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今回の聖書箇所は…
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10:13-16)

実習園で子どもたちと接したり関わって思うことは、子どもは素直でまっすぐだなということです。

大人になるにつれて、面と向かって相手にはっきりと言えたことが人と合わせるようになったり、反抗的な態度になったりしてしまいます。

2000年前のユダヤの子どもというのは、今とは違って価値のないものとして扱われていました。

弟子たちはイエスを変に気づかって、子どもが近づくのを嫌い、親を叱りつけました。

そんな弟子たちにイエスは、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と伝え、子どもたちを抱き上げて祝福されました。

「子供のように神の国を受け入れる」というのは、一つには「子どものように素直に神の国を受け入れる」という意味で、だから子どもたちは誰よりも神の国に近いのだとイエスは語りました。(子どものような価値のない弱者を受け入れるような気持ちをもって神の国を受け入れる、という解釈もできるそうですが)

そんな子どもたちが大好きだったイエス。そしてイエスがいたからこそ今の私がいて、そんな私も子どもと携わる仕事を目指して毎日頑張っています。

子どものような素直さを忘れずに、イエス・キリストの愛を感じながら過ごしていきたいと思います。


押し花作り

【マルコ9:35】「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

シェア18ではマルコ9:33~37の記事を通しイエスが導く「サーバント(召使い的)リーダー」のあるべき姿を学ぶことができました。

イエスと弟子たち一行はカファルナウムにお着きになりました。そこでイエスは弟子たちに「道すがら何を議論していたのか」と突然お尋ねになりました。

その質問に弟子たちは何も言えませんでした。それは、「だれがいちばん偉いか」と議論しあっていたからです。「これはヤバイ」とで思ったのでしょうか。案の定、イエスは弟子たちを呼び寄せ、このように諭されました。

「いちばん先になりたい者(偉くなりたい者)は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と。

そして、その場にいた一人の子どもを大人たちの真ん中に立たせ、抱きあげられ「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と重ねて諭されたのです。

当時のイスラエルでは、名前はその人のいわば本質を表すほど重要なものでした。また、子どもの価値は現代とは大きく異なり大変低いものでした。だから「わたしの名のために」このような子どもを受け入れるということは、師であるイエス・キリストの名を汚さないつもりで、「価値のないもの」とされている弱い立場の子どもを受け入れるということです。

今回、私はイエスの姿から、サーバントリーダーのあるべき姿、必要な本質を感じ取ることができました。イエスは常に弱い側にたつ人間の視点に徹しています。実際にイエスは罪人呼ばわりされている人やのけ者にされている人の味方で、その人たちと共に食事をなされ、時には癒しを与えられています。そしてご自身、「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方(神)を受け入れるのである。」とあくまでも謙虚に、「わたしを見よ」ではなく「神を見よ」と言って、成し遂げられた栄光を神に返されています。

私はその謙遜な姿こそ、サーバントリーダーに必要な真の姿であると感じます。

弱者の視点に徹するイエスの姿を学ぶことは、私自身のつたなさを感じると同時に、日常ではほとんど味わえない「喜び」でもあります。次回も与えていだだける学びに感謝し、イエスの愛に学んでいきます。


バージニアストック

卒業式 2018

カテゴリー:卒業式

3/16(土)に行なわれた卒業式についてお伝えします。
式の流れは昨年とほぼ同じなので、こちらをご覧ください。

今年の主な内容をご紹介します。

●式辞:名古屋柳城短期大学 学長 長縄 年延

・「チコちゃんに叱られる」というテレビ番組で「大人になるとあっという間に一年が過ぎるのはなぜ?」というテーマが扱われていました。答えは「人生にトキメキがなくなったから」。確かに、子どもは毎日をときめいて過ごしています。特に幼稚園の時期の子は様々な事柄に関心を持ち疑問を抱くものです。毎日が成長の連続なので、大人に較べると一年が長く感じられるのも確かでしょう。保育の道に進まれる多くの皆さんには、ぜひ、子どもたちと一緒になってトキメキの人生を歩んで欲しいのもです。

