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【コリントの信徒への手紙一 13:1-7】
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

「結婚の準備」って、あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、「結婚式の準備」と言えばすぐいろいろなことが浮かんできます。when(いつ)、where(どこで)、誰とは当然決まっていますが、どのような結婚式をするのか~結婚式の形式(キリスト教式、神式、仏式、人前式等々)、女性ならウエディングドレスにするのか白無垢の和装にするかで迷います。結婚指輪は? そして披露宴はどうするのか、だれを招待するのか、引き出物は何にするのか、さらに新婚旅行はどうするのか、もし行くとしたらどこへ行くのか、そのようなことが「結婚式の準備」に付随するものです。もっと大切なことは住まいの問題、どこに住むかということがあります。これらは具体的な目に見える結婚式に関連する諸準備と言ってもいいかもしれません。

わたしが今ここで「結婚の準備」としてお話しする重要な点は、結婚する二人のこれからの結婚生活に備えての「心と体の準備」の話と言ってもいいと思います。

牧師としてこれまで50年間に、たくさんの結婚式の司式をしました。「結婚式をしてください」と言って飛び込んできた二人に、「いいですよ」と言って、無責任に式をすることはありません。結婚式を挙げる条件として、リハーサルを含めて最低3回、二人で揃って準備に来ていただくことを守ってもらいました。それは、浮ついた気持ちではなく、結婚するってどういうことなのか、わたしたちはなぜ結婚するのか、二人は本当に結婚するのにふさわしいパーソナリティーを備えているか、「愛してるよ」って簡単に言うけれども、「愛する」ってどういうことなのか、二人は本当に愛し合っているのだろうかといったことを、結婚前に冷静にしっかり見つめ直してみること、そして夫婦生活において重要なセックスについての問題などについても話し合う時間を持ちました。

結婚式の中では、次の「誓約」いわゆる「誓い」が交わされます。「神の定めに従って、わたしはあなたを妻(夫)とします。今から後、幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります。今、これを約束します。」

この誓約の根底には神の愛があります。神の愛を信じ、それに基づいて誓約がなされるのです。最初に読まれたコリントの信徒への手紙1 13章の「愛」についてのパウロの言葉は、イエス・キリストが具体的に見せてくださった神の愛が語られています。

わたしたちには無い豊かな神の愛をしっかり見つめ、それを信じて生きていく時、わたしたちの中に、神の愛のしずくが注がれるのです。そして誓約の言葉が単なるお題目ではなく、リアリティーを持ったものとして二人の心と体に満ち溢れます。

今でも忘れられない思い出の結婚式があります。披露宴が終わり、出口で新郎新婦が皆さんをお送りした後、新郎の友人たちが新郎を胴上げしました。しかし勢い余って新郎を床に落としてしまったのです。大腿骨骨折で即入院となり、ヨーロッパへの新婚旅行はお預け、スーツケースを持ったまま、3週間の入院生活(新婚生活)を余儀なくされました。しかし、無事退院した後、二人はわたしのところにやって来て、「とても良い結婚準備をしていただき、その上、結婚式の中で交わした誓約どおり、本当の愛とは何かを身をもって体験できた、何ものにも代えがたいこの度の出来事でした。神の愛に守られて、これからも精一杯二人で愛を育てていきたいと思います。ありがとうございました。」と語ってくれました。現在、この二人は子どもたちにも恵まれ、幸せな家庭を築いています。

「わたしたちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙Ⅰ 4:19)

(チャプレン大西 修)


サザンクロス

今回の記事を通して、信仰深い人には神のご計画が聖霊によって与えられるということを私は学びました。

前回のマリアの受胎告知に続き、今回はその後のマリアとエリサベトの物語です。

マリアに対する天使のお告げを聞いたエリサベトは、喜びに包まれ、自分の胎内の子がおどったと書かれています。エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(1:45)とマリアの信仰の深さを祝福し神を賛美しました。

一方のマリアも「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」(1:47)と、信仰の深い人間らしく、神を仰ぎ讃えています。

