔き           M/ヤング作

翼ひろげた天使が
愛と真理と光明との
種子をひと粒 手にもって
飛ぶのを止めて考えた。
「これが大きくなったなら、すばらしい実がなるように
どこに蒔いたらよいのだろう」

救い主さま、それを聞いて
にっこり笑って おっしゃった
「私のために その種子を
子どもの心に 蒔いておくれ」

私は、大学入学以来、幼児教育をやってまいりましたが、ヤング先生の詩に触れ、改めて、フレーベルが幼稚園に「庭」を大事にし、教師は「園丁のしごと」であり「子どもの心に愛と真理と光明との一粒の種を蒔き、育てるしごと」だといったことを深く考えました。

種子をまくという作業は、まず、土地の耕しから始めます、そして、腰をかがめて一粒ずつ、丁寧にまいていきます。蒔いたあとは、水やりや、雑草抜きや、害虫に襲われないように用心もします。太陽の光もなくてはなりません。考えてみますと、これは一人でもできそうな仕事ですが、よく考えてみると、決して自分一人でできる仕事ではありません。まず、水をやるといいましても、その水は誰かが水道を引いてくださったものであり、じょうろだって私が作ったものではありません、誰かほかの人によって作られたものです。

そうなんだ、「一粒の種を蒔く」ということは、「私一人でできる」ことではない、私以外の目に見える人、誰かわからない人たちの多くの知恵や工夫に支えられて初めてできることなのだ、ということに気づいたわけです。
こうして、柳城のことがまったく「わからなかった」「知らなかった」ことが少しだけ、「自分流儀で」わかったような気持ちにたどり着きつつあります。
11月には八事のヤング先生のお墓にも、一人で行ってきました。秋の晴天のもと、墓石の前で、名古屋の空を眺めておりますと、「ヤング先生も、この同じ空を眺められたであろう」「ヤング先生も、名古屋のこの空気をお吸いになったであろう」という思いがわいてきます。何だか、背中を温かく後押しされたような気持ちです。

柳城には、「一粒の種を蒔く仕事」に携わっていらっしゃる方が多くおられます。教員だけでなく、事務の方々、また、それ以外の方々、そういう人たちと一緒に「種を蒔く仕事」ができるということは、なんと心強く、うれしいことでしょう。自分だけの仕事ではない、多くの方々とつながりあって種蒔きを続けられるという幸せ、こんなことを感じながら、新しい年の一歩を踏み出していきたいと、思うとことです。学生の皆さんにも、一粒の種を蒔くという仕事を大事に励んでいただきたいと願っています。
(副学長 豊田和子)

【マタイによる福音書2章9-11節】
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

✝ ✝ ✝

 イエスがユダヤ地方の小さな村、ベツレヘムで生まれた時のことです。東の国の博士たちが、新しい王の誕生を告げるとされる星を見つけ、その星を頼りにユダヤ地方にやってきました。この時点では、博士たちは、救い主がどんな姿で、この地上に現れたのか、全く知りません。
博士たちはまず、当時その地方を支配していたヘロデ王のところに行きます。ヘロデ王に挨拶をした後、ベツレヘムに向かうわけですが、そこで博士たちを待ち受けていたのは、実に意外な光景でありました。救い主の誕生の場所を知らせる星が、ついに一つの場所に止まります。しかし、その星が示したのは、ただの「家」でありました。
博士たちは、ユダヤ王国の権力の頂点にいるヘロデ王の宮殿からベツレヘムに向かいましたので、ユダヤの王の姿がどういうものか、実際に会って理解しているわけです。そして、そのヘロデ王を超えるような王の姿を想定していたことでしょう。ところが、星が示したのは、ヘロデ王がいたような大きな宮殿ではなく、貧しい村の民家でした。しかも、中に入ってみたら、若い母親、そして、飼い葉桶に寝かされていた幼子がいるだけです。
普通に考えれば、博士たちは、こんな幼子は救い主のはずがない、と思いそうです。しかし、博士たちは疑問に思うどころか、その幼子の前に、ひれ伏して拝んだのでした。そして、最も大事にし、また仕事道具でもあった宝、黄金・乳香・没薬を差し出したのでした。
博士たちが見た幼子はそこにただ寝ていただけかもしれません。泣いていただけかもしれません。ただの幼子としてこの世に生まれ、マリアに頼らなければ何もできないイエス。博士たちは、星が示した、すなわち、神が示された救い主が、この幼子なのだ、という知らせを目の当たりにします。それによって、博士たちに、決定的な価値観の転換が起こったのでした。