・これからの長い人生、色々な人と出会い、結婚をして自分の子を育て、保育などの仕事をしていく中で、苦しいこともありましょう。でも『愛をもって仕えなさい』という建学の精神を思い出しながら、一人ひとりがオンリーワンの人生である様に祈っています。本学も「新しい歴史への創造と愛」をテーマに、未来に向かって前進を続けてまいります。

●祝辞:学校法人 柳城学院 理事長 主教 ペテロ 渋澤 一郎

社会に巣立つ皆さんに向けて、二つの事をお伝えしたいと思います。

①建学の精神である『愛をもって仕えなさい』を職場や家庭の中で思い出してください。「愛をもって仕えようとしているのか」と自分自身に問いかけることによって、私たちは人格を高める方向に自身を変えていけるのです。

②イエス・キリストは言われました、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイ10:16)」。「蛇」はキチンと考えて良い知恵を働かせることの象徴です。時には、真実でも言わない方が良いこともあるでしょう。「鳩」は誠実に物事を受け入れる心のあり方を表わします。先ずは受け入れるという素直さが愛を生み出すのです。この「蛇」と「鳩」とを両方兼ね備えることで、私たちはバランスの取れた人間として歩んでいけるのです。

●後援会会長挨拶 川口 貴美

・保育現場では仲良く助け合う関係作りが大切です。子どもたちはそれを見て優しい子に育っていきます。幼稚園や保育園に子どもが喜んで行く姿を見て、親は安心しますし信頼も寄せてくれます。そうなれば親は園に協力的になってくれます。

・建学の精神『愛をもって仕えなさい』を忘れずに、子ども、同僚、親御さんを思いやる心を大切にしてください。保育現場で子どもが虐待されるというニュースが時々出ますが、その場に思いやりのある人がいれば、問題が起こるようなことは決してありません。愛をもって働くことで、世の中は良くなるし、暴言を吐く人もいなくなります。

●同窓会会長挨拶 加藤 久美子(監査役)

・社会に出たらスマイルを忘れずに! そして頭を使い続けていれば、年をとっても元気でいられますよ。

・皆さんには4つのHを心がけて欲しいと思います。頭(Head)でしっかり考え、優しさと思いやりの心(Heart)で人に接し、健康(Health)に気を配り、そして幸せ(Happy)を感じて生きること。

・今日からは皆さんは柳城のぞみの会の仲間ですよ。幸せをお祈りしています。

✝ ✝ ✝

●入場する司式者団

●卒業証書・修了証書・学位記 授与

 
 

●送辞

 

●答辞

 

●記念品贈呈

 

●表彰
①社団法人全国保育士養成協議会 会長表彰

②社団法人日本介護福祉士養成施設協会 会長表彰

●教職員による聖歌 476番「暗闇行くときには」

●卒業生・修了生による聖歌 417番「あなたの平和の」

●平和の挨拶

●卒業パーティー

 
 
 

✝ ✝ ✝

卒業する皆さん全員が柳城の精神を忘れず、こだわりの人生を歩まれるよう、神のお導きを心からお祈りします。(加藤)

「わたしは道であり、真理であり、命である。」
(ヨハネによる福音書14:6)

柳城キャンパスニュースもご覧ください】

【コリントの信徒への手紙第10章13節】
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

まず初めに皆さんと共に、8年前の2011年3月11日、午後2時46分、東北地方を襲った東日本大震災による地震、津波、福島第1原子力発電所の放射能汚染事故による多くの死者/行方不明者/関連死者合わせて22,131人、また今尚、プレハブの仮設住宅での生活を余儀なくされている3,100人、そして各地で避難生活をされている52,000人の方々を覚えて祈りましょう。(しばらく黙祷)

改めて、皆さん、卒業・修了、終業おめでとうございます。

柳城での2年間、3年間、4年間の学生生活を振り返ってみて、今どんな思いでここに集まっていますか。皆さんひとりひとりが、それぞれ違った思いをもって、この時を迎えていることでしょう。入学した時のことを思い出してみてください。何を考え、どんな夢を描いていましたか。そして、今卒業していこうとするこの時、皆さんの思いは、入学した時に持っていた思いと比べてみてどうでしょうか。同じですか、変わりましたか? 多分、だいぶ変わったのではないかと思います。こんなはずじゃなかった、現実は思っていたほど甘くはなかった。正直なところ、そんな心境でいるのではないでしょうか。

そして4月から始まろうとしている新しい職場での日々を想像するだけで緊張して、夢や希望や期待よりも、未知への生活への不安や心配のほうが、はるかに大きく心をとらえているのではないかと思います。

さて「艱難汝を玉にす」ということわざがあります。(Adversity makes a man wise.)