しかし、福音書を知る私たちは、天使から祝福されて生まれきたイエスとヨハネが、共に人生の途上で殺される運命にあることを知っています。その悲惨さを知るからこそ、二人の母への神の祝福が余計に深遠なものに感じられるのです。シェイクスピアなら正に悲劇の場面として描くはずです。でも福音書は違います。これこそが神のご計画であり、世を救う福音だと断言するのです。

私は今回の学びによって、聖霊に満たされ神のご計画に生きる人間は、艱難を乗り越える強さを持っていると理解できました。

日々の祈りの姿と合わせ、神を仰ぎ行動し続ける人間だからこその恵みであると思います。神のご計画のもと、みごもった女性たちは、心からの喜びに包まれていました。二人には、その先に「見えない世界=神の国」があることを信じられる信仰の深さがあったのです。

次回はイエスの誕生へと物語が続きます。
主に感謝しながら学びを進めていきます。(Y)


ミニヒマワリの定植

毎年恒例の、AHI(アジア保健研修所)による巡回報告会。

今年は、カンボジア国籍のチャン・レイさん(愛称、チャンさん)をお招きします。日本の公益財団法人 国際開発救援財団(FIDR)に所属して、現在はそのカンボジア事務所にお務めです。カンボジアの栄養教育普及のため、州・郡の保健課職員の能力強化を行うとともに、母親グループ作りを通して、5歳児未満の子ども達の栄養改善活動に取り組んでみえます。

彼女はAHIの研修生として来日し、その成果を「巡回報告会」というかたちで発表していて、今回、幸運にも、本学へもお招きできたというわけです。

礼拝中のお話に加え、礼拝後の「柳城タイム」でも、スライドを使ってタップリと語っていただく予定です。カンボジアの子どもたちの現状が生で聞けるこの機会をお見逃しなく‼

お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:10月15日(火)
3限 13:10~:大学礼拝【保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員】 13:45~:柳城タイム
4限 14:50~:大学礼拝【保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員】 15:25~:柳城タイム
●場所:チャペル
●お話:チャン・レイさん(アジア保健研修所の研修生) 通訳:中島隆宏さん(AHIスタッフ)
●テーマ:「村人と共に ~痛みが情熱へ~」
●聖書箇所:【フィリピの信徒への手紙4:13】
4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。

★礼拝後、チャペルで「柳城タイム」を開催します。
チャンさんにスライドを使って更にたっぷりと語っていただく予定です。通訳はAHIスタッフの中島隆宏さんです。

次回以降の予定
・10/22(火)通常礼拝(チャペル)教話:榎戸裕子先生
・10/29(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・11/1(金)創立記念礼拝(体育館)

今回は、キリスト教の「愛」について熱く語る使徒パウロの手紙が取り上げられます。

かつてはユダヤ教の熱心な宗教指導者で、律法をきちんと守らせることに命を懸けていただけあって、語る言葉は徹底的な迫力に満ちています。突然の神のお告げによってユダヤ教からキリスト教徒に回心した彼ですが、熱く燃えて突っ走る性格は変わらなかったかも(笑)

さて、これらパウロの言葉と結婚準備の話とが、いったいどのように結びつくのでしょうか。興味津々ですね。

お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:10月8日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「結婚の準備の話 ~結婚の準備って何をすること?~」
●聖書箇所:【コリントの信徒への手紙一 13:1-7】
13:1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
13:2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
13:3 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
13:4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
13:5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
13:6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
13:7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

次回以降の予定
・10/15(火)通常礼拝(チャペル)
★礼拝後、チャペルで柳城タイムを開催します。アジア保健研修所の研修生さんによるミニ講演会です。
・10/22(火)通常礼拝(チャペル)教話:榎戸裕子先生