すなわち、救い主とは、この世の権力の頂点、たとえば、ヘロデ王のように政治力や軍事力をもって人々を導くような存在ではない、ということです。むしろ、本当の救い主とは、他の貧しい人たちと同じように、小さく弱いものとして、私たちの間に来られる、ということです。神は、貧しい人々の間に入って、人々と共に泣き、共に喜ぶような存在、上から支配するような存在ではなく、愛をもって仕え合う存在なのだということ、そのことに、博士たちは気付かされたのでありました。

クリスマスとは、神自身が、愛によって人々に仕えるために、その独り子を幼子として、この世に差し出された出来事です。神は、持っているたくさんのものの中から、ほんのごく一部を分けたのではありません。神は、身を挺して、神自身を、最も弱い姿でこの世に差し出されました。このような神の行為に気がついたからこそ、博士たちに決定的な価値転換が起こり、それまで最も大事にしていたものを差し出し、新たな道へと踏み出すことが可能となったのでした。

神が、独り子を幼子としてこの世に遣わされたことを覚え、遠く東の国から旅をしてきた博士たちと共に、愛をもって仕えるという新たな道へと旅立つ2021年でありたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


新年早々の中庭

【ルカによる福音書第2章1-7節】
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。

これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

✝ ✝ ✝

 このルカによる福音書のイエスの誕生の場面には、現代のようなクリスマスのイルミネーションも豪華なご馳走もありません。それどころか、彼らには寝泊まりする場所すらありませんでした。
旅先のベツレヘムで、家畜と一緒にいる部屋で、マリアはイエスを出産します。「飼い葉桶に寝かせた」と書かれています。
その飼い葉桶ですが、飼い葉桶と言うと、木製の可愛らしいものを想像するかもしれません。しかし、当時のパレスチナ地方の飼い葉桶は、桶と言っても木製ではなく、石をくり抜いて作られたものが一般的だったそうです。生まれたばかりの神の子イエスが最初に置かれた場所は、豪華な部屋の、ふかふかのベビーベッドはありませんでした。
この世に生まれ出た神の子であるイエスには、泊まる場所すらありませんでした。しかも、イエスが寝かされたのは、石でできた飼い葉桶、冷たい石の上であったかもしれません。このように、誕生のときから、徹底して無力な姿で私たちの間に宿られ、この社会にまともな居場所も与えられず、冷たく拒絶されていたわけです。

その出来事から30年後、イエスは、ローマ帝国の片隅のガリラヤ地方で、この世での居場所が奪われた人達と共に悲しみ、共に喜び、また病気を癒やしたりする働きを行います。そして、その行動ゆえに、首都エルサレムで、ローマ帝国とその傀儡政権によって十字架で処刑され、当時の社会から抹殺されることになります。
そして、イエスが十字架から降ろされて、葬られることになる場所もまた、処刑場から近い、暗い洞窟の中の石の上でありました。

つまり、イエスは、その生涯の最初から最後まで、この社会で居場所を与えられることはありませんでした。そして、その初めも、そしてまたその最後も、全くの無力な状態とされ、硬く冷たい石の上に寝かされたのでした。
神の子イエスは、冷たい石の上で、無力な姿でこの地上で肉体をとり、最後にまた、石の上で、無力なままに埋葬されます。しかし、それゆえにこそ、再び神によって新しい命へと起こされ、イエスの弟子たちに現れ、希望を告げ知らせるのでした。
この逆説的な出来事こそ、この社会で居場所のない人たち、無力とされ、生きがいを失った人たち、そしてすべての命にとって、本物の、生きる希望となるわけです。

