*
ブログページ

【マルコによる福音書6.45-51】
6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

今日の聖書箇所は、有名な、そして不思議なお話です。

イエスの弟子たちが、夜、湖の真ん中で、手漕ぎ船に乗ったまま、嵐に襲われて激しい逆風の中で進めなくなってしまった。夜が明ける頃、イエスが水の上を歩いて近寄っていかれ、弟子たちの船に乗られると激しい嵐が収まった、というお話です。

そのときイエスは、幽霊が来たと思って怖がって叫んでいる弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけます。夜の湖で、しかも激しい逆風で進めなくなってもう沈むかもしれないという大ピンチの中で、いよいよ最期のときか、向こうから来るのはお化けか幽霊か、と思ったら、救いの主だったわけです。今日読んだ『マルコによる福音書』の記述はこれで終わっていますが、同じ記述がある『マタイによる福音書』では、そのあとでペトロが同じように水面を歩こうとして沈みかけて「信仰の薄い者よ」と言われてしまうという場面もあります。

激しい逆風は、私たちが生きていく中でも吹き荒れることがあります。なるべく避けたいことですが、真っ暗な湖の真ん中で、どちらが岸なのか方向もわからなくなって、吹き荒れる逆風に沈みそうになる、といった場面に似た状況が人生の中で訪れることがあるかもしれません。本当にそうなってしまったとき、それでも沈まないで何とか進んでいくために、誰かの助けが必要となるようなときがあるかもしれません。

ピンチのとき、今にも沈みそうなときに、あなたに手をさしのべてくれそうな人たちが、きっとまわりにいます。そんなとき、その人たちの心の言葉をよく聞いてください。中には、甘く優しい言葉で近寄ってくるけれども、あなたを助けるよりも自分の利益を求めてあなたを利用したり、あなたを陥れたりする人もいるかもしれません。一方で、怖そうな顔であなたに厳しい言葉を投げかけながら、ほんとうにあなたのことを助けたり励ましたりしてくれる人もいるかもしれません。

私にとって、大学時代からずっとお世話になってきた先生が、まさにそのような人でした。卒業論文の下書きを「こんなのでは全然ダメだ」と突っ返され、大学院を出ても仕事先が見つからないでいたら「大学で教えていないのか? それじゃダメだ」と怒り、それでも、ご自身の非常勤講師の職を譲ってくださった方です。そして、これ以上は続けられない、もうダメだ、と思ったときに、「投げ出さないで研究をしなさい」と叱って、やがて今の職場に呼んでくださいました。ほんとうに厳しくて怖い方でしたが、私を生かしてくださった方です。私にとって、一番怖い人が、一番、助けてくれた人でした。

沈みそうになり、折れそうになっている人の傍らに歩み寄って、その人を助けてくれる存在は、必ずあります。でも、それがいつも優しく親切な表情で近寄ってくるとはかぎらないので、気づかないこともあるでしょう。ですから、沈みそうなときには、よく耳を澄ませてください。あなたを叱ったり怒ったりしているように聞こえる声が、ほんとうは「安心しなさい。私だ。もう大丈夫だ」と手を差し伸べてくれる人の声だということが、あるのです。ウィリアム・ジェイムズは人生を一本の鎖にたとえて、こう言っています。

「一本の鎖は、その鎖のいちばん弱い環ほどにも強くはない。そして、人生とは要するに一本の鎖なのだ。」(『宗教的経験の諸相』第六・七講「病める魂」)

一番弱っているとき、それでも何とか砕けないで自分自身を明日につないでいくようなぎりぎりの弱さが、その人のほんとうの強さです。そして、そういう強さは、その人の中からではなく、外から来ていることが多いように思います。あなたの人生の鎖の中で、ある輪が今にも砕けそうになったとき、必ず、あなたの人生という一本の鎖のなかの、そのもっとも弱い環をめがけて、嵐の中を歩いて助けにきてくれる存在があります。でも、それはときには怖そうな外見で、きつい言葉で、語りかけてくるかもしれません。ですから、心の耳でしっかり聞いてください。厳しい表情や怖そうな外見の裏側で「安心しなさい。私だ」と語りかけてくるようなそんな存在がきっといます。(村田)