聞いたことがありますよね。人は、困難や苦労など大変なこと、すなわち試練を乗り越えることによって、大きく成長していく。逆境や試練は人を賢くするという意味のことわざです。

柳城の創設者(柳城保姆養成所初代校長)マーガレット・ヤング先生の85年間にわたるご生涯を顧みる時、まさにこのことわざが当てはまります。

1895(明治28)年、40歳で来日、1922(大正11)年、67歳で病状悪化のため10数年帰国、その後再来日され、約30年間働かれ1940(昭和15)年に名古屋で亡くなられました。ヤング先生は病弱で物静かな方でしたが、一面ではとても芯の強い方でした。それは神さまの愛に包まれていることを固く信じて絶えず生きてこられたからです。その当時40 歳で単身カナダから日本に来るということは、想像を絶する大きな決断だったと思われますが、彼女は神さまの愛を信じて、それを決行しました。そのままカナダにいれば、社会的にも経済的にも安定した生活と地位が保証されましたがそれを投げ打って、今で言うならば、阪神淡路大震災、東日本大震災に匹敵する濃尾大地震(1891、明治24年)の中で、家や親を失った子どもたちへの援助の手を差し伸べるために、イエスさまが自らの命を投げ出されて示された愛のお姿に従って来日されたのです。今のわたしたちには想像も及ばないような、困難や苦労、試練を体験し、それを乗り越えることによって、素晴らしい愛の実践者、名古屋における保育者の母となることを、神さまはお許しになりました。

最初に読まれた聖書のみ言葉「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」が、きっと彼女の中にいつも生きていたのではないかと思います。

柳城の見学の精神を表わす「愛をもって仕えよ」のみ言葉を実行しようとする時には、常に試練が伴い、困難、苦労が付きまといます。でも、そこには必ず神さまがあなたと共にいてくださり、あなたを支え、守り、励ましてくださることを信じてください。それを信じることができるなら、どんな試練にも困難、苦労にも正面から向き合っていくことができます。

3月は柳城の初代校長のヤング先生(3/29 85歳)、そのあとを継がれた2代目校長のボーマン先生(3/24 87歳1965年・昭和40年)、そして第3 代短大学長西原新一先生(3/15 89歳 1992年・平成4年)がお亡くなりになった月です。

2代目校長のボーマン先生もカナダで小学校教師、さらに大学で学び、宣教師としてアフリカでの学校教師を目指し、病院で看護の研修も積んだが、医師から体質的にアフリカでは3年は持たないと言われ、さらにインド、中国を志願したがそれもかないませんでした。そんな時、期せずして日本で働く道が開かれた。ボーマン先生がカナダから日本に旅立つ時、ある牧師が先生に送った聖書のみ言葉は「主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたをあがなう。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神、あなたの救い主。」(イザヤ43:1~3)でした 先生はこのみ言葉に大いに励まされたそうです。1ケ月半の長い船旅で来日、その後、日本語を学びながら東京、岐阜、大阪、松本、豊橋で働かれ、そしてヤング先生の最適の後任校長として1922(大正11)年から1941 (昭和16)年まで19年間、本学のために尽くされました。着任早々、44歳の時、幼稚園教師の免許を取得するためカナダ・トロントの師範学校で学ばれ卒業されています。

第3 代短大学長西原新一先生は1971(昭和46)年から1992(平成4)年までの20年間本学最初の男性の学長として働かれ、短大の新たな改革に積極的に取り組まれ、定員増も2回されました。また海外、特にアジアからの留学生の受け入れにも尽力されました。