クリスマスとは、このように、それまでの世界の常識がひっくりかえるような形で、神の救いが開始される、そのことを記念する日です。新しい希望が見いだされる日、それがクリスマスです。
もうすぐクリスマスです。皆様一人ひとりの中に、そんな希望の喜びが訪れることをお祈りいたします。


伐採前の樹木

クリスマス礼拝2020

カテゴリー:礼拝

12/15(火)にチャペルで行われた礼拝の模様をお届けします。

新型コロナウイルスの感染者が全国的に急増する中、学生さんへの感染を未然に防ぐために、今回の礼拝は教職員だけで執り行うこととしました。

●前奏 奏楽:長井典子 講師

●聖語

神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、み子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネによる福音書3:16)

●初めの祈り

主よ、わたしたちの口を開いてください
わたしたちは、主の誉れを現します
栄光は父と子と聖霊に
初めのように、今も、世々に限りなく アーメン
主をほめたたえましょう
主のみ名をたたえます

●マリアの賛歌 ルカ 1:46-55

1 わたしの魂は主をあがめ|| わたしの霊は救い主である神を喜びたたえる
2 神はこの貧しい女にも|| 目を留められた
3 今から後、いつの世の人も|| わたしを幸いな女と呼ぶ
4 力ある方が|| わたしに偉大なみ業をなさったから
5 主のみ名は聖|| その憐れみは世々、主を敬い畏れる人に
6 主はみ腕の力を振るい|| 思い上がるものを打ち散らし
7 権力を振るう者をその座から下ろし|| 身分の低い人を引き上げ
8 飢えた人を良い物で満たし|| 富んでいる人をむなしく追い返される
9 神は父祖アブラハムとその子孫に|| 永遠に約束されたように
10 憐れみを忘れず|| 僕イスラエルを助けられた
栄光は|| 父と子と聖霊に
初めのように、今も|| 世々に限りなく アーメン

●聖書

その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 (ルカによる福音書 2:8-16)

●クリスマスメッセージ:チャプレン 司祭 ヨセフ 下原太介

今年は新型コロナウイルスに苦しめられた一年でした。何が最善の対策なのか、誰にも正解が分からず、ただひたすら目先の対処療法を信じて突き進んでいると言ってよいでしょう。その結果、人類は人との関係性を断ち切って生きるという、前代未聞の生き方を選択せざるを得なくなったのです。

仮に、この私たちの今の混乱ぶりが歴史に刻まれて、それを100年後、1,000年後に評価されたとしたならば、きっと未来の人々は私たちの無知ぶりに驚くことでしょう。それは当たり前のことで、その未来には新型コロナウイルスに対する膨大な知識がきっと普及しているからです。

そのような見方でイエス・キリストが生まれた2000年前について考えてみると似たような状況に気づきます。すでに「未来人」である私たちには福音書があるので、イエスが神であることや十字架の救いの意味については正確に把握できています。でも、2000年前当時のイエスを知る人々は彼のことについて完全に無知でした。それはイエスの両親でさえも同じでした。せいぜいのところイエスを預言者とか政治の指導者と思った程度で、中には悪魔のリーダーといった全くの誤解をする者も大勢いたのです。

さて柳城においてイエスへの信仰を持つ人は多くはないのが現状ですが、コロナウイルスに対するのとは大きく異なり、イエスに対する知恵という点では確立されたものを柳城は備えています。たとえ信仰は持っていなくても「イエスについて正確に知ることができる」という状況下に私たちが置かれていることが、まさに神からの大きなプレゼント、恵みなのです。

今日のクリスマス礼拝を、この恵みを感じる時にしたいと思います。(要約:加藤)

●聖歌 第81番「神には栄え」

●奉献の祈り

全能の父なる神よ、この信施を受け、主のみ業のために用いてください
すべてのものは主の賜物。わたしたちは主から受けて主にささげたのです アーメン

●点火の祈り

大いなる光を造られた主が、豊かな憐れみによってわたしたちの心の闇を照らし、喜びに目覚めさせてくださいますように
アーメン
光の源である主の輝きによって、救いの光が世の隅々にまでゆきわたりますように
アーメン
義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますよう
アーメン