柳城学院がマーガレット・ヤングによって創設されて119年目を迎えました。
主のご計画に感謝しつつ、今年も記念礼拝をもって気持ちを新たにしたいと思います。

●日時:2017年11月1日(水) 9時30分~
●場所:体育館
●司式:チャプレン  サムエル 大西 修 主教
●臨席:理事長    ペテロ 渋澤 一郎  主教

●特別講演:10時45分~
「創立120周年を迎えるにあたって」-聖公会の中での柳城学院の存在-
アシジのフランシス西原 廉太 司祭(学校法人 立教学院 副院長)

●墓地礼拝:13時~(八事霊園)

○次回以降の予定
・11/8(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ お話:大和孝明さん(日本聖公会中部教区センター)
・11/15(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ 説教:大西 修 チャプレン
・12/6(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ 説教:大西 修 チャプレン ★名古屋柳城短期大学附属 柳城幼稚園あお組さんによるキャロリングが行われます。

 

10月29日(日)に鶴舞公園で行われる昭和区民祭に、今年も聖歌隊が参加します。本番が近づき、メンバーにも緊張感が出てきました。練習は、昼休みや放課後など、時間を見つけて取り組んでいます。全員が集まることができない時は、パート練習や個人練習で補うこともあります。

今年は、初の女性三部合唱にチャレンジします。三声がうまく響き合うと、歌っている私たちも嬉しく、励みになっています。みんなで協力してひとつの曲を作り上げることが合唱の一番の楽しさです。

曲目は、「神の国と神の義を」「わたしをお使いください」「幸せなら手をたたこう」他全6曲です。

当日の出番は10:40頃を予定しております。お時間のある方は、ぜひおいで下さい。(柴田)

10/27追記:台風の影響を考慮し、10/29区民祭のステージ発表は中止となりました。残念…】

2017/10/24にキリスト教センターの承認を得ましたので、皆さんにご紹介できるようになりました。主に栄光、主に感謝です。

イエス・キリストのご生涯を丁寧にたどりながら彼の人間性に触れようというこの企画。福音書の解説を軸にして、あれこれと皆で語り合っています。

「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」(ヨハネ14:9)

6/28に試行的に始まってから今日で12回目を数えています。このコーナーでは学生さんの感想などを掲載していくつもりですので、よろしくお願いします。(加藤)

イエス・キリストのお人柄に触れてみませんか?

福音書に記されたイエス・キリストの言動を分かりやすく丁寧に解説します。その中で感じたこと気付いたことを気軽に語り合いましょう。自分自身を見つめる良いチャンスになりますよ

学生の皆さんのご参加、お待ちしています。(加藤)

柳城の朝はお祈りでスタート!
この10分があなたをもっとイキイキさせるかも。
学生さん、教職員の皆さんのご参加、お待ちしています(加藤)

【2021年度現在、新型コロナウイルス感染防止など、諸事情により休止中です。】

【お祈り集はこちら

毎朝、8:40~8:50、次の順序で心を整えています。
ご参加、お待ちしています。(加藤)

①【8:40】「朝のお祈りを始めましょう。」

②【8:40】賛美(2分)
「聖歌○番」
→伴奏はギター、ヒムプレーヤー等を利用
→聖歌は20曲程度を印刷物で用意。または既存の聖歌集を利用

③【8:42】主の祈り(30秒)
「イエス・キリストが教えてくださった主の祈りをともに唱えましょう」

④【8:43】イエス・キリストのみ言葉と短い解説(1分30秒)
「今朝のイエス・キリストのみ言葉は…」
→次の⑤で使う「祈り」に登場する言葉を使う

⑤【8:44】祈り(2分)→お祈り集はこちら
「お祈りをします。一緒に唱えましょう。」
→祈りのパターンを12作っておいて、日替わりで利用する。

⑥【8:46】黙想(2分)
「自分のため、人のため、柳城のため、あるいは地域社会のために、今日一日精一杯やりたいことを主にお願いしながら、しばらく黙想します。」「また、特別なお祈りがあれば自由に唱えてください。」
・・・
「この一人ひとりの願いと祈り、お望みならば、どうか、主よ、かなえてください。」

⑦【8:48】賛美(2分)
「聖歌○番」

⑧【8:50】「これで朝のお祈りを終わります。主に感謝します。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かつて名古屋柳城短期大学に存在していた朝のお祈りの時間が復活しました!