皆さんが柳城で聴いた「愛をもって仕えよ」のみ言葉、ヤング先生やボーマン先生、西原先生が神さまの愛に生かされ歩まれた80年を超えるご生涯を、これから先、何か困難なことがあり、悩みに出会った時、ちょっと立ち止まって思い出してみてください。きっと大きな励ましを受けることでしょう。そこで皆さんが柳城で学んだ、目に見えない大きな収穫が、得られるものと信じます。

皆さんのこれからの日々が、神さまの愛に包まれて心身共に健やかに過ごせますよう、いつも祈りのうちに覚えます。主の平和が皆さんと共にありますように。(チャプレン 大西 修 主教)

今回の福音書は「イエスとサマリアの女」が扱われます。

イエスの時代、ユダヤ人はサマリア人を憎み差別していました。もともとは「イスラエル民族」というくくりでは仲間だったのですが、歴史の悲劇によって両者は分断されてしまったのです。そんな状況の中、イエスが旅の途中、サマリアの女に「水を飲ませてください」と気軽に声をかけるところから物語は始まります。彼女は最初、ユダヤ人であるイエスを冷たくあしらいます。

でも、この女はもともと信仰が厚かったみたいで、イエスとの会話のやり取りを通して、イエスがキリスト(救い主)であるかもしれないと感じるようになります。それで彼女は町の人々にもイエスのことを伝えます。そして何と2日後には、そのサマリアの町の人々は、イエスがユダヤ、サマリア、イスラエルなどという狭い範疇を超えた「世界の救い主」であることを理解するのでした。

差別される側のサマリア人がイエスのことを素直に理解していったという、この痛快な物語の中で語られるイエスの言葉を、私たちもじっくり味わってみたいですね(^^♪

礼拝、お待ちしています(^o^)/

✝ ✝ ✝

●テーマ:「オアシスになろう」
●聖書箇所:【ヨハネによる福音書4:14】
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

●説教:大西チャプレン
●日時:3月22日(金) 11:20~(保育科/専攻科 新2年生)チャペル

●次回以降の予定
・4/2(火)2019年度 入学式(体育館)
・4/3(水)大学礼拝オリエンテーション(保育科1年生)チャペル

今回心に響いた御言葉は…
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書16:6〜7)

十字架の上で息を引き取られたイエスの遺体は、アリマタヤ出身のヨセフの手により埋葬されました。

ヨセフは総督ピラトにイエスのご遺体を早急に引き取らせてくれるよう懇願しました。それはその日が安息日の前日であったため律法の定め(申命記21:22)のとおり、「その日のうちに埋葬しなければならない」と考えていたためです。

許されたヨセフは、岩をくりぬいて作った墓にイエスを急いで埋葬しました。墓の入り口は、頑丈な石で塞がれおり、誰も中に入ることは出来ませんでした。

安息日が終わった週の初めの日、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、買っておいた香料を持って墓に行きました。ところが近づいてみると、墓の入り口にあった大きな石は脇に転がされています。

驚いた彼女らが墓の中に入ってみると白い長い衣を着た若者が見えました。そしてその若者からイエスの「復活」が伝えられたのでした。

今回私は「神のご計画のもと、必要であった人間が、その時必要な行いをした」ということを実感しました。それは以下の点からです。

・アリマタヤのヨセフは身分の高い議員でしたので、保身のためか、自分がイエスの弟子であることを隠していました(ヨハネ19:38)。しかし十字架上の師イエスのお姿を見て黙っていられなくなり、勇気を出してピラトにイエスのご遺体を引き渡してくれるよう願い出たのでした。

・ピラトはヨセフにイエスのご遺体の引き渡しを許可しました。それは全く特別の待遇でした。本来十字架刑の人間はそのまま置き捨てられていたのです。

・女性たちは、最後まで十字架上のイエスの姿を見つめていました。また、埋葬される姿も彼女たちは見届けていました。その女性たちがイエスの復活をはじめて知る証人となったのです。