●主の祈り

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。 アーメン 

●降誕日特祷

全能の神よ、み子の訪れによってわたしたちを清め、心の闇を照らしてください。主が来られるとき、主にふさわしいみ住まいを、常にわたしたちのうちに備えることができますように、父と聖霊とともに一体であって世々に生き支配しておられる主イエス・キリストによってお願いいたします。
アーメン

●平安のため

すべての聖なる望み、良い思い、正しい業のもとである神よ、この世の与え得ない平安をわたしたちにお与えください。わたしたちがみ心にすべてをゆだね、み力によりあだを恐れず、安らかに日々を過ごすことができますように、救い主イエス・キリストのいさおによってお願いいたします。
アーメン

●諸祈祷

名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学のために祈りましょう
全能の神よ、わたしたちはただ主の賜物によってまことの知恵を得ることができます。どうか、み名によって建てられた名古屋柳城女子大学・名古屋柳城短期大学に恵みを下し、教える者と学ぶ者を祝福して、共に知識を深め、主の真理を悟り、愛をもって互いに仕え、謙遜な心で唯一の神を仰ぐことができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン

新型コロナウイルスや東日本大震災の自然災害によって被害に遭われた方々を思い、ともに祈りましょう
慈しみ深い神よ、新型コロナウイルスや相次ぐ自然災害によって命を失った人々のために祈ります。どうか彼らがあなたの御手の中で安らかに憩うことができますように。家族を失った人々に主の慰めが与えられますように。また、今もなお苦しみ、不安の中にある人々に、勇気と希望をお与えください。そして、わたしたちも、この人々のことをいつも思い出し、助け合う心を持つことができますように。主イエス・キリストによってお願いいたします アーメン

●祝祷

●聖歌 第74番「きよしこの夜」

●後奏

 

【マタイによる福音書第1章18‐21節】
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

✝ ✝ ✝

 ヨセフとマリアは婚約していました。ところが、結婚前に、マリアに子どもができます。しかも、結婚前にヨセフとマリアは関係を持っていませんでした。ヨセフにとっては大変なショックでありましょう。ヨセフから見れば、婚約者ではない、誰か別の人とマリアが関係を持ち、その人との子どもが、婚約者であるマリアのお腹の中にいるわけです。裏切られたと思ったことでありましょう。
しかし、ヨセフとしては、まずもって心配になったのは、マリアの命です。マリアのお腹にいる子どもが婚外子であることが表沙汰になれば、マリアは律法に違反した者として、晒し者になって、石打ちの刑に処せられるかもしれません。結婚相手の愛するマリアがそのようなことになることは耐え難い苦痛に他なりません。また、仮に処刑されなかったとしても、母子ともに、これからずっと様々な差別を受けることになります。
また、ヨセフは、マリアのお腹にいる子の、自分ではない本当の父親について思い巡らします。他人の子どもを自分の子どもすることは、その人の父親としての権利を奪うことにもなってしまいます。そこで、ヨセフは、マリアが恥をかくことがないように、内密にマリアとの婚約関係を解消し、その本当の父親とマリアが結婚することを望んだようです。
しかし、聖書によれば、マリアは聖霊によってみごもったのであり、ヨセフも天使によって、そのことを知らされます。天使はヨセフに言います。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
この言葉を聞いたヨセフは、すべてを受け入れるのでした。
それから、イエスが生まれるに至るまで、マリアもヨセフも、世間から白い目で見られていたかもしれません。当時としては、世間的、この世的、常識的に考えれば、マイナスだらけ、傷だらけのカップルだったかもしれません。しかしながら、マリアもヨセフも、神が自分たちと共におられることを信じ、そして「恐れるな」と神から告げられたことに寄り頼んで、そうした周りからの目をはねのけるようにして、ついに男の子を出産し、その子にイエスと名付けました。
このように、クリスマスとは、世間から見放されたり、傷つけられたり、白い目で見られたりする、そのような人々の中で、救い主が生まれる、という出来事です。マイナスだらけ、傷だらけに見えるものの中に神の恵みがあるという、この世の常識を突破する出来事です。
クリスマスがまもなくやってきます。今、傷つけられたり、人から見放されたりしている人々に、そして今、ここにいる私たちに、天使が告げたように、「恐れるな」と、神様が勇気づけられておられることを覚え、クリスマスを待ち望みたいと思います。
(チャプレン 相原太郎)