試行的に行っていたものが、2017/10/24にキリスト教センターの承認を経て、正式に本ブログでもご紹介できるようになりました。主に栄光、主に感謝です。

小さな集まりが大きく成長する。これがキリスト教の世界です。
「それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」(ルカ13:19)

主よ、お望みならば末永く成長させてください。(加藤)

次回のお話は本学教員の村田康常先生にお願いしています。
扱われる聖書箇所はイエス・キリストが水の上を歩いたという有名な場面ですね。50節の「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という短い言葉をどのように心に受け入れるかで全体の印象が大きく変わる場面でもあります。
優しいイエス・キリストのお姿が村田先生を通して伝わることでしょう。ご期待ください!

●お話のテーマ:「安心しなさい」
●お話:村田康常先生
●聖書箇所:マルコによる福音書6.45-51
6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

●日付:10月25日(水) 13:10~ 対象:保育科1年生・保育科2年生・専攻科学生・教職員
●礼拝形態:合同礼拝
●場所:チャペル

○次回以降の予定
・11/1(水) 柳城学院  創立119周年 記念礼拝
・11/8(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ お話:大和孝明さん(日本聖公会中部教区センター)
・11/15(水) 合同礼拝(チャペル) 13:10~ 説教:大西 修 チャプレン

【ヨハネによる福音書3:1-6】
3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。

本日の礼拝の中で、一人の姉妹の洗礼堅信式が行われます。この式が柳城の礼拝の中で行われることは多分初めてのことと思います。これはとても素晴らしい出来事です。

ほとんどの皆さんは洗礼堅信式という言葉を初めて聞くし、勿論見たこともないでしょう。

ですから今日はしっかり見て、なるほどこういうことなのかという体験をしてください。

洗礼」とは神様の子どもとして新しく生まれるために行われるキリスト教の一番大切な式です。今までの自分本位な古い生き方に死んで、わたしは神様に生かされているのだという自覚のもとに、新しく生まれ変わらせていただくため、イエス様がお残してくださったものが洗礼です。洗礼には目に見える外のしるしとして「水」を使います。

「水」はものを洗い流します。汚れを落としてきれいにします。洗礼で頭から水を注がれることが、見えない心の中の醜いものを洗い流していただく神様の恵みのしるしとなります。そこに神様の見えない力(聖霊)が働き、罪が洗い清められ、古い自分は死に、新たに生まれ変わるのです。洗礼をバプテスマと言いますが、バプテスマとは水の中に浸して一度死ぬことを意味しています。ですからバプテスト教会ではその名の通り、全身水に浸かる形の洗礼が行われています。

洗礼は「入信の式」と言われ、イエス様を信ずる教会(共同体)のメンバー、神の家族になる式です。私たちは家に入る時、土足では入りません。教会に入る時、入口で心をきれいにしてから入るために、洗礼盤は一番後ろに置かれており、そこで洗礼を受けます。

洗礼を受けるとき先ず「教名」(洗礼名、クリスチャンネーム)を付けていただきます。この名前は、この世でも、死んだのちにも神の国(天国)で通用する名前です。今、私たちが持っている名前はこの世での名前(俗名)で、死ねばなくなる名前です。

そして「教父母」(ゴッドファーザー、ゴッドマザー)が与えられます。成人の場合、男女一人ずつの教父母です。教父母は洗礼を受けた人の信仰上の両親となり、その人の相談役になったり、良きアドバイザーにもなります。

洗礼を受ける人は「捨てること」「信じること」「守ること」を、日々の生活の目標にします。「捨てること」とは、罪の虜であった自分を捨てること、新しい自分になることです。「信じること」とは、イエス・キリストを信じることです。イエス・キリストの父なる神様、そして今も歴史を通して働いておられる聖霊なる神様を信じることです。さらにすべての人々を信じることです。

「守ること」とは、モーセの十戒、イエス・キリストの愛のおきて、神を愛すること、自分を愛するように、隣人を愛することです。これらを自力でクリアーすることはできません。ですから、この微力な私を支え、励まして下さる神様の力に信頼していくとき、これを達成できるのです。

堅信式」は洗礼を受けた人が、主教様に頭に手を置いていただき、聖霊なる神様の力をいただき、それぞれ与えられた場所へと進んでいけるよう、励まし祈っていただく式です。

これらのことを思い浮かべながら、今日の礼拝に出席してくださるようお願いいたします。(チャプレン大西 修 主教)

このページの先頭へ