このように神から役割を与えられた人間は、一人ずつ神のご計画のとおり行動したのでした。

今回、41回にも渡ったマルコ通読の最終回となりました。

その中で私は福音書を通してイエスの御姿を学び、行動し、仰ぎ、ともに歩むことを学びました。その大切な行いをアリマタヤのヨセフが最後に見せ、私に教えてくれたと思っています。

イエスは、事前のお言葉どおり十字架に架かり、そして復活なされました。私たちクリスチャンは、イエスが自分の体の中に復活なさり生きておられることを感じ、喜びとしています。

私自身、クリスチャンになったばかりで、学びも浅い人間です。そんな私ですが、約2,000年前のアリマタヤのヨセフの「勇気」が、現代の私たちにイエスの復活を告げ知らしめるキッカケになったことに大きな喜びを感じています。

バイブルタイムでは、これからも福音書を通しイエスのお姿を学んでいきます。

「愛をもって仕えよ」
その建学の理念を礎に。
ヤング先生が愛した、子どもたちの未来のために。


折り紙チューリップ

今回の聖書箇所は「忍耐」を扱った有名な言葉です。

耐えられないような試練をあなたがたに会わせようとは神はなさらない。だから、先ずは耐えて頑張ってみなさい。神は乗り越える方法もちゃんと用意して下さるから・・・というのが趣旨で、この後に「だから、間違っても他の神に頼って偶像礼拝などしてはいけません」と続きます。パウロらしい力強い言葉です。イエス・キリストならば、こんな場合は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ11:28)」と声をかけて下さるのかもしれませんが。

人生に試練はつきもの。だから、苦しい時に心の支えになるものを持っている人は幸せですね。その支えの一つに聖書を加えてみてはどうでしょうか。

礼拝、お待ちしています(^^♪

✝ ✝ ✝

●テーマ:「試練に耐える」
●聖書箇所:【コリントの信徒への手紙一 10:13】
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

●説教:大西チャプレン
●日時:3月15日(金)
11:00~終業礼拝(保育科/専攻科1年生)【チャペル】
13:15~卒業・修了礼拝【体育館】
3月誕生日の祈りを行います。

●次回以降の予定
・3/16(土)卒業証書・修了証書 授与式
・3/22(金)2019年度 始業礼拝(新2年生)
・4/2(火)2019年度 入学式

今回心に響いた御言葉は…
しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。(マルコによる福音書15:37〜41)

イエスはゴルゴダの丘で十字架刑に処されました。昼の十二時には、全地が暗くなり、それが三時まで続いたと記されています。

その三時にイエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と大声で叫ばれました。

そばに居合わせた人々は、これを聞いて、イエスがエリヤを呼んでいると思い「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」とあざけり、イエスに気つけのための酸いぶどう酒を飲ませようとしました。

しかし、イエスはその時に大声を出して、息を引き取られたのでした。

私は今回の通読でも多くのことを学びました。

・マルコが伝えるイエスの最後の言葉は詩篇22篇1節です。この22篇は全篇が神への賛美の喜びに溢れており、イエスはその最初の1節を語ることで、神への栄光を示されたのです。
・イエスが息を引き取られたと同時に、神殿の一番聖なる場所(至聖所)を隠していた垂れ幕が裂けました。それは神殿の権威の喪失と、神が宗教指導者を離れて人民の側につかれたことを象徴するものでした。
・イエスの十字架刑を終始見守ったローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いました。それは紛れもなく信仰の告白だったのです。
・十字架のイエスのお姿を遠くから女性たちが見つめていました。イエスを師と仰ぎ、彼の生活を支えていた女性たちです。しかし常にイエスと共にあった弟子たちの姿はそこにはありませんでした。

イエス・キリストは十字架の処刑を
自ら進んで受けられ  
迫害する者には悔い改めを  
暴力をふるう者には赦しを  
逃げて行く弟子には恵みを  
泣き叫ぶ女性には慰めを
祈られたのです。
【柳城短大  朝の祈り『人を愛する私たち』より】

マルコ通読も次回で最終回となります。
40回を越える恵みに感謝して、いっそう真摯に学びを進めて行きます。


プリムラ・マラコイデス

今回心に響いた御言葉は…
そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコによる福音書15:29〜32)