押し花

【マタイによる福音書第1章19節】
夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。

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今年も清らかな時間が守れました。
神に感謝ですね。

いつもながらの(笑)小さな点灯式です。
それがさらに新型コロナウイルスの影響もあって、今回は教職員だけの集まりとなってしまいました。

こういうタイミングですから、相原チャプレンの「今風の華やかなクリスマスの雰囲気とはまるで違って、イエスは貧しい小さな光の中で誕生した」という内容の点灯式メッセージが心に響きます。

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7)」

イエスの誕生を記す福音書の記事は極めて簡素ですが、でも、キリスト教の立ち位置というか真髄、原点はこの文章に集約されています。

弱い人の方へ、貧しい人の方へ、悲しむ人の方へ、キリスト教信仰のエネルギーは流れ続けるのです。

その流れが収まった時、つまり、全人類が平和に満たされて平等感を分かち合える時にこそ「神の国(=神が支配する国)」が実現するのでしょう。

先ずはこの小さな柳城からスタートさせたいものです。
そのような平安な組織の完成を目指して。(K)

「 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

【ルカによる福音書1章39-42節】
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。

✝ ✝ ✝

 マリアとエリサベトという二人の人物が登場します。子ども宿している二人の女性が会って、喜びを分かち合った、というものです。マリアとエリサベトが子どもを宿したことを分かち合う喜びは、極めて特別なもの、特殊な事情があってのことでした。
まずはイエスの母、マリアです。マリアには、ヨセフという、いいなづけがいました。しかし、妊娠が判明したのは結婚する前で、ヨセフとは関係を持っていませんでした。結婚する前に、婚約相手ではない男性との間で子どもを宿す、ということは、あってはならないことでした。マリアが神によって身ごもったということを、当時、誰も信じるはずがありません。夫となるヨセフもそうでした。このことが明るみに出れば、石打の刑になります。幸せな結婚生活を楽しみにしていたマリアはどん底に突き落とされます。
仮に処刑されなくても、ヨセフと離縁してシングルマザーとなることは、当時の社会においては、厳しい生活を送ることを意味します。さらに、この地域は当時、ローマ帝国に支配されていました。その中で、少なくない女性たちが、ローマ兵の性暴力の被害に遭ったとみられています。性暴力は、今以上に、被害女性とその子どもに対して差別の目が向けられ、マリアとその子どもも、そのように見られて侮辱される可能性が多分にありました。
このように、イエスの母マリアは、大変な不安と怖れ、緊張、苦悩の中に置かれていたわけです。そこで、マリアは一人で旅に出るのでした。当時、このような形で女性が一人で旅をすること自体、異常な逸脱行為でありました。マリアの苦悩の大きさをうかがい知ることができます。
そのようにしてたどり着いたのが、山里でひっそりと暮らすエリサベトでした。
エリサベトはこの時、子ども宿していましたが、それまで子どもがなく、高齢を迎えていました。当時のユダヤ社会では、子どもを産まないと、その女性はもちろんのこと、彼女を産み育てた家までも、厳しく非難されていました。そのような状況の中で、長い間エリサベトは辛い生活を送ってきました。
結婚前にいいなづけの男性との関係を持たないまま子を宿したマリア、そして高齢になって子を宿したエリサベト。この二人の女性が山里の家で出会い、お互いの苦悩と喜びを分かち合います。そして、そのような厳しい状況の中でも、神からの呼びかけを聴き、自分たちは、たしかに生きていていいのだ、ということを確認し合うのでした。これこそが、二人の女性の特別な喜びであったわけです。
まもなくやってくるクリスマスの喜びとは、このように、世間から侮辱されている人、辛い思いを強いられている人々に、あなたたちは確かに生きていていいのだ、あなたの人生はどんなことがあろうと神から祝福されているのだ、かけがえのない存在なのだ、ということが明らかにされる出来事です。

このクリスマスのときが、皆様一人ひとりにとりまして、喜びの時となりますことを、お祈りしております。
(チャプレン 相原太郎)


最後のミッション?

