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今回心に響いた御言葉は…
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」 (マルコによる福音書14:22〜25)

マルコ通読も35回を重ね「最後の晩餐」と言われている重要なシーンに入りました。

イエスは弟子たちとの語らいの中、楽しい食事が進むうちに、御自分が一人の弟子によって律法学者たちに引き渡されることをお伝えになったのです。

それを聞いた弟子たちは強く動揺し、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めるのでした。

そんな最中、イエスはパンを引き裂き、弟子たちに「取りなさい。これはわたしの体である。」と語りかけられました。

そして杯を取り弟子たちに「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とお渡しになられたのです。

今の聖餐式の起源はこの最後の晩餐に由来しています。つまり世界で最初の聖餐式は食事の最中に行なわれたのです。イエスがこだわられたこの日常性の意味を私は大切にしたいと思いました。

日々の忙しさにかまけて信仰から遠のきがちになる私たちに、「せめて食事をする時は私のことを思い出しなさい」とイエスは声をかけてくださっているのではないでしょうか。

イエスはいよいよ十字架の道へと進まれます。
次回も真摯にその御心を学びます。


真冬のヒマワリ

【マルコによる福音書12:41-44】
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

明けましておめでとうございます。

皆さんは初もうでに行きましたか。行った人、何人くらいいますか?

お参りしてお賽銭を出しますよね。いくらしましたか。良いご縁がありますようにと縁起を担いで、5円を投げ入れる人がいたかもしれません。それで何をお願いしましたか。神さまは寛大で、優しい方だから、痛くも痒くもない 5円でわたしたちの願いを聞いてくださるのでしょうか。5円と交換に、何か素晴らしい物を獲得しようと思っているならば、全く虫のいい話です。どちらでもいい、ちょっとした気休めならばともかく…。

お賽銭(教会では献金といいますが)は、神さまに何かをお願いするために出すものではありません。お賽銭、献金は本来、神さまへの感謝の気持ちとして捧げるものです。ですから神さまを信じ、神さまへの感謝の気持ちを込めて捧げなければ意味がありません。返礼を求めるものではありません。

今日の聖書のお話は、エルサレムのやもめの話です。やもめは2000年前も、現代も同じように、極端に弱い立場、弱い状況に置かれていました。その当時、やもめ暮らしは、女性自身がもたらしたものとみなされることが多かったため、恥なことと考えられていました。やもめは多くの場合、日々、食べるものにも事欠き、社会の隅に追いやられていました。エルサレムのやもめは、わずか銅貨2枚(約80円)しか持っていませんでしたが、それをすべて捧げました。彼女は目の前で裕福な人々が大金を賽銭箱に入れるのを見て、自分の貧しさを痛感します。こんな少しばかりの献金にどんな意味があるのだろうか、何の役に立つのだろうかと一瞬躊躇したかもしれません。

人生には、わたしたちの能力をはるかに超えているようで、躊躇し気後れしてしまうような試練が多くあります。わたしたちは自問自答します。「わたしのささやかな贈り物にどんな価値があるだろうか? わたしの限られた能力に何の価値があるのだろうか?」と。

パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントⅡ 12:9)というキリストから声を聞きました。

わたしたちがリスクを負っているとき、わたしたちが行うわずかな贈り物や善意を、他の人々やわたしたちすべてにとっての祝福に変えてくださる方が神さまです。

そのような状況でわたしたちに求められているのは、勇気と自分の能力の限界と弱さに気づかされる時、その弱さを支え、力を示してくださるお方がいることを信じ、その方に信頼を寄せて、出来ることをやってみることです。

このやもめは何も出し惜しみをしませんでした。彼女は貧しい中から、自分の持っているものをすべて与えることによって、祝福を受けたのです。

祈りとは自分たちの安全や恐れから一歩踏み出し、これから示される神さまの大きな目的の中にわたしたちの身を委ねることです。勇気と希望と信頼を持って行えば、予想もしない祝福の道が開かれます。惜しみなく与えることで、わたしたちの贈り物はより豊かなものにされるのです。

「イエスさまは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」と記されています。神様は黙ってわたしたちの様子を見ておられます。それは外見ではなく、心の中を見ておられるのです。