総督ピラトがイエスの死刑を決定するまでの間、ピラトは3度にわたり宗教指導者らや民衆たちにイエスの行ったことが罪にあたるのかどうかを問いました。指導者たちの企みが分かっていたピラトは本音としてはイエスを殺したくなかったのでしょう。

しかし民衆が「イエスを十字架につけろ」と騒いだことで、ピラトは自分の保身を選んだのでした。ユダヤの治安を乱すことは、自分の統治能力の低さを示すことになるからです。

判決を受けたイエスは、兵士らから侮辱を受けた後、十字架につけられるため外に引き出されます。そして、ゴルゴダの丘で十字架刑に処されたのです。左右二人の犯罪人とともに…

そこを通りかかった人は「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ(29〜30)」と言ってイエスをあざけります。同様に、祭司長、律法学者たちは、かわるがわる「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう(31)」と侮辱の言葉を放ちました。彼らは、イエスの苦しむ姿を見て心を痛めるどころか、さらにその苦しみに追い打ちをかけたのです。そこにはひと欠けらの悔い改めもありませんでした。そして最後まで「目に見えるしるし」にこだわり、イエスの心が結局最後まで理解できなかったのです。

今回の通読では多くのことが学べました。

・民を導くはずの宗教指導者らは、民衆らと同様にイエスをあざけり侮辱しました。その姿は、彼らが民衆と本質的には同じレベルの人間であることを証明したのです。
「他人は救ったのに、自分は救えない。」 イエスへのこの罵倒は、実はキリスト者への最高の誉め言葉だったのです!
・聖書に出てくる情けない人物を、読者はけなしてはいけない。その人物は私たちの姿かもしれないからです。私自身、いつピラトのように保身に傾くか分かりません。
・イエスの次元は私たち人間には計り知れない高みです。どのような状況下にあろうとイエスは「自分自身」を求めてはいなかった。ただ神の御心に委ね、十字架に身を置かれたのでした。

次回も真摯な心をもって、頭ではなく心で学びが感じられるよう努めていきたいと思います。主に感謝。


コスモス

今回心に響いた御言葉は…
しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マルコによる福音書14:61~62)

ゲツセネマで捕らえられたイエスは、祭司長、長老、律法学者らによってエルサレムにある最高法院の裁判にかけられました。そこではイエスを死刑とすることを前提とした権力者たちの愚問極まりない尋問が行われたのです。

イエスへの証言が食い違うのにしびれを切らした大祭司は、イエスに自ら問いただしました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか(14:61)」と。すると、イエスはそれまで黙っておられましたが、その質問に「そうです(I am)」とお答えになられました。イエスは最高法院において御自身が「神の子メシア」であることを明言なさったのです。

イエスはその後連れられたローマ人総督ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか(15:2)」との問いには、「それは、あなたがたが言っていることです。」とお答えになって「ユダヤの王」を否定されました。

今回、私はこの二つの尋問に着目し、尋問した彼らが重要視していたことを考えてみました。

ユダヤの宗教指導者たちはイエスを「神の子メシア」であるわけがないと断罪しました。それは彼らが、ソロモン、ダビデのような強くて立派に見える支配者こそメシアであると考えていたからです。だから、民衆から絶大な人気を誇っていたイエスが妬ましく、抹殺したい対象に思えて仕方がなかったのでした。

一方、ピラトの関心はローマにおいての自身の保身にありました。自分がユダヤの総督である間に社会的トラブルがあってはならない…。だから、イエスが「ユダヤの王」を否定したことをきっと安堵したはずです。

尋問した彼らの視点は、常に自分の保身であり、権威の維持でした。

イエスのお答えは彼らの視点とは全く次元が異なっています。イエスは「I am 」、その偽りの無い御言葉によって、私たちに、当時もそして今も神の子イエスそのものが「愛」であり「救い主」であることを宣言なさっています。それは「I am 」の返答が自身の死刑を決定することをご存知でも、常に「神の御心のまま」に行動された、まさに見返りのない愛だったのです。

イエスの受難は続きます。次回もイエスの御姿を学ぶことで私自身の信仰の礎を重ねていきます。


ヒマワリとスイセン

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