【マルコによる福音書 10章13‐16節】
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

✝ ✝ ✝

神さまはおっしゃる、わたしはちびっ子どもがすきだ
みんなもあのようになってほしい
ちびっ子のようになれないおとなは、大きらいだ
わたしの国には子どもしかはいってもらいたくない
子どもといっても、からだの曲がったのやら、しわのよったのやら、白いひげのはえたのやら、いろいろいるが、子どもには変わりない
わたしが子どもがすきなのはわたしの似姿がまだ曇っていないからだ
それを台なしにせず、新鮮に純粋にしみもなく、きずもなく保っているからだ
だからかれらにやさしくよりかかればかれらの中にわたしの姿が見えるのだ…
わたしが子どもがすきなのは、かれらがまだ、もだえながら罪をおかしているからだ
かれらがそれを知りつつ正直に告白し、もうおかすまいと、いっしょうけんめいに努力しているからだ
M・クォースト「ちびっ子どもが好き」より  (『神に聴くすべを知っているなら』所収)

この詩の背景に、二つの聖書の箇所が浮かんでくる。一つは、「創世記」1章27節の「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」という箇所であり、もう一つは今日朗読した「マルコによる福音書」10章13~16である。
もっとも、この詩では、文字通りの子どもだけでなく、大人も含まれている。

授業で、大人と子どものさかいについてよく尋ねることがある。学生は18歳と20歳に分かれるが、少数の学生は年齢では区切れないと回答する。たしかに大人とこどもの境界は明確に区切れないようにも思われる。ある作家が、ひとと言うのは、その中心部分に子どもがあり、その周りに、ちょうど樹木の年輪のように、大人の部分が増えていく、とたとえているが、わたしのイメージもそれに近いものがある。

来年は東日本大震災から10年目になるが、柳城は、数年にわたり、夏休みごとに東日本大震災の被災地ボランティア活動を行った。
ある年のプログラムは、福島県の仮設住宅の子どもたちと夏休みの何日かを過ごすというものであった。その年の子どもたちは仮設住宅での長期的生活でストレスがたまっていた。全国からボランティアの申し入れがあり、そのなかには有名な音楽グループの演奏会などもあったりした。ただ、子どもたちはストレスがたまっているためか、その演奏に集中して聞けずに、騒ぎ始め、演奏している人びとが怒ってしまったという話も伺った。わたしたちが福島入りをしたのはその直後であった。子どもたちの心が不安定だとも聞かされた。うちの学生はどうするだろうかと心配しつつ見守っていた。しかしその心配は、柳城の学生が関わってからしばらくして聞こえてきた子どもたちの笑いとともに消え去った。

子どもが真ん中に立ち、学生であるお姉さんたちは、その周りに円になり座り込みながらじつに楽しそうに、子どもの話を聞いている。子どもも嬉しそうだったし、それに耳を傾けるお姉さんたちの姿も嬉しそうだった。もちろん、子どもはあばれたり騒いだりするようなことはなく、短い期間ではあったけれども、子どもたちとお姉さんはとてもなかよしになっていった。

柳城の生活の中で、思い出に残る光景の一つである。これぞ「柳城のこころ」かなと思うような一場面であった。まるで聖書の一場面のようだった。真ん中に子どもがいて、その周りに大人がいて、子どもの言葉に耳を傾けている。

子どもが自分の人生の主人公であると感じることができるのは、小さい時のこのような体験の積み重ねなのではないだろうか。演奏会のグループもすてきな演奏をしてくれたのかもしれないけれども、子どもたちにとっては、またおとなしく聞かなければならないというような体験でしかなかったのかもしれない。
一度しかない人生の最初の段階で、自分が自分の人生の主人公であることをお手伝いできる仕事はとてもすてきなことであり、幼児教育・保育に関わる者に課せられた大切な使命ではないだろうかと思っている。

いま柳城で学んでいるみなさんも、子どもの心をいつもその中心に置きながら、学び続けていくことを是非とも忘れないでいただきたい、そのように心から願っている。(理事長/学長 菊地伸二)


春の準備

 

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