今、柳城での学生生活を送っている皆さんが、日々の様々な状況の中で、このやもめが示したような勇気を持って、行動していくことができるようにと願っています。(チャプレン 大西 修)


学食の掲示板

昨年採用された「この一年の写真」に引き続き、今年も中庭花壇の写真がクリスマスカードに選ばれました。カードに記された説明書きは以下の通りです。

✝ ✝ ✝

写真は、本学の総務課と学生ボランティアさんによって管理されている花壇です。昨年の入賞に引き続き、今年も日本園芸協会主催の全国ガーデニングコンテストで入選を果たしました。主に栄光! 「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。(ルカ12:28)」 こう語るイエス・キリストは私たちに清貧を要求します。聖夜の意味をこういうところに感じるのも大切でしょうね。

今回心に響いた御言葉は…

イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マルコによる福音書14:6〜9)

ユダヤ人が大切にしている過越祭と除酵祭を二日後に控え、エルサレムの神殿には多くの民衆がやってきていました。イエスを捕らえて殺そうとたくらむ宗教指導者らは、彼らが騒ぎ出すのが怖くてイエスを静観しています。

そのような中、ベタニアに住むシモンという重い皮膚病を患った人の家にイエスが滞在された時のことです。食事の席に着いておられるイエスの前に、小さな石膏の壺を持った女性が現れます。彼女はその壺を割って、非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけるのでした。

ところが、その女性の行いに、そこにいた何人かが「香油の無駄遣いだ。香油を売って、貧しい人々に施すことができたのに。」と憤慨し始めます。イエスは彼らを戒める一方で、女性の献身的な態度に最高の賞賛と感謝の思いをあらわされたのでした。

女性を非難した人たちがどういう人物かを記者マルコは語りませんが、彼らには自分たちの日常生活や国のことなど、イエスを離れた外側の世界にしか関心がないのでしょうか。一方の女性の方は、イエスの内側に入り込み、彼が一番欲していたものを感じとり、純粋な思いを持って惜しみなくすべてを差し出したのだと私は思います。そういう対照性を一瞬で指摘されたイエスに私は本当に胸が熱くなります。マルコも、この美しい物語の直後に「ユダの裏切り」の記事を配置して、この対照性を強調しているかのようです。

次回も、十字架へと向かわれるイエスの御言葉と道とを心で感じながら、学びを続けたいと思います。


名古屋で初積雪

12月19日(水)に行なわれた礼拝の模様をお届けします。

●前奏
「牧人ひつじを」…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏

点火の祈り
「大いなる光を造られた主が、豊かな憐れみによってわたしたちの心の闇を照らし、喜びに目覚めさせてくださいますように。光の源である主の輝きによって、救いの光が世の隅々にまでゆきわたりますように。義の太陽であるキリストが皆さんを照らし、行く道の闇を取り除いてくださいますように。」

●聖歌…第69番「もろびとこぞりて」
→司式者団が入場し、中央通路のロウソクが点火されます。

 

 

●ページェント…「キリスト教保育」受講生、有志学生
1 受胎告知
2 ベツレヘムへの旅
3 野の羊飼いと天使
4 み子の誕生と羊飼いの礼拝
5 占星術の博士たちの礼拝

→恒例のイエス・キリスト降誕劇。本日の礼拝の意味が伝えられる大切な時間です。

 

 

 

 

福音書…ヨハネによる福音書 1:1-5、14
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

●クリスマスメッセージ…チャプレン 主教 大西 修 →こちらでご覧ください。

●手話コーラス…介護福祉専攻学生
「大丈夫」「スマイル」

 

●ハンドベル演奏…扶瀬ゼミ学生によるハンドベル演奏
「The Christmas Song」編曲:扶瀬 絵梨奈   
フルート独奏:小林 千織

 

●演奏…保育専攻学生
「Ave Verum Corpus」 (W.A. モーツァルト)
聖歌 第476番「暗闇行くときには」

 

聖歌…第76番「かいばおけの干し草に」
●奉献の祈り

●聖歌…第91番「荒野のはてに」
●聖歌…「おほしがひかる」
→聖歌の間にロウソクの火がすべて灯されます。

 

 

主の祈り(主イエス・キリストが教えてくださった祈り)

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧(かて)を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン

●諸祈祷
・名古屋柳城短期大学のための祈り
・東日本大震災と熊本地震を受けて―祈りをともに
・アッシジの聖フランシスの祈り

主よ、
あなたの平和を人々にもたらす道具として、
わたしをお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
不当な扱いのあるところにはゆるしを、
分裂のあるところには一致を、
疑惑のあるところには信仰を、
誤っているところには真理を、
絶望のあるところには希望を、
暗闇には光を、
悲しみのあるところには喜びを、
もっていくことができますように。
慰められることを求めるよりは慰めることを、
理解されることよりは理解することを、
愛されることよりは愛することを、
求める心をお与えください。
私たちは自分に死ぬことによって自分を見いだし、
自分自身に死ぬことによって
永遠のいのちをいただくのですから。

祝祷
●聖歌…第81番「神には栄え」
→聖歌の間に司式者団が退場します。

 

後奏

弱き人々には癒しと励ましを与え、高ぶる者らには神の真理を伝えるために、イエス・キリストはこの世に生まれてくださいました。彼がもたらした福音は、今の世にあっても「闇に輝く光」です。礼拝中のロウソクの灯に込められた意味を、すべての柳城生と私たちスタッフ全員が心で感じ取って子どもたちや要介護者の方々にも伝えていけるよう、切に祈りたいと思います。(加藤)

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」【ヨハネによる福音書8:12】

柳城キャンパスニュースもご覧ください】

少し早いですけれど、皆さんクリスマスおめでとうございます。

皆さんと共にこうしてクリスマスをお迎えできますことをとても嬉しく思います。

クリスマスは大きな喜びの嬉しい知らせ、良い知らせ、Goodnews(福音)が伝えられる時です。子供たちだけでなく、多くの人々にとって昨今のクリスマスは、11月初旬から巷に流れるクリスマスソングに始まり、クリスマスツリー、目を見張るばかりの華やかなイルミネーション、サンタクロースの到来、クリスマスセール、プレゼント、ケーキ、ディナーショー等々がその主役を務めているようです。本来これらのものは、クリスマスが大きな喜びの嬉しい知らせ、良い知らせであることを知った人々が、その喜びを表すために始めたものだったのでしょう。

さて、クリスマスは神さまの御子であるイエスさまが肉体をとって、人間としてこの世にお生まれになったことをお祝いする時です。では、なぜイエスさまはこの世においでくださったのでしょうか? なぜ薄暗く、じめじめした、糞尿の臭気漂う家畜小屋にお生まれになったのでしょうか? まさにその出来事の中に神さまの深く、計り知れない御計画が隠されているのです。

それは神さまの愛の働きであり、人間の思いをはるかに超えた想定外のことでした。人間が神さまになりたいという願望はあっても、神さまになることはできません。そこで神さまが人間となってこの世に来てくださり、人々に寄り添い、その思いを理解して助けてくださったのです。神さまは、そのような貧乏くじを引くことをイエスさまを通してなさいました。

イエスさまは貧しい人、苦しみ悩む人、病気の人、社会の中で弱い立場にある人と共に歩まれるお方です。徹底的にご自分を低くなさること(フィリピ2:6-11)によって、神さまの愛とは何であるかを人々にお示しになりました。イエスさまがこの世においでくださったのは、罪と悪とにがんじ絡めになっている人々と共に歩んでくださることを通して、人々をその悲惨な状況から解放してくださるためだったのです。

イエスさまは自らが傷つけられ、あざけられ、鞭うたれ、十字架につけられ、殺されることによって、神さまがどんなに深く、激しく、わたしたちを愛してくださっているかをお示しになりました。自らの死をさえ惜しまずに、他の人々を生かそうとする愛こそ、神さまの愛であり、わたしたちを本当の悔い改めへと誘う愛なのです。

クリスマスの出来事は他の人々を傷つけ、その痛みに気づくことに鈍感なわたしたちに、神さまが家畜小屋のイエスさまを通して、砕かれた心を持ち、悔い改めによる真実の愛に生きるよう呼び掛けておられます。自分には寛大でありながら、他の人に対しては、なかなか寛大な思いを持てないばかりでなく、多くの欠け(欠点)を持つわたしたちが、神さまの絶大な愛と赦しを信じることによって、はじめて、他の人を受け入れ、赦していくことが出来るように変えられていきます。