【マルコによる福音書4:1-9】
◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

イエスさまのこのたとえ話が「たねくんとよいはたけ」という紙芝居になっています。今からその紙芝居をしますので、皆さんは幼児(園児)になったつもりで見てください。

・・・・・・・・・・・

さて、皆さんは今、見終わってどんな感想を持ちましたか。

皆さんは種を蒔くことを一度や二度は経験していますね。草花の種や野菜の種にしても、麦や稲の種にしても、種を蒔く人が先ず最初に良い種を選別し、それを蒔きます。最初から発芽しないような悪い種は蒔きません。このたとえ話の中で、種を蒔く人とは神さま(イエスさま)を指しています。そして、種は神さま(イエスさま)のみ言葉、みこころを表わしています。神さまは素晴らしい種(み言葉、みこころ)をこの地上にお播きになり、人々がそれによって豊かな実りを得られるようにと望んでおられるのです。

この紙芝居では、蒔かれた土地(道端、石地、茨の中、良く耕された良い地)に視点が当てられています。いろいろな土地として、私たち人間の心の在り方が示されています。

固い道端のようでとりつく島もないような心、ゴロゴロしていて渇いた石のような心、やせこけて成長が不足している心、その場の状況を見て、しっかりそれを受け入れることのできる心を持っている人々のことです。

それと共に、種を蒔く人(神さま、イエスさま)の生き方に視点が当てられています。種を蒔く人はどんな土地(人間)であっても、同じ素晴らしい種(み言葉、御心)を蒔きます。必ず豊かな収穫があることを信じ、希望をもって種を蒔きます。種を蒔く人の良い種は必ず実ることが約束されているからです。私たちひとりひとりは、皆同じ人間でありながら、違う人格、性格、個性をもって生きています。人間の目で見れば、あまり好ましいとは思われない人であっても、神さまは平等に、溢れるような愛をその人に注いでくださるのです。長い目で見ると、神さまのみ言葉はどんな人であっても、そのみ言葉を受け入れるならば、必ず素晴らしい恵みが与えられることを伝えています。

「一粒の麦は、地において死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12:24)と言われたイエスさまのみ言葉は、死んでしまったと思われた種が、本当は生きていることを語っています。「もうだめだ、何の希望がない」と思っている私たちに、「そうではないよ、あなたたちの中でわたしは生きているよ」とイエスさまは語りかけておられるのです。種を蒔く人のたとえは、どんな人でもみ言葉を受け入れる人には、神さまは豊かな恵みを与えてくださることを語っています。


学食北側のヘデラ

今回はガリラヤ湖畔でのお話です。

群衆の魂を揺さぶるような声で語りかけるイエス。日がサンサンと照る中、鳥たちがにぎやかにさえずり、やわらかい風が首筋に心地よい。そして、遠くには畑仕事に精を出す人々の姿が…。そんな光景を勝手に想像しても決して怒られはしないような、そんな美しいたとえ話です。

イエスは目に映る風景を使ってアドリブで語ったことでしょうね。彼の庶民的感覚が本当に嬉しいです。彼のベースがそこにあるから、私たちはイエスを信じ切ることができるのかもしれません。

キリスト教を理解する以前に、イエスの人柄を心静かに感じてみてください。
お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:10月1日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:大西チャプレン
●テーマ:「種を蒔く人のたとえ」
●聖書箇所:【マルコによる福音書4:1-9】
◆「種を蒔く人」のたとえ
4:1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
4:2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
4:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
4:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
4:8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
4:9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

次回以降の予定
・10/8(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・10/15(火)通常礼拝(チャペル)教話:アジア保健研修所 研修生

今回私は、すべては神のご計画の手のうちにあるのだということが理解できました。それは洗礼者ヨハネ、そしてイエスの誕生においても…。

記事では、前回にひきつづきヨハネの誕生物語が記されています。またマリア受胎の場面が、その後に続きます。

ルカは旧約聖書の記事(民数記6:3、マラキ書3:23)を引用することにより、ヨハネを神に遣わされた特別な人間だと強調しています。つまり、民にイエス・キリストに耳を傾けさせる準備をした人間、民に神への信仰に心を向けさせた人間と記しているのです

ヨハネは民が待ち望むメシアの先駆けとしてあらわれました。イスラエルの民が待ち望んでいた救世主がいよいよ、この世にあらわされるのです。特別な人間、ヨハネを遥かに超えた存在が。

後半ではクリスマスの時期ページェントでもお馴染みのガブリエルとマリアの受胎告知の場面が続きます。

マリアは夫と離れて暮らす婚約の期間に、イエスを身ごもります。それは世の負い目を追って生きるマリアへの試練、また福音でもありました。

天使の言葉を信じず、ヨハネが生まれるまでの間、罰として「沈黙」を余儀なくされたザカリアと同じく、はじめは天使の言葉に戸惑ったマリアでしたが、最後は、神から与えられた使命を「お言葉どおり、この身に成りますように。」(1:38)と受け入れたのでした。

私は今回の記事を通して、信仰には、福音の前では「沈黙」し、神のご計画に生きる謙遜さが常に重要であると感じました。それは、私たちがイエス・キリストに少しずつでも近づくことが出来る唯一の方法であると思います。

ザカリアもエリサベトもヨハネも、そしてマリアも、そうやって生きていました。福音書は常に、私たちにその姿を通して学ぶよう促しています。

次回もイエス誕生の記事を通して学びます。救世主を待ち望んだ当時の民と、現在の私たちが同じ思いで繋がっていることを感じながら。(Y)


中庭のミニヒマワリ

バイブルタイムでは今回より、ルカによる福音書の学びが始まりました。

まず序文では、「すべてのことを」「はじめから」「くわしく」「順序正しく」(ルカ1:3)という言葉に注目しました。そこでは福音書に寄せるルカの自信のあらわれに気づくことが出来ました。

また、合わせてルカが「確実なものであることを」(ルカ1:4)と述べていることから、それ以前に著されていた福音書の内容にルカは十分満足していなかったと推測出来ました。

続く記事では、洗礼者ヨハネの誕生以前についての出来事が記されています。

ヨハネの両親、ザカリアとエリサベトは良家の出であり、信仰の深さでも「非のうちどころがなかった(ルカ1:6)」人でした。ただ、二人の間には子どもが生まれていなかった点を除いては…。

当時のユダヤでは不妊は「神の裁きが起きた」などと思われていました。その中で肩身の狭い暮らしをしていた二人のもとにヨハネは誕生したのです。

聖所にて香を焚くという名誉ある仕事に招かれたザカリアは、またとないチャンスに思わず自分の願いを祈っていたのでしょうか。その祈りは聞き入れられ、イエスの御業の道を備えるため、ヨハネは誕生しました。

ルカはイエス・キリストの様々な行い、御言葉、すなわち神の御業を述べることの「はじめから(ルカ1:3)」をヨハネ誕生の物語から綴っています。

今回、ルカによる福音書は「物語」として豊かであること、また他の福音書と比べ、豊かなたとえ話が多いと知りました。

愛するイエス・キリストをどのように伝えたらよいか、ルカは熱い志と使命感を持って、考えに考えながら福音書を綴ったのですね。私たちは、それによって、あたかもイエスを昔から知っている人のように感じられます。

今回最も大切なこととして、イエスを深く知っている人、また知らない人にかかわらず、イエス・キリストをどう伝えるか、そこに力点を置くことが福音書を解き明かす上での重要なことと学びました。そして私たちは福音書を通して千分の一でもよいからイエス・キリストと同じ行動をすることが福音書が掲げる「到達点」であると理解できました。

さて、イエスの御姿を豊かに感じられる、ルカによる学びは始まったばかりです。次回も福音書を通して、イエスの歩かれた道を辿っていきたいと思います。(Y)


河川敷で遊ぶ園児たち

ルカによる福音書には、今回の聖書箇所に似た記事が記されています。それは老夫婦のザカリアとエリサベトの間に、神の慈愛によって子どもが授かるという話です。不妊は不名誉なことで神の罰のしるしだとも言われていた時代のことですから、二人は飛び上がって喜んだことでしょう。そして無事に生まれた子どもはヨハネと名付けられ、やがて、イエス・キリストの登場を人々に告げ知らせる「案内人」として活躍することになります。

言うまでもなく子どもの愛らしさは人類の光です。保育というお仕事の素晴らしさと責任の重さを改めて感じ、自分自身を振り返るきっかけにしてはどうでしょうか。

お待ちしています!(^^)!

✝ ✝ ✝

●日時:9月24日(火)
3限 13:10~:保育科1、2年CDクラス、保育専攻科、教職員
4限 14:50~:保育科1、2年ABクラス、保育専攻科、教職員
●場所:チャペル
●説教:村田康常先生
●テーマ:「子どものいるところに生まれる笑い」
●聖書箇所:【創世記21:1-6】
◆イサクの誕生
21:1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、
21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
21:5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」

次回以降の予定
・10/1(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン
・10/8(火)通常礼拝(チャペル)説教:大西チャプレン

【マタイによる福音書19:13-15】
19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
19:14 しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
19:15 そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

毎朝8時40分~50分の10分間、「キッチンはらぺこ」で朝の礼拝をしています。その礼拝の中で聖歌を歌い、主の祈りを唱え、そして次の祈りを時々することがあります。

「子供たちを愛する私たち」
主よ、今朝も柳城に集えることを感謝します。
柳城はフレーベルの思想を大切に、保育を価値あるものとして120年もの道を歩んで来ました。
あなたのご計画に驚くばかりです。
創設者マーガレット・ヤング宣教師の思いが、いつまでも私たちと共にありますように。
イエス・キリストは言われます。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と。
フレーベルはこの言葉から、子どもの生命(いのち)の偉大さを、子どもに自由な成長が保証されることを学んでいます。
子どもたちを教え、かわいがる対象としてだけではなく、愛し、敬意を払う対象にできるように、主よ、どうか私たちを成長させてください。
フレーベルは語りかけます。「子どもたちから、学ぼうではないか。」と。
主よ、この謙虚さ、誠実さ、信仰心を私たちにも与えてください。
私たちを高いレベルに導いてください。
この祈り、主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン

子どもたちと長い時間を一緒に過ごしたことがある人ならだれでも、子どもたちが素晴らしい天使のような存在ではないことをよく知ってます。走り回って物をひっくり返したり、壊したり、親の会話の邪魔をしたり、面倒で厄介な質問をしてきたりします。イエスの時代も同じだったでしょう。多分いろんな性格や気質の子どもたちがいっぱいいて、中にはやんちゃな子もいれば、内気な子、好奇心いっぱいの子、わがままな子もいたことでしょう。実に多種多様な子どもたちでしたが、イエスに惹きつけられたのです。そんな子どもたちをすべてイエスは喜んで受け入れられました。子どもが最も弱く、小さな存在とされていた当時の文化の中で、イエスはご自分が子どもたちを祝福できるよう、子どもたちがそばに来ることを歓迎なさいました。

イエスは私たちに対しても同じまなざしで見ておられます。私たちがすべてを持っていなくても、完璧なふるまいをしなくても気になさいません。そんなことを期待しておられるのではなく、いつも私たちのそばにおいでになりたいのです。イエスは私たちが人々から歓迎され、大事にされ、仲間にしてもらいたいという願望を持っていることをご存じです。イエスにとっての理想像(私たちが勝手に考えた)など問題になさいません。ただ、私たちがイエスのもとに来ることだけを望んでおられるのです。

イエスのもとに連れてこられた多種多様な子どもたちに、深い愛情と忍耐力を示され、子どもたち全体と、個々の子どもたちとのやり取りを通して、イエスはあふれるばかりの愛と喜びを与えられました。

私たちに対しても、イエスは子どもたちに対すると同様に手を差し伸べてくださいます。イエスは私たちの良いところと悪いところすべてをご存じの上で、そのままの私たちを受け入れてくださり、良いところはさらに伸ばしてくださるのです。イエスを信じてイエスのもとに行く時、子どもたちのようにイエスに近づけるようになれることを、保育者を目指す私たちも覚えたいものです。(チャプレン大西 修)


ポーチュラカの実

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