その意味で、クリスマスの出来事を、イエスさまがこの世に来られた家畜小屋でのお姿の中に見ることができます。ひょっとしたら見落としてしまいそうな、あるいは無視してしまいそうな人々のところに、そしてわたしたち一人ひとりの醜い、人に見せたくないそんなところに、イエスさまはそっと来られ、優しく寄り添って励まし支えてくださるのです。

ですから、クリスマスは、かけがえのない感謝と喜びにあふれた出来事としてわたしたちに迫ってくるのです。

今年のクリスマスが真実なクリスマスとして、あらゆる国々、人種、立場、性別、年齢の差などを越えてお祝いできますように、ご一緒に祈り求めていきましょう。(チャプレン 大西 修)

福音書に語られているイエスは、見た目よりも心を大切にされる方です。その徹底ぶりが当時の宗教指導者らには非常に目障りだったために、イエスは彼らから大変な嫉妬を買って、最終的には十字架刑を受ける羽目になったというのがイエスの生涯の重要な一面です。ですから、福音書は、現代はもとより未来永劫に至るまで人類に大きな警鐘を鳴らし続けるのです。

以上のような背景を知って今回の聖書箇所を眺めると、極めて美しいストーリーに仕上がっていることが分かります。

イエスの心を深く知る機会です。
礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「真心からの行い」
●聖書箇所:マルコによる福音書12:41-44
12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。
12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

●司式:大西チャプレン
●日時:1月9日(水) 14:50~
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:体育館
1,2月誕生日の祈りを行います。
礼拝後に特別活動奨励奨学生表彰式、学生会新役員紹介があります。

●次回以降の予定
・3/15(金)卒業/修了礼拝、終業礼拝(体育館) 説教:大西チャプレン
3月誕生日の祈り
・3/16(土)卒業証書・修了証書 授与式(体育館)
・3/22(金)2019年度 始業礼拝(新2年生)

今回心に響いた御言葉は…
「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」(マルコによる福音書13:32〜33)

前回に引き続き、イエスは弟子たちに終末の徴(しるし)についてお話になられました。

イエスは終末の時に備えるよう強く警告なさり、その上で、御心に従う覚悟ある者を旅に出た主人を待つ僕や門番になぞらえて「主人はいつ戻って来るのか分からないのだから、主人がいつ戻ってきてもよいように心を主人に向け、準備を怠らず日々過ごしていなさい」と諭されました。

ところでイエスが再臨する「その日、その時」とはどのような時なのでしょうか。

これを考えるヒントを、今回、私はマザー・テレサの姿から与えられました。

マザー・テレサは死を待つような弱く小さな人々の中に、常にイエスの姿を重ねて接していました。それはイエスの再臨を待つだけの受身の姿勢ではありません。弱い立場の人々をイエスだと思って、イエスのために愛の奉仕を積極的に行なうということなのでしょう。

「ひょっとすると、イエスはすでに現れているのかもしれないし、もしかしたら、昨日出会ったあの人だったのかもしれない」と思うことは、信仰を深める意味で重要ではないでしょうか。

私は真の目覚めのない信仰は自分勝手であり、虚しいものに終わってしまうのではないかと感じました。

常にイエスを感じて目を覚ましていることは、油断してすぐに怠けがちになる私たち人間には厳しい教えかもしれません。

しかし一方で、真の目覚めとは内と外よりイエスをいつも感じるアンテナであり、イエスとともに歩み続ける「喜び」の根であると感じました。

私は今回、マザー・テレサの視点から、常にイエスを感じ弱い立場の人々には愛を、自身には揺るぎない信仰の深さを求めて生きる姿勢を学びました。

イエスは今も「目を覚ましていなさい。私はいつもあなたがたと共にいる。」
そのように私たちに語られています。

次回もイエスのお姿を通して御心を学んでいきます。


出来上がった干し柿

【マタイによる福音書1:18-25】
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。

1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

イエス・キリストの誕生の出来事はマタイとルカによる福音書に記されています。

マタイによる福音書ではヨセフに、ルカによる福音書ではマリアに焦点が当てられています。マタイはイエス・キリストの生まれ育ったユダヤの人でしたので、ユダヤの人々にイエス・キリストを分かりやすく伝えました。一方、ルカはギリシャ・ローマの世界の人でしたので、その国の人々にマリアという女性を通して、イエス・キリストの誕生を伝えました。

その当時のユダヤでは、植民地の重圧から人々を開放し、国家独立を樹立してくれる王・メシアの到来を、今や遅しと待望する空気が充満していました。イエス・キリストの誕生はこのような時代背景のもとでの出来事でした。

当時のユダヤは男性が圧倒的に優位な社会でした。メシアは千年前の偉大なダビデ王の家系から出現すると信じられていました。ヨセフはダビデ王の末裔にあたる人でした。

天使は夢でヨセフに現れ、マリアの妊娠を告げます。いわゆる受胎告知がヨセフになされます。ルカによる福音書では天使ガブリエルによってマリアに受胎告知がなされます。わたしたちがよく目にする受胎告知の聖画は、天使ガブリエルがマリアのもとに現れる情景です。

ヨセフとマリアは婚約していました。その当時の婚約は現代の結婚に等しい意味を持ち、一緒に住むことによって結婚が成立しました。夢で天使はヨセフに聖霊(神の力)によってマリアが妊娠したことを告げます。一緒になる前にマリアの妊娠が明らかになったのです。一緒になる前に妊娠することが何ら不思議でない今の時代とは、全く状況が違います。ヨセフにとっては全く身に覚えのない出来事が起こったのです。彼は「正しい人」であったので深刻に悩みます。聖書が示す「正しい人」とは神の律法を忠実に従う人のことです。その当時のユダヤの律法では、結婚している女が夫以外の男との子を身ごもったなら、石で打ち殺されねばならないことになっていました。「正しい人」とは苦しみ悩みを持つ人に対して、憐れみや親切な心を持つ人のことでもあります。ヨセフにとってはマリアに密かに離縁状を渡すだけで、婚約を破棄しようとしたことが神の律法を守ることであり、さらに彼女への憐れみと親切な心を表わすものでした。神の全能の力を信じながらも彼は悩みます。しかし、天使は恐れずにマリアを迎え入れるようにと勧告します。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、やがて男の子を産むがその子を「イエス」と名付けなさいとも告げます。

イエスという名は「神は救い」の意味で、人々を罪から救う存在であることを示す名です。預言者イザヤによって「インマヌエル」と呼ばれた名は、「神は我々と共におられる」という意味で、イエスは「神は我々と共におられる」というインマヌエルとしてこの世に来られ、わたしたちの間に生きておられると告げられたのです。

ヨセフは天使の言葉に聴き従い、聖霊によって生まれた幼子イエスの父としての重要な役目を担いました。ダビデ家の家系にメシアとしてイエスがお生まれになったことを証ししたのです。

神を信じて生きることは、どのような試練や苦難があっても、それを通して神は必ず大きな喜びを与えてくださることを教えています。

数々の苦難を背負いながら、神を信じ、神の言葉に徹底的に従い、イエス・キリストの誕生に関わったヨセフの生き方は、クリスマスを迎えようとするわたしたちに多くのことを黙想させ、学ばせてくれるのではないでしょうか。(チャプレン 主教 大西 修)


クリスマスツリー点灯式

この日のために、多くの学生さんや教職員が献身的に準備を積み重ねています。そういう「見えない働き」を心で感じ取ることも、この礼拝の意義の一つではないでしょうか。そんな人間味あふれる想像力が保育や介護の現場で役に立つことでしょう。

キリスト教の精神に基づく」本学は、心の問題を最優先にする教育機関です。
そのような心構えで、ぜひご参加ください!

お待ちしています(^o^)/

しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)

(過去の礼拝の様子はこちらで)

✝ ✝ ✝

●司式:大西チャプレン
●日時:12月19日(水) 15:10~
●場所:体育館

●次回以降の予定
・1/9(水)合同礼拝(体育館)14:50~ 説教:大西チャプレン
1,2月誕生日の祈り 特別活動奨励奨学生表彰式
・3/15(金)卒業/修了礼拝、終業礼拝(体育館) 説教:大西チャプレン
3月誕生日の祈り
・3/16(土)卒業証書・修了証書 授与式(体育